メンタリングって本当に難しいねという話

カテゴリ:自分事


仕事柄と言うべきか、高校生や大学生のメンタリングの機会を持つことが多い。1対1だったりオンラインだったりグループだったり。僕と彼/彼女たちの間では考え方や価値観から用いる言葉、受け取り方まで異なるので、それこそ何気ないメッセンジャーのやり取りでも気を遣っている自分がいる(油断すると年上であることに甘えてしまいがちというのもある)。

人間は、不思議なもので、できなかったことができるようになった後、できなかったそのときの気持ちや”できなさ”をついつい忘れてしまう(あれだけできない自分が嫌だったのに)。その典型が「なんでこんなこともわからないんだ!」と口に出てしまうあの瞬間だと思うのだけれど、勉強に限らず、それぞれが多様な経験をくぐり抜けて培ってきたコミュニケーションのお作法でも同様のことが起きてしまいがちだなと思う。

相手のレベルに合わせて話す、というとき、なんとなくだけど、「これくらいに下げてやらないと」という意図と同時に、「でもこれくらいならできるかな?」という期待もまた込めてしまう部分があるのかもしれない。僕の基本的な認識として、お互いの所属するコミュニティが異なる場合に、共有できる”当たり前”は結構少ない。しかし、なまじメンタリングという場になると、「メンティーのもつアイデアをブラッシュアップする」とか「メンティー自身を掘り下げる」といった目的は共有できていることにして、メンター側のメンタリングにおけるお作法を遠慮なく出してしまう瞬間が僕にはある。というか、つい先日、そのことを自覚した。

僕が「あれ?」と思ったのは、あるワークショップの一場面だった。

まず、ある1人の高校生のアイデアについて、グループでもっと聞きたいことやより深堀りしたい観点などを付箋に書き出して共有する。その中から話すべきトピックを選び、本人の思いや大切にしたい点がどこなのかを全員が留意しながら、問いを立てたり、意見を述べたり、参考になりそうな事例を紹介したりする。最終的にはそのアイデアの輪郭をより具体的なものとし、アイデアを実現するためのネクストステップを考える、というのが全体の流れだ。この流れ自体は違和感がないし、ごくごく一般的なものと思う。

このアイデアをブラッシュアップするというやり取りにおいて、ずれを感じた。その原因は何だったのだろう、ということを今も振り返っている。

一つの仮説として、僕が前提としていた考え方が間違っていた、または双方に共有されていなかったという可能性が考えられる。

アイデアそれ自体は、いわば氷山の一角で、その根っこにある思いを100%再現しているとは限らない。だから、その場に出されたアイデアを手がかりに、本人がどんなモチベーションで、どんな状況を実現させたいのかを丁寧に掘り下げていくと、自然とアイデアはそぎ落とされていき、本来の目的が浮かび上がる。このプロセスを辿ることで、アイデア=手段が目的化する事態に陥ることなく、目的に応じて適切な手段を選択することができるようになる。

これが、僕がメンタリング中に前提としているものだった(もう1人メンターがいたが、たぶん2人のメンター間ではある程度共有できていた印象)。しかし、その高校生は、アイデアを手段ととらえ、奥底にあるであろう目的を捉えようとするプロセスの中で、言葉に詰まる・語気が強まる・少し早口に話す等の様子が見られた。それが、なんとなく、元のアイデアの形が変わっていくことへのネガティブな反応に映ったのだった。最終的に、アイデアを変えることなく、アイデアを成り立たせるために不足する部分を強化するというところに落ち着いたようだった。僕は、最後まで「なぜ彼がその手段にこだわるのか?」「彼の語るどの部分こそが大事だったのか?」が腑に落ちずにいた。

「アイデアは変わってもいい(大事なものが損なわなければ)」という前提があって初めて、自分のアイデアそのものを保留し、深く掘り下げることができる。今思えば、メンタリング冒頭のタイミングでその前提を確認するべきなんていう発想はなかった。これは次回への反省材料だなと思う。そして、そもそも、その前提はどこから生まれてきたのだろうか。一つは、「その人本来の有り様と、言動が、一致していることで、その人の潜在性が存分に発揮される」みたいな世界観・人間観が背景にありそう。でも、この見方もあらゆる人に共有されているかというと、まったくそうではない。

「僕はこういう考えの元にこういうアプローチをとっています。まずはそのやり方で進めますが、違和感があったら遠慮なく言ってください」

こんな感じだろうか。

 

と、ここまで書いて、ふと、気づいてしまった。僕自身がその高校生のアイデアにそもそも否定的だったことに。それを自分が取り組むこととして掲げること自体には、遠慮なく拍手を送りたい。が、そのアイデア自体は、本当に単なる手段でしかないものだ。実際、そうして先人が実現したものたちの中には見事に形骸化しているものもある。それを知っているから「その手段を選ぶ動機や、手段を通じて実現したいものをクリアにしないといけない」と感じた僕がその場にいた。その第一印象が、「アイデアは変わってもいい、大切にしたいことを掘り下げるべき」というメンタリングの方向性を決定づけていたのかもしれない。

