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演じるべき役割が見つからないとしたら

カテゴリ:自分事

ユング心理学にペルソナという考え方があるそうだ。ペルソナとは人が外の世界に向かって見せる顔、場面に応じて演じる役割のこと。正しく理解してはいないけれど、「役割」にフォーカスしてこれまでを振り返ってみると、現状を把握する切り口のようなものが見えてきた気がした。

このブログでは報告していなかったけれど、2020年4月から実家に戻っている。それまでは秋田でフリーランスのように複数の仕事を抱え、場面場面で求められる役割を自分なりに使い分け、役割を果たそうとしてきた。

実家に戻った今では、その役割がほぼ一つに集約されつつある。そうして気づいたのは、自分が仕事以外に役割をほとんど持っていない、ということだった。

より正確に表現するならば、仕事以外の場面では、自分がどんな役割を演じればよいか、うまく把握できない、と言えばよいだろうか。それは今に始まったことではなく、たぶん、物心ついた時から、基本的には変わっていないように思う。

学校は、僕にとって、役割をうまく見出せなかった最たる場だった。そのときどきで同級生や先輩・後輩、先生とコミュニケーションをしてきたからには、何らかの役割を見出していたはずだが、その役割を果たすことにしっくり来ていた実感がない。

一方、社会人になってから、仕事という場面では、役割に迷うことも、違和感を感じることも、それほどはなかった。就職活動中から、なんとなくその未来が見えていたのか、「働いたら負け」みたいな感覚はほとんどなかったように思う。

その仕事に対しても、自信を失ったことはあった。それは、今思うと、役割が見いだせない不安ではなく、役割を果たすだけのスペックがなければ役割を失ってしまう、という不安からだった。

その不安は、仕事を通じて、役割をとりあえず果たせているという感触を通じて、少しずつ解消された。もちろん、至らないことはたくさんあったし、周りと比べれば自分の働きなど意味がないように思えることばかりだったけれど、仕事を通じてどんな役割を演じるべきか、どう演じたらよいかは、だいたい把握できていたように思う。

役割を演じられそうな現場、役割がありそうな現場を選んでいた、という面もある。それはそれで、自分なりの強みのようなものかもしれない。仕事を離れる決断をしたときには、そろそろ役割を終えそうな予感を感じ取っていたようにも思う。

ところが。これまで担ってきた役割の諸々から離れ、実家に戻ってきてみると小売業というほとんど未経験の現場で、さらにコロナ禍に出鼻をくじかれてしまったこともあってか、僕は自分の役割を上手く見定められないでいる。

役割が複数あるということは、社会との接点がその分だけあるということ。役割が絞られたことで、これまで接してきた人とのつながりは、過去の仕事の文脈でなく、今の仕事を前提とした関わりに変わっていく。

以前仕事を共にした人から、今度は酒販店として注文を受ける。それはとてもありがたく、ときに恐れ多いとすら思えるけれど、関わりの在り方は多様ではなくなったし、僕自身からも、自分から外へとつながるモチベーションの源泉が、限定的になっていくような印象がそういえばあった。

もちろん、今の役割だからこそ可能な、新しいつながりというのも生まれている。でも、社会とのインターフェースが、それしかない。

実家に戻ったことで、地域社会との接点を家族に任せられるようになったということも、一つの要因ではあるかもしれない。一人暮らしならば、大なり小なり、接点を持たざるを得ない。それが地方であればなおさらだ。

結局、これまでずっと働いてきて、仕事以外での役割はほとんど見い出せず、見出さずとも生きてこれてしまった。もはやほかにどんな役割を演じればよいか検討もつかないし、演じたい役割がそもそもイメージできない。

春先から、実家の仕事とは別に、社会事業分野に自ら首を突っ込み始めたのは、こういう状況があったからかもしれない、と今更ながら思う。首を突っ込めば巻き込まれるのは明らかだったが、それでもわざわざ関わり始めたのは、そこに演じられる役割があることを察知してしまったからだったのだろう。

演じたい役割を選んでいるのか、というと、そうではないのかもしれない。自分が演じられそうな役割があっただけ。あるいは、演じたいとどこかで思っていても、演じ方を見出せそうになければ、自分とは関係がないものと処理してきたのかもしれない。

演じられるかどうかが自分にとっては大事で、それは過去に(主に学校社会で)上手く演じられなかったことと深く関わっているように思えるが、恐らくそのことによって、僕は他人への関心をほとんど持たないようになった。

「あの人と関わりたいか」ではなく、「自分が関われるかどうか」に注意が向いている。誰かではなく、自分に向けたベクトル。知り合いは増えても、友達は一人もいない。

「役割」について考えるにつけ、自分というものからすべての役割がはがされたときに、そこには空洞しかないのかもしれない、というイメージにたどりつく。

自分が仕事という場面ですらも役割を果たせないのではないか、という不安に駆られた大学4年生の頃を思い出す。

インターン先で一人静かに挫折を経験し、ある朝無断欠勤して、そのままバックレようとした矢先、お世話になった人事の方が自宅を訪ねてきた。

「とにかく、どこかでお茶でもしないか」と言われ、貧乏学生には縁のない近所のロイホに場所を移す。そのときの会話はまるで覚えていないけれど、自分が発した言葉だけは記憶にある。

「僕は、鎌倉の大仏みたいな人間なんです」

あんなに立派で大きいのに、中は人が入れてしまうほどの空洞。インターン先に採用された時点から、自分の中身以上に外見が評価されたという感覚が残り、なんとか自分の中身を実のあるものにしなければ、と、道筋も見えないのにもがいていた。その必死さゆえに、小さなミスの積み重ねをきっかけに、簡単に心が折れた。

それから、紆余曲折を経て、中身はともかく、仕事という場面で役割を演じることはできそうだ、という感覚を得て、何とか今に至っている。

でも、結局、中身が伴っていないことには変わりがない。役割をはがされたとき、きっとそこには、どこにも行けない自分がいるのだろう。定年退職した途端に自宅でごろごろするしかなくなったお父さんたちみたいに。

自己評価と周囲の評価にギャップを感じ、実は中身がないことがいつかバレて見放されてしまうのではないかと不安に思う。そういう傾向を「インポスター症候群」と言うのだそう。女性に多いそうだけれど、関連の記事を読むと、それなりに思い当たる節がある。ということは、何らかの克服の手段もありそうではある。

しかし、克服できたとして、どんな変化が待っているのだろう、と思い巡らせど、実のところ、その先がイメージできない。未来が見えない、お先真っ暗というよりも、未来の”像”が描けない。行きたい方向がない。それが現状だ。

もし明日死ぬとしても、やり残したことも、行きたい場所も、会いたい人も、思い浮かばない。かろうじて食べたいものならありそうだけど。

インポスター症候群なのか何なのかわからないけれど、克服したところで、行き場がないことには変わりがないように思う。十数年もかけて、結局、あの鎌倉の大仏に戻ってきてしまった。しばらく、ここで立ち止まることになりそうな気がしている。

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