Category Archive: 自分事

誰かに変わってほしいと願った瞬間にこぼれ落ちてしまうものたちのこと

カテゴリ:自分事


「誰かを変えたい」は、あまりうまくいかない

「高校生が自分のプロジェクトを考える」とか、「大学生がビジネスアイディアを考える」とか、そういう場面に居合わせる仕事をしていると、「あ、またこのパターンか」と思う瞬間はどうしても訪れる。だいたいそういうケースはうまくいかないのが目に見えているから、介入できるときはなるべく早めに介入するようにしている。

「よくあるパターン」はいくつかあるが、その代表的な例として、「誰かを変えたい」という願いが込められているものは、まず煮詰まってしまう。他人はそんなに都合よく変えられない。変化を外から強要されることはかえって不快に感じることが多い(だから先生も親もうざったいのだ)。だから、それがプロジェクトだろうがビジネスだろうが、他人に受け入れられない可能性が高く、うまくいく見込みは薄い。

「誰かを変えたい」という願いは、「自分以外のものに変わってほしい」という願いでもある。この現実の社会が変わってくれないことには、自分が困るのだ。そうであるならば、自分が本当は何に困っているのかをちゃんと見つめないといけない。原因が解決されない限り、それは対処療法にしかならない。

変わってほしい人ほど、変わりたがらない

具体的に課題に直面している誰かがいて、その人の状況を変えてあげたい、という願いに昇華されると、前に進む見込みはぐっと高まる。ただし、その願いを届けたい張本人にこそ届きづらくなるという悲しいすれ違いもまた起こりうる。

僕自身もこのジレンマに度々直面する。教育の分野にいたからかもしれない。勉強から逃げる生徒ほど進路に困らないために勉強してほしかったし、他人を変えようとするアイディアを出す人には自分をこそ見つめてほしかった。しかし、こちらのささやかな願いはだいたい叶うことがない。肝心の本人がそれを拒否しているからだ。

来春から、「キャリア・デザイン」に関する授業を一部受け持つことになった。ここにもジレンマがある。キャリアをデザインしてほしいという相手は、往々にして、自らのキャリアをデザインする必要性を認識していないからだ。大教室での講義ともなれば、その必要性を説くのはなおさら難しいとは容易に想像がつく。正しさだけでは伝わらない。

たぶん、相手が受け取りたくなるような形に整えることが大事になってくるはずで、それは中身を充実させることとイコールではない。どちらも大事で、どちらにもそれぞれの専門性があり、職業として成立するだけの需要がある。

自分以外のものに変化をもたらすというのは、だから、そう簡単ではない。もうそろそろ、高校生や大学生にも率直にそう言っていくべきかもしれない、と思いつつある。


関連する記事

あるものだけで勝負するのが楽だったとしても

カテゴリ:自分事


今日耳にしたあれこれのおかげで、気分が暗くなっている。「明日は我が身」という言葉が生々しく脳内再生される。いや、もはや、今すでにその渦中にいるのかもしれない。いつだって、自分の状況を客観視することほど難儀なものはない。

この夏に約35,000字という分量をねん出するプロセスを経て、自分の語彙力が枯渇してしまったような感覚がある。35,000字を書ききるために、一旦あるものを出し切ってしまった。それから、書くことがやや無味乾燥なものになっている。たぶん、書くという行為を通じて、僕は自分の中で言語化できていない物事に出会っていたのだと思う。出し切ったあとに自分の中から出てくる言葉に新鮮味がない。自分の文体に対して、自分自身がそろそろ退屈を覚えている。「ああ、またこの表現が出てきてしまったか」と。

去る9月にも、それなりのボリュームの文書を仕上げた。単純に分量だけカウントすると、実は10,000字を優に超えていたらしい。幸か不幸か、その作業は苦痛ではなかった。これまでの経緯を整理して、相応の文体に乗せて書けばよかったから。しかし、薄々感づいてもいる。苦痛を避けたのだと。出し切ったと言いながら、なお根深く言語化されていないものがどうやらある。そこに取り掛かるのを早々に諦めた自分がいたのは、今や認める他ない。

少なくともこの1年程の間、僕は過去のストックを消費するようにしか仕事をしていなかったということになる。もちろん、断片的にまとめてきたアイデアは幾つかあったし、わざわざ東京や京都に出かけて学びに行くこともあった。しかし、それらはその都度活用する分にはよかったが、まだ僕自身のコンテンツになりきっていなかった。身に余るような機会に預かり、自ら企画を持っていこうと勇んだ矢先、いまいち進歩していない自分と対峙する羽目になったのだった。

とにかく、腰をすえて、自分の中から何かを生み出すしかない、のだと思う。自分自身の言葉で、ぼんやりとしたアイデアを、誰かと共有できるところまで、形づくる。借りてきた言葉、どこかで見た表現でなく、拙くとも自分の言語で。


関連する記事

「Spontaneous」という用語とそれを取り巻く世界観について

カテゴリ:自分事


「Spontaneous」という言葉でイメージするもの

Spontaneous Entrepreneurship|野生的起業論|ドチャベン2018 秋田県

「ドチャベン2018」で掲げられているキーワードは「野性的起業論」。また、「Spontaneous Entrepreneurship」という表現が英語表記として用いられている。この「Spontaneous」という英単語は、「自発的, 自然発生的」といった意味合いがある。ライターとして記事を書く以上、その意味するところを自分なりに落とし込む必要がある。仮説を持ちながら記事を書き、記事を書きながら仮説をブラッシュアップする。何回かの反復の結果として、ここに言語化を試みてみたい。