となると、僕自身はどう関わるべきだったのか。正直、年齢にかかわらず、「いやあ、そのアイデアはいけてないでしょ……」と言いたくなるシーンは多い。言いたいところをぐっと飲みこみ、自分自身をなるべくフラットにして、まずは相手の真意を把握しようとなんとか試みる。あるいは話半分で聞き流す。それが今までの対応だったかなと思う。改めて文字にしてみると、それはそれで悪くないのだが、率直に意見を表明してみるのもいいかもしれない。

例えばこんな感じだろうか。

「いきなりごめんね、そのアイデアなんだけど、僕はあまり共感できない。同じことを考えてきた人ってこれまで人人もいて、手段と目的が一致しないまま突き進んで燃え尽きたり、実現した後に結局形骸化したりするパターンもあるみたいだから。結果的に形骸化するようなことは本人にとっても社会にとってももったいないというのが僕の考え。だから、僕はなぜそれをしたいと思い至ったのかをぜひ伺いたい」

 

「その人本来の有り様と、言動が、一致していることで、その人の潜在性が存分に発揮される」

そんな人間観が前提にあると言いながら、自分自身が不一致な状態に意識的でなかったということに気づけて良かった。いつまで経っても精進の道に終わりはない……。


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Code for Akitaのキックオフイベントに参加してみて

カテゴリ:世の中の事


昨日、Code for Akitaのキックオフイベントに参加してきました。

オープンデータ活用しようぜ! というお題目はぼんやりと分かったつもり。でも、「じゃあ具体的にこの秋田においてどういう場面で活用できるのだろう?」ということもイメージできない状態での参加。会場である秋田市役所に向かう直前は「まあ、仕事の一環だから」というくらいのモチベーションだったというのが正直なところですが、とりあえず行くだけ行ってみたのでした。

しかし、結論から言えば、あの場にいれて良かったなあと思っています。備忘録がてら、ここに(あくまで僕が)何をお土産に持ち帰ったのかを書いてみようと思います。

何のためのオープンデータ?

一言で言うならば、「オープンデータの活用」というのは目的ではなく手段であるという視点を得られたのが、当日の大きな収穫でした。では、その目的とは何か? 僕は、「日本社会のOSのアップデート」ということなのかな、と受け取っています。

僕が住んでいる五城目町では、みんなが好き勝手に町というフィールドで遊ぶように仕事したり、企てたり、仕掛けたりしています。そこには行政の明確な「計画」がありません。トップダウンの強いリーダーもいませんし、スローガンとかあったっけ? というレベル。あえて言えば、(一部の人たちで)「世界一子どもが育つまち」というゆるいテーマ設定があるくらい(「世界一子どもが育つまちをつくろう!」でもないところからしてゆるい)。

人口減少とか少子高齢化ってとりあえず「課題だ」って言われがちなんですよね。ところが、五城目に住んでみると、単なる「現象」でしかないよね、という認識を共有する人たちと出会いました。こういう大きな言葉を「課題」に設定すると、経験則ですが、検討された「解決策」も大味になる印象があります。そうすると、そのお題目に集まる人たちの思惑もばらばらになり、課題解決は進まないし、結果、疲弊する。そういうパターン、見たことありませんか?

五城目で起きていることは、「課題解決」というより「一人ひとりがやりたいことを必要に応じて協働しながらやっている」という表現が近いように思います。やりたいことをやっているから継続する。やりたいことを互いに支え合う文化もゆるやかにある。だから、秩序立っていないけど、何かが起きる。それが「良いもの」だったら、結果的に町のため、地域の人のためになる。

いきなり五城目の話になってしまいましたが、何を言いたいかというと、オープンデータの活用は、こうした「勝手な企て」を促進するものである、ということです。この文脈から総務省が掲げる「オープンデータの意義・目的」を読んでみると、なんとなく、捉えやすくなるような気がします。

まちづくりをアップデートする

“まちづくり”という言葉はいろんな人がそれぞれにイメージするものが違うと思いますが、五城目のそれは「まちづくらないまちづくり」と言えるかもしれません。なにせ、町に関わる人が好き勝手に朝市を盛り上げたり、ラーメン二郎をみんなでつくったり、パーリーしたり、空き家をリノベしたりしているわけですから。そうした点の一つ一つが集積して線になり、面になる。10か年の都市計画がなくても、ぽつぽつとそうした動きが生まれている。

ここにおいて、行政は、住民にとって一つのリソースであり、必要に応じて活用するものとなります。もちろん、行政が主体となり、予算をつけて取り組む事業もありますが、その守備範囲を超えたところを、住民側が勝手にカバーしていると見ることもできる。しかも、当事者である住民が自ら着手するものだから、場合によっては具体的な課題に対して効果的な解決策が施されるケースも出てくる。

こうした民間主導の企てがぽこぽこと生まれてくるのが21世紀の”まちづくり”の在り方なのだろうな、というのが直感的に思うところです。やりたい人がやりたいことをやりたいようにやる。これを促す手段の一つとして、オープンデータと、それに伴うテクノロジーの活用があるのではないでしょうか。

