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冬の夜、北国の湯沢で凍えそうになることの贅沢に心震わす

カテゴリ:世の中の事

「グランピング」が流行っているのは、率直に言って「良いとこどり」だからだろう。屋内では決してできない体験を、屋内のような快適な環境でしたい。矛盾しているニーズを都合よく満たしてくれるのが贅沢というわけだ。しかし、快適さが安定的に保証される現代だからこそ、本当の贅沢さは、あえて雪山でキャンプをするような、美しく過酷な自然に飛び込むような体験に宿るのかもしれない、とも思う。

あなたの身体が発酵を体感する48時間

この冬、「fermentators week winter edition」と題し、発酵にどっぷりと浸かる48時間のフードツーリズムを開催。江戸時代から続く秘湯と、発酵と健康の第一人者と共に発酵をディープに探究するフードソンが、あなたを待っています。舞台は、雪深い秋田県湯沢市・小安峡にある「とことん山」。旧スキー場の麓にあるこのキャンプ場は、冬場には分厚い雪に覆われ、自然の美しさ、大きさを五感で体感できるスポット。暖房完備のコテージ&バンガローに寝泊まりし、24時間入浴可能な露天風呂を楽しみましょう。

https://bnana.jp/products/48hours-48/

「発酵都市」を掲げて突如開催された9日間の祭典「fermentators week」から4カ月。次の舞台を冬の「とことん山キャンプ場」に移し、1泊2日(前泊を入れると2泊3日)の短期集中で発酵を味わい尽くす試みが行われた。行程はリンク先の通りで、僕は1日目昼のとことん山からの合流だった。

前日からバスで都内を出発し新庄で宿泊した一行は、朝になるまで散々に飲んできたそうだ。酔っ払いの、ちょっと危なくて、だからこそ笑い話になるようなエピソードを伝え聞き、まるで大学生の合宿みたいだ、と思った。そうなのだ。コンセプチュアルで高尚なイベントと捉えられがちなのだけれど、その根っこにはれっきとした「遊び心」がある。旨いもので腹を満たし、美味い酒に酔いしれ、心行くまで温泉を堪能したい。本能が刺激され、心と体が喜ぶような体験を欲するからこそ、人は「発酵都市」に惹かれるのだと思う。

会場の「とことん山キャンプ場」に着くと、背丈を越える高さに積もる雪の中に、椅子とテーブルが並べられた空間がひらけていた。珍しく晴れていたとはいえ、ここは街中から離れた山の中だ。3月上旬にイベントを野外でやり通そうという発想は、地元の人間からはまず出てこないだろう。何しろ寒いし、屋外となると暖をとる手段が限られる。しかも冬の秋田は天気が読みづらい。

しかしながら、予想通りに、いや、予想以上に、雪に囲まれながらの食事は奇妙で心躍る体験だった。薪が焚かれようとも芯から冷えるような寒さで、ホッカイロも頼りない。サーブされた一皿も冷めるのが早い。それでも、昼は白く輝く雪の美しさに、夜は最小限の明かりが演出する幻想的な晩餐会に、思いがけず胸が高まってしまう。食事を口に運ぶ度に、神経が舌に集中するのがわかる。寒さに凍えながらも、口内にあふれる喜びに抗うことができず、心身が混乱してしまうようなひととき。

「寒さ」は明らかに不快な要素のはずなのだが、寒さが満足度に直結する事態になっていない。それは、振舞われた唯一無二の発酵料理、染み渡る温泉、そして発酵や食にまつわる第一人者によるレクチャーの質の高さの為せる業であったのは間違いない。質の高いコンテンツがあってはじめて、雪の中にいることが必然になり、価値になるのだ。みな口々に寒い寒いと言いながらも、酒を片手に焚火の周囲に寄り集まり、暖房のきいた二次会会場に移動しようとする人が一向に現れなかったのが、その何よりの証拠だろう。

2日目の午前から昼にかけて行われた、プロのシェフと共に麹を用いた料理をつくるワークショップも素晴らしかったと聞いている。僕はほとんどその現場にいれなかったが、料理が完成したころに会場へ足を運ぶと、みな満足げな顔だったのが印象的だった。屋外での調理で、調理器具からなにから制約ばかりだったというのに、その道のプロと行程を共にすることの楽しさを多くの人が口にしていた。好奇心旺盛な参加者の相互作用がこのツアーをより濃いものにしていたのかもしれない。

もちろん、2回目のイベントで、しかも冬の屋外での初の試みとなり、課題がなかったかと言われれば嘘になるだろう。しかし、それ以上に、48時間はこの土地の可能性を拓いたと言っていいはずだ。冬の秋田にはまだまだ発掘されていない遊びがあり、発酵には掘れば掘るほど楽しい奥深さがある。次なる「fermentators week」は5月17日~19日とのこと。もっともっと多くの人が、「発酵都市」で起こっていることに触れていってほしいと思う。