「Spontaneous」という言葉が取り上げているものとして大きく2つあると思っている。第一に、「個人」の自発性に対する注目がある。個人の内側から自ずと溢れ出てくる想い、ビジョン、そういったものがここでは重視される。イシュードリブンではなく、ビジョンドリブン。過去志向ではなく未来志向。ニーズではなくウォンツ。誰に頼まれたわけでもなく、自らの望むものを自らつくる態度。

第二に、あるシステム全体を捉える視点がある。ここでは「A ⇒ B」という線形の因果関係ではなく、もっと複雑な、いわば生態系のようなものをイメージしてもらえばよい。「Spontaneous」とは、そのシステムの本来的な循環を促進することで自然と生まれてくるものを信頼する態度と言えばよいだろうか。システムが他と比べて劣っている部分や不足する機能を付与しようとするのではなく、あるいは限定的な意図で以てシステムをコントロールしようとするのでもなく、そのシステムのポテンシャルに目を向ける。微生物の性質に従って環境を整え、彼らの活動に委ねる発酵のプロセスに近い(現代の酒造りは発酵をほぼコントロールできているともいうが)。そのため、「待つ」ことが求められ、かつ想定外をも許容する必要が生じる。何か面白いものが出てくるはず、しかし何が出てくるかは分からない。それを楽しむくらいの構え方が要求される。

「Spontaneous」という言葉が用いられる背景

ここまでをまとめると、「Spontaneous」は個人やシステムそれ自体の内発性、ポテンシャルといったものを重視する。では、なぜ「ドチャベン2018」においてこの用語が用いられたのだろうか。

僕はこの仕事を通じて初めて「Spontaneous」という言葉を知ったわけだが、そのときにすっと脳裏に浮かんだのが五城目のまちづくりについてだった。五城目にいる人たちは、ボトムアップでそれぞれが勝手に自分のやりたい事をやっている。その結果が線になり面になり、気づいたら「五城目って盛り上がっているよね」と一目置かれるようになった。そこにはいろんな要素が絡んでいて、強いリーダーがいたわけではないし、移住者の存在は何らかのきっかけにはなっているが因果関係で語れるほど単純ではない。はっきりと言えるのは、個人の自発性を奨励し合い、支援し合うコミュニティがあるということ。その結果として、誰に言われるともなく自発的にやりたいことをやる人が現れ、それが時に有機的につながるという状況をつくっている。

これまで教育の仕事をしていた中で、人が新しく何かを始めるというシーンを何度か見てきた。うまくいかないパターンの多くは、課題解決やニーズが先行していたように感じている。たとえプロジェクトとして理に適っていたとしても、それを推進する個人のモチベーションが持続せずに、断念される。あるいは、個人のコミットメントがそのままソリューションの質に反映され、そもそもプロジェクトとして微妙ということもままあった。そこから、僕の立場として、まずは個人の自発性が発揮されている状態をつくることを第一の働きかけとしよう、と心に決めたのだった。

この帰結は至極当たり前のように思えるが、実際のところ、この考え方は(少なくとも)日本社会ではほとんど受け入れられていない。「自分のやりたいことをやろう」と言われても、まず、家庭や学校でそれが真に推奨されているケースが少ない。自分が何を求めているのかがわからないという人の方が多数派と感じるほどだ。また、秩序を重んじる環境に身を置く時間が長いため、「自分のやりたいことをやる」=「周囲に迷惑がかかる」と捉えている人が少なくない。さらに、社会規範に沿って選択することが当然視されているため、「自分のやりたいことをやる」=「リスクが高い」という認識も根強い。そして、これが最も根深いと思うが、そうした状況下にあって、「自分のやりたいこと」「本音で思っていること」を周囲にきちんと受け止めてもらった経験にそもそも乏しい。だから、自分の考えや意見を表明しないし、そんなことよりもコミュニティや組織の中で空気を読むことがむしろ優先される。

だから、自発的に事を起こすという事態がそもそも成立しない。一見、「これをやりたい」と自ら主張しているようで、実のところ周りが喜んでくれるからそれをやると言っているだけというケースも散見される。この状況に対応するには、とにかく周囲に気兼ねなく自分の思っていることを表に出す経験を積むしかなく、そのためには、個人の話をきちんと受け止める環境づくりが必要になる。これが、仕事を通して僕がやりたいことの概略にもなっている。

「Spontaneous」とは、だから、わざわざここで口にしなければならない言葉なのだ。自発的であることの稀少性が実は高いゆえに、自明であるようなことを強調しなければならない事態にある。そして、それでもなお、「ドチャベン2018」で紹介された人々のように、自発的に、伸び伸びと生きる姿の美しさを無視できない。だからこそ、「Spontaneous」という言葉が登場した。僕は、そのように理解している。

誤解されたくないのだが、「Spontaneous Entrepreneurship」とは、「人に迷惑をかけてでも」「高いリスクをとって」「やりたいことをやれ」というメッセージでは決してない。むしろ、やりたいようにやり、ありたいようにあることで、結果的に自他が満足し、かつリスクを見極め取るべきところは取り回避すべきところを回避できるという信念に基づいている。つまり、日本社会を取り巻く常識や固定観念とは異なる世界観が、ここには横たわっている。

それゆえに、この「ドチャベン2018」が放つメッセージの分かりづらさがある、と思っている。そもそも、世の中一般に共有されている考え方とは異なる価値観、もっと言えば異なる言語に則っている。しかし、これもまた一つの確かな兆候であるということは言っておきたい。被災地の復興支援の現場で多発した「燃え尽き」、デザイン思考の反省により形づくられつつあるアート思考、海の向こうから日本に伝来しつつある「Authentic」という単語。あるいは、プロジェクト学習という手法がある種の限界に直面していることも、「Spontaneous」という用語の存在感を一層高めているように思える。

 


関連する記事