昨日のイベントで紹介された事例として、「保育園マップ」というアプリがあります。北海道のとある女性が「保育園マップが欲しい」という一言から開発されたこのアプリは、保育園の位置情報だけでなく待機児童数などの情報が閲覧できるものです。現在も電話したりネットで調べたりすれば探せないこともないものですが、データとして活用するには「HTMLから引っこ抜く」といった(活用する側からすれば)無駄な手間がかかる場合も多い。子育て中のパパママがそれぞれ情報を取得しているなんて考えているだけで……実に効率化したくなる案件です。実際、リリースされてからの反響は大きく、今や各地で「保育園マップ」がつくられているそうです。

もちろん、行政等が持つ情報を、誰でも入手できて活用しやすい形式でオープンデータ化するというだけで、何かしらの解決策が出てくるとは限りません。しかし、活用可能なデータがあることで、誰かがそれを勝手にハックしていい感じに実装してくれる可能性が生まれるわけです。その可能性に賭ける。なんなら、ハッカソン・アイデアソンという場で(タウンミーティングでもいい)、住民のニーズを引き出し、しまいにはプレイヤーを集めてしまえばいい。「住民主体」とか「官民連携」という言葉の想起させる未来っぽい雰囲気、ありますよね。

Code for Akitaの意義

一人一台スマホを持つ時代ですから、情報をデジタル化し、共有可能なものにすれば、みんなが利用できるようになります。ガラケー時代は、山中で不法投棄された車を見つけ役場に電話しても、口頭で位置を伝えるのが難しかった。しかし今や、写真を撮って位置情報を送れば、手間なく的確に通報できます。

「こうしたら、もうちょっと便利になるのに」

オープンデータは、こうした個人の思いつきがテクノロジーによって実現しやすい時代の要請とも言えます。とはいえ、一般人がすぐにアプリ開発できるわけでもないし、そもそもデータがあってもそれをどう活用できるかをイメージするのも難しい。だからこそ、Code for Akitaのように、専門性を持ち、かつその専門性によってより住みやすい地域づくりを一般の人たちの手元に引き寄せようとする人たちの存在が大きくなります。

五城目の人々が手掛けるような、好き勝手な「まちづくらないまちづくり」は、オープンデータの存在によってそのカバレッジを一層拡大できるでしょう。一方、「データがあるから活用してみる」という思考では、いまいちつまらないものばかり出てくる予感もあります。(たぶん)オープンデータは、それを扱える専門家だけでなく、その当事者や現場のプレイヤーがいてはじめて生き生きと活用されるもの。その点で、中途半端にエンジニア経験があり、一方そうした現場にも片足を突っ込みつつある僕自身も関われる部分があるように思います。

今回のキックオフイベントの多くはIT関係者と行政関係者で構成されているようでした。そりゃあ、「IT」とか「オープンデータ」とか言われても、一般の人は寄り付きがたいわけで。この隔たりをどうブリッジできるか。

大枠として、自分なりに「オープンデータ」を把握できたかなと思います。今後はもう少し事例を調べつつ、例えば五城目だったらどんな可能性がありそうか、具体的なイメージができるようになりたいと思っています。

「ITとかよくわからんけど、なんか面白そう」って方、ぜひ一緒に勉強しましょう!


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意味や価値があることじゃなくて好きでやることを増やしたい

カテゴリ:自分事


フリーランスに近い状態になってから、「稼ぎになりそうなことをやろう」「自己研鑽につながることをやろう」という考えが前面化している、ということに最近気づいた。お金になるかどうかは脇に置き、「好きでやっている」「誰に言われずともやってしまっている」ものをもっと増やした方がバランスが良い気がする。

振り返ってみると、「意味あること」「価値になること」を意識しだしたのは最近のことではない。たぶん、それこそ就職活動のあたりから、「お金になる力がほしい」というのはずっと関心事だった。それ自体は悪いことではないし、自分に投資するような時間の使い方をするようになったことが今につながっているのは間違いない。でも、以前はもっと余裕があった。「好きなように本を読み、興味のあることを追い続ける」ことがゆるく将来につながるだろう、くらいの気持ちだったように思う。

今は近視眼的な反応をしてしまっている。1月ごろから読書が全然できなくなったのもここに起因しているかも。あまり外に出なくなったのは雪のせいもあるが、「すぐに仕事につながるかどうか」という判断基準があったのかもしれない。

結果的に、こういう状態に陥っている。

・すぐ結果が出ること自体そもそも少ないから、短期的なリターンばかりに目がいき動きがにぶる(→結果、リターンも減る)。
・単純に好きなもの、特に理由なくやりたいと思うものに対して鈍感になる(→純粋にやりたいことがわからなくなる)。

動き出すと寝る暇がないほど忙しくなりそうという心配はあるけど、動けなくて結果的にぽつぽつ暇がある方が自分にとっては苦痛かもしれない。別に外に出なくてもいいけど、「あれをしよう、これをしよう」と思いつくことがぽんぽん浮かぶ状態になるといいのかな。

4月に入ってもリセットできていないけれど、GWを挟んで方向転換したい。


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