「難しいけど○○したい」って言われないと応援できない

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「○○したいけど、難しい」と「難しいけど、○○したい」

地域で何か新しいことにチャレンジしたり、縁もゆかりもないところに移住したり、普段と異なるコミュニティに飛び込んでみたり。

日常からの「ジャンプ」が必要な場面には「覚悟」が伴うものというのが通説で、「ジャンプ」するための心構えやノウハウを、安心するための材料として求めたくなることもある。

「ジャンプ」を妨げるのは、未知の領域に足を踏み入れ、「うまくいくかどうかわからない」ところに足を踏み入れる恐れ。「○○したいけど、難しい」。そう言って、なかなか踏み切れない場面が良くある。

そんなときに大事なのは、「難しいけど、○○したい」と言えるかどうかなんだな、ということに最近改めて気づいた。もともとは、現在神山町に住んでいる西村佳哲さんが「『○○だけど、難しい』と『難しいけど、○○したい』は似ているようで全然違うよね」と紹介してくれたものだった。それを聞いたときは、なるほどなあ、というくらいだったけれど、五城目に移住してから、「難しいけど、○○したい」の持つパワーを再認識したのだった。

「○○したいけど、難しい」は、「難しい」に重心がある。もしかしたら、「○○したい」が「難しい」に負けてしまっているのかもしれない。逆に、「難しいけど、○○したい」は、したい気持ちが勝っているのだと思う。

「難しいけど、○○したい」と言われたら、周りは「こういうサポートができるよ」「ああいう人がいるから紹介するよ」「一緒に○○してみない?」と声をかけることができる。「○○したい」の確かさがあるから、周りも信頼してその気持ちを実現に向けて応援することができる。

「難しい」という気持ちを目にして、応援しよう、という気持ちにはなかなかなれない。本人が本当にそれを望んでいるかに確信が持てないから。仮に、心からの善意で応援しようとしても、下手をすればそれが「難しい」という気持ちを否定し、あたかも説得するかのような働きかけになってしまうのではないかとも思う。

「○○したいけど、難しい」というとき、その「難しさ」に焦点があたりがちだけど、たぶん目を向けるべきは「○○したい」の方。「それ、本当にしたいんだっけ?」という素朴な問いかけをしたほうが健全のように思う。そうでないと、「難しさ」を提供する環境の方をついつい呪いたくなるから。あるいは、「あの人たちは特別だけど、私にはできない」みたいな不健康な気持ちになる。もしかしたら単に「したい」という気持ちのベクトルが一致していない、というだけかもしれないのに。

五城目で新しいチャレンジが起こるとき、「ああ、この人はいろいろあっても最後までやるよな」と思えるから、素直に周りが応援しているという状況があるように思う。「難しいけど、○○したい」って言えるようになりたいし、言えないところで無理をしないようにしたい。


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「田舎に仕事がない」のホントとウソ、マルチワークの現実的可能性

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田舎に仕事はあるし、ない

五城目町に移住してだいたい1年半くらい。新参者のくせに、今や五城目に移住してわくわく働く人を募集するような仕事もしている。移住に関心がある人との接点が増えるにつれ、具体的な質問を受けることが多くなった。

定番の質問は、もちろん、「ぶっちゃけ、田舎って仕事あるんですか?」。

僕の結論としては「あるにはあるし、ないと言えばない」の一言に尽きる。僕自身、フリーランスに文字通り片足を突っ込んでいると、安定的な収入の目途が立っているわけではないので、「仕事はあります!」と偉そうに言うことはできない。一方で、なんとか収入を確保することはできているという言い方もできる。僕のように「教育」や「移住」といったニッチな(お金になりにくい)守備範囲であっても「仕事がないことはない」。

以上はフリーという立場からだが、「求人・雇用」という観点で見ても、同様のことが言える。今、日本のいろんなところで起きているのが、低賃金・単純作業の仕事の担い手不足(例えば工場の組み立てとか)。つまり、仕事はあるのに、人がいない。さらに、田舎で不足しているのが、専門的なスキルを持っている人だ。例えば、僕の身近な例としては、デザイン周りやシステム周りで求人を出しているがいい人が見つからないという声をちらほらと聞く(僕自身も自社の採用がなかなか進まず困っている)。「あるにはある」のだが、ミスマッチが起きているらしい。たぶん、県内で仕事を求めている多くの人が、「そこまでの専門性はないがそこそこ待遇のいいホワイトカラー職」を探しているのではないかと思う(本当かどうかはわからない)。

フルタイム正社員の仕事は市街地を離れれば離れるほど減る印象があるが、まったくないわけではない。この記事を書いている今この瞬間に五城目町内のフルタイム求人をハローワークで調べてみたが、「医療、福祉」「小売」「農林業」「建設業」が主で、人気のありそうな一般事務みたいな仕事はあんまりなさそう。

以上をまとめると、「田舎の仕事のリアルなところ」はこんな感じだろうか。

みんなにとって魅力的な仕事(求人)は少ない(あるいは人を選ぶ)が、選ばなければ一応はある

当たり前といえば当