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悩み事という趣味の実践

カテゴリ:自分事


※この記事は自分の考えをまとめるために書いたもので、読み物として成立させようとするつもりがないことを先に断っておく。

意図をきちんと理解しようとする力が強いですね、というフィードバックをもらった。そう言った本人は臨床心理学の「家族療法」という分野を専門的に学んでいる大学院生だった。

「人は、意図の反映された問いかけをされると、その意図に引きずられて回答に影響を与えてしまう。それを避けるために意図を隠して質問をすることが多いんです。そういうとき、あなたは私の質問の意図をきちんと確認してから回答するようにする。そういう意識があると感じた」

そのような意味のことを彼女は話してくれた。

でも、それは僕にとって、「力」という類のものではなかった。僕は、人の意図を理解することを苦手としているという自己認識を持っている。より具体的に言えば、人の意図を推し量ろうとする傾向が強いあまり、様々な意図を勝手に類推してしまい、「こういう意図なのか、あるいはああいう意図なのか」と一人で混乱してしまうところがある。

だから、僕にとって、意図の制限されないオープンな問いは回答しづらいケースがある。文脈の中で期待されていることが把握できない場合、どのようなスタンスで回答すればよいかを相手に確認しないと、無用なストレスを抱えることになる。「この状況・相手ならばどのような回答でも受け取ってもらえるのだろう」と思えるのなら別だけれど。

この混乱は、何かその場で即時に判断を要される場合にも起こる。他人の意図を類推するあまり、判断軸がひたすらに増えてしまい、適切な処理ができなくなる。特に即時性の強い電話というコミュニケーションが苦手なのはまさにこのためだ。その場で判断をしなければならないが、電話の向こうの相手の意図や、今周囲にはいないがその判断により影響を受ける人の反応を意識すると、しどろもどろになってしまう。あくまで「僕がある判断をした際に他人がどう思うか」を考える際に起こる問題であり、他の誰の意図も気にする必要がない状況ではあまり起きない(という自己認識を持っている)。


こうした傾向の裏側には、きちんと相手の意図に応えることで自分自身の社会的価値を発揮したい(しなければならない)という考え方があると思う。そもそも記憶の中の自分は小さなころから自己肯定感が低く、無条件の肯定というものを得られている感覚がなかった。だから、折々で価値を発揮しなければ自分の存在意義はない、というような意識がある。ところが、褒められても素直に受け止められないし、しかし褒められないと自分はやはり価値がないのだ、と考えてしまう。それは絶対的に悪いものでもないとは思っていて、こうした強迫観念とも言える考え方があるから、コミュニケーションの取り方や仕事の進め方などを意識的に良いものにしようという気になれた部分もあるとは思う。

この記事で紹介されている「詐欺師症候群」も、かなり思い当たる部分がある。

総合的に見ればもっと良い状態に持っていくことができると思うし、そのための努力もわずかながら積み重ねてきた。褒められたら「ありがとう」と言うようにする、とか、誰にでもできることをたまたま自分がそこにいたからやっているだけ(自分が特別何か能力があるわけではない)と思えたとしても、「たまたま自分がそこにいた」というだけでも価値なのかもしれないと考えるようにする、とか。全面的な変化は今のところ見られないが、まあそれでも徐々には進歩してきたかな、とは思えるようになってきている。

 

思いついた順に書いていってしまうと、こうした変化を妨げる要因として、プライドの高さがある。それは自信の無さの裏返しのようなものだと思っている。あるいは、僕の意見に対して「でも、○○じゃない?」とか「それはそうだけど△△でしょ」と返されたときに怒りにも似た感情がふっと沸き起こる場面が時折あるのだけれど、そういうときにはむきになって反論したり、先に述べた言葉の意義を言い換えながら強調したり、相手の反論を包括するように(自分はそれについても考えていると主張するように)再反論をぶつけたりしてしまう。脊髄反射のようなコミュニケーション。それは後味悪く僕の心の中に残り、自己嫌悪が重なっていく。

そう書きながら、なんでそんなふうなやり取りが起こるのかを考えてみる。どこかに「自分の考えは正しくあらねばならない」という意識があるのかもしれない。僕が話した内容や所属する組織への否定は、僕の存在意義の否定として捉えてしまう。人格の否定と意見の否定は異なる、ということを頭ではわかって(知って)いたとしても。もちろん、否定される全てのケースについて感情的な反応をするわけではない。いや、もちろん感情の揺れ動きはあるのだけれど、自分自身に否があると認識できるケースでは、反論せず相手の指摘を受け止め、あるいは謝罪する、という場合もある。相手がこちらの意図をしっかりと理解してくれた上で、それでもこっちの方が良かったんじゃないの、と言ってくれる場合も、割と受け止められる(ような気がする)。

ここまで来て、僕はどうやらコミュニケーションをする相手に対して、割と高度な対応を要求してしまっているのかもしれない、と思い至る。つまりは「面倒くさい」やつなのだ。ちゃんと敬意を払ってくれ。こちらの話を遮らず聞き、その上で意見をしてくれ。そうでない場合は、「いらっと」する。相手に対する期待値がそもそも高いのかもしれない。逆に言えば、そうした(僕としては)質の高いコミュニケーションをしてくれる相手は、とても貴重だ。幸い、五城目にはそういう人が多いし、そういう人が多いようだという期待が持てたから移住したという経緯もある(海士町への移住を決められたのも同様の理由があると思う)。

秋田に生まれてから過ごした18年間は、「いらっと」することの積み重ねだったという記憶として構成されている。だから、田舎に対していい印象が(今も)あまりない。自分の話を聞いてもらった、という満足感でいっぱいになるような瞬間も、記憶に残っていない。満足感を得ていることを自覚できていないのか、そもそも満足感を得ようとする期待そのものに何かエラーがあるのか。

ひとのはなしをきく、ということは僕自身大切にしたいことの一つで、秋田もそうなったらいいのに、という想いで日々を過ごしている。そこには「ぼくのはなしをきいてほしい」という欲求が見え隠れしているようにも思う。好きなだけしゃべって、それをしっかり受け止めてもらい、満足し、さて、その先に一体何が待っているのだろう。その問いに対する仮説は、ぱっと思いつかない。それによって、満たされない何かを(代替的に?)満たそうとしているような節もありそうだ。そこに悪循環があるように思う。

ここまでどちらかと言えば深く掘り下げるような思考を経てきた。もう一度全体を俯瞰して問い直すならば、「こうした傾向は、逆にどんな状況に置いて有用なものとなるだろう?」という方向が例えばあり得るだろうか。こういう時、他の人の脳みその中身を見たくなる。自分自身が客観的にどのくらいのレベルなのかを知りたい、という気持ちがある。結局、他人と比べないと自分の位置が見えない、ということなのだろうか。それはそれで問題というか悩みとして何か表面化していそうな予感がある。

今日はこの辺で打ち止め。


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