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「人口減少」は現象か、問題か

カテゴリ:世の中の事

日本が抱える「人口減少」を取り巻くあれこれでもやもやすることが多い。その理由を考えてみた。

「人口減少」は、グローバリゼーションとグローバリズムを区別するように、その周縁にある言説もまた区別しなければならないのではないか。前者は現象、後者は”ism”(主義、学説)である。「人口減少」の言説の多くは、それを単なる現象と捉えることに満足せず、解決されなければならない問題であることを前提として語ろうとする。こうした言説は、地方に呪いのように浸透している。

“ism”としての「人口減少」は、現象を解決すべき問題に据え置き、かつイシューを抽象化・単純化する。と同時にその問題の最中にいる人(それはあらゆる人になってしまうのだが)の言動に、一定の方向付けを迫る。そういう作用がある。年末年始で話題になった某地方紙の記事(特集)は、まさにその端的な例と言ってよい。「人口減少」があらゆる人の生活に大小さまざまな影響を与えるということと、それ自体が”問題”であり解決されなければならないものであるということは、区別されねばならない。これは、”「人口減少」が一切のネガティブな影響を及ぼさない”という主張ではない。グローバリゼーションという現象が論理的帰結としても事実としても都市化/過疎化や物理的距離の圧縮をもたらすように、「人口減少」も、人手不足や後継者不足、社会保障の負担増といった状況をもたらすことは否定し得ない。ここで主張されるのは、「人口減少」下でそうした状況が生み出されるとしても、「人口減少」そのものが問題であるという言説は言説でしかない、という見方である。

ソトコト2017年12月号では、台湾で古い建物や昔からの街並みを生かしたまちづくりのプレイヤーとその様々な取り組みが紹介されている。彼らの志や「文化をつくる」「自分たちが楽しめることをやる」というスタンスは素直に共感できるものであるが、その内容としても、仮にこれらが日本国内の事例として紹介されたならば、ほぼ違和感なく受け止めることができるだろう。ただ一点、「人口減少」の文脈がそこに組み込まれていない、ということを除いて。

視点を変えてみると、(ソトコトの紙面上においては)台湾でのこうしたムーブメントは、「人口減少」の文脈にとらわれていない、と読むこともできる。記事中で紹介される台湾国内の様々な施策や組織は、結果として、「人口減少」が表面化する社会(たとえば日本)においてもぜひとも実現されるべき事例となっている。それならば、「人口減少」がもたらす様々な状況に対する施策は、「人口減少」を問題視する文脈を必ずしも必要としないとも考えられないだろうか。

「人口減少」は、「地方創生」という号令の下で急速に”問題”として浸透した。都市部への集中が進み、「人口減少」にあえぐ地方に手を差し伸べ、国を挙げて「人口減少」に立ち向かうのが「地方創生」というシナリオであった。しかし、台湾の事例は、「人口減少」という文脈を待たずして、「地方創生」で奨励されるような事例が生まれつつある。

ここで個人としての結論を述べるならば、「人口減少」は単なる現象である。もちろん、この現代日本において、特に地方でそうした背景がありありと横たわっていることは了解せざるを得ない。そうだとしても、いや、だからこそ、「人口減少」”ism”に囚われず、(台湾の事例がそうであったように)目の前にある個別具体の問題を解決しようとする個人や組織の小さな取り組みに希望を見出すべきではないか、と思う。

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Code for Akitaのキックオフイベントに参加してみて

カテゴリ:世の中の事

昨日、Code for Akitaのキックオフイベントに参加してきました。

オープンデータ活用しようぜ! というお題目はぼんやりと分かったつもり。でも、「じゃあ具体的にこの秋田においてどういう場面で活用できるのだろう?」ということもイメージできない状態での参加。会場である秋田市役所に向かう直前は「まあ、仕事の一環だから」というくらいのモチベーションだったというのが正直なところですが、とりあえず行くだけ行ってみたのでした。

しかし、結論から言えば、あの場にいれて良かったなあと思っています。備忘録がてら、ここに(あくまで僕が)何をお土産に持ち帰ったのかを書いてみようと思います。

何のためのオープンデータ?

一言で言うならば、「オープンデータの活用」というのは目的ではなく手段であるという視点を得られたのが、当日の大きな収穫でした。では、その目的とは何か? 僕は、「日本社会のOSのアップデート」ということなのかな、と受け取っています。

僕が住んでいる五城目町では、みんなが好き勝手に町というフィールドで遊ぶように仕事したり、企てたり、仕掛けたりしています。そこには行政の明確な「計画」がありません。トップダウンの強いリーダーもいませんし、スローガンとかあったっけ? というレベル。あえて言えば、(一部の人たちで)「世界一子どもが育つまち」というゆるいテーマ設定があるくらい(「世界一子どもが育つまちをつくろう!」でもないところからしてゆるい)。

人口減少とか少子高齢化ってとりあえず「課題だ」って言われがちなんですよね。ところが、五城目に住んでみると、単なる「現象」でしかないよね、という認識を共有する人たちと出会いました。こういう大きな言葉を「課題」に設定すると、経験則ですが、検討された「解決策」も大味になる印象があります。そうすると、そのお題目に集まる人たちの思惑もばらばらになり、課題解決は進まないし、結果、疲弊する。そういうパターン、見たことありませんか?

五城目で起きていることは、「課題解決」というより「一人ひとりがやりたいことを必要に応じて協働しながらやっている」という表現が近いように思います。やりたいことをやっているから継続する。やりたいことを互いに支え合う文化もゆるやかにある。だから、秩序立っていないけど、何かが起きる。それが「良いもの」だったら、結果的に町のため、地域の人のためになる。

いきなり五城目の話になってしまいましたが、何を言いたいかというと、オープンデータの活用は、こうした「勝手な企て」を促進するものである、ということです。この文脈から総務省が掲げる「オープンデータの意義・目的」を読んでみると、なんとなく、捉えやすくなるような気がします。

まちづくりをアップデートする

“まちづくり”という言葉はいろんな人がそれぞれにイメージするものが違うと思いますが、五城目のそれは「まちづくらないまちづくり」と言えるかもしれません。なにせ、町に関わる人が好き勝手に朝市を盛り上げたり、ラーメン二郎をみんなでつくったり、パーリーしたり、空き家をリノベしたりしているわけですから。そうした点の一つ一つが集積して線になり、面になる。10か年の都市計画がなくても、ぽつぽつとそうした動きが生まれている。

ここにおいて、行政は、住民にとって一つのリソースであり、必要に応じて活用するものとなります。もちろん、行政が主体となり、予算をつけて取り組む事業もありますが、その守備範囲を超えたところを、住民側が勝手にカバーしていると見ることもできる。しかも、当事者である住民が自ら着手するものだから、場合によっては具体的な課題に対して効果的な解決策が施されるケースも出てくる。

こうした民間主導の企てがぽこぽこと生まれてくるのが21世紀の”まちづくり”の在り方なのだろうな、というのが直感的に思うところです。やりたい人がやりたいことをやりたいようにやる。これを促す手段の一つとして、オープンデータと、それに伴うテクノロジーの活用があるのではないでしょうか。

昨日のイベントで紹介された事例として、「保育園マップ」というアプリがあります。北海道のとある女性が「保育園マップが欲しい」という一言から開発されたこのアプリは、保育園の位置情報だけでなく待機児童数などの情報が閲覧できるものです。現在も電話したりネットで調べたりすれば探せないこともないものですが、データとして活用するには「HTMLから引っこ抜く」といった(活用する側からすれば)無駄な手間がかかる場合も多い。子育て中のパパママがそれぞれ情報を取得しているなんて考えているだけで……実に効率化したくなる案件です。実際、リリースされてからの反響は大きく、今や各地で「保育園マップ」がつくられているそうです。

もちろん、行政等が持つ情報を、誰でも入手できて活用しやすい形式でオープンデータ化するというだけで、何かしらの解決策が出てくるとは限りません。しかし、活用可能なデータがあることで、誰かがそれを勝手にハックしていい感じに実装してくれる可能性が生まれるわけです。その可能性に賭ける。なんなら、ハッカソン・アイデアソンという場で(タウンミーティングでもいい)、住民のニーズを引き出し、しまいにはプレイヤーを集めてしまえばいい。「住民主体」とか「官民連携」という言葉の想起させる未来っぽい雰囲気、ありますよね。

Code for Akitaの意義

一人一台スマホを持つ時代ですから、情報をデジタル化し、共有可能なものにすれば、みんなが利用できるようになります。ガラケー時代は、山中で不法投棄された車を見つけ役場に電話しても、口頭で位置を伝えるのが難しかった。しかし今や、写真を撮って位置情報を送れば、手間なく的確に通報できます。

「こうしたら、もうちょっと便利になるのに」

オープンデータは、こうした個人の思いつきがテクノロジーによって実現しやすい時代の要請とも言えます。とはいえ、一般人がすぐにアプリ開発できるわけでもないし、そもそもデータがあってもそれをどう活用できるかをイメージするのも難しい。だからこそ、Code for Akitaのように、専門性を持ち、かつその専門性によってより住みやすい地域づくりを一般の人たちの手元に引き寄せようとする人たちの存在が大きくなります。

五城目の人々が手掛けるような、好き勝手な「まちづくらないまちづくり」は、オープンデータの存在によってそのカバレッジを一層拡大できるでしょう。一方、「データがあるから活用してみる」という思考では、いまいちつまらないものばかり出てくる予感もあります。(たぶん)オープンデータは、それを扱える専門家だけでなく、その当事者や現場のプレイヤーがいてはじめて生き生きと活用されるもの。その点で、中途半端にエンジニア経験があり、一方そうした現場にも片足を突っ込みつつある僕自身も関われる部分があるように思います。

今回のキックオフイベントの多くはIT関係者と行政関係者で構成されているようでした。そりゃあ、「IT」とか「オープンデータ」とか言われても、一般の人は寄り付きがたいわけで。この隔たりをどうブリッジできるか。

大枠として、自分なりに「オープンデータ」を把握できたかなと思います。今後はもう少し事例を調べつつ、例えば五城目だったらどんな可能性がありそうか、具体的なイメージができるようになりたいと思っています。

「ITとかよくわからんけど、なんか面白そう」って方、ぜひ一緒に勉強しましょう!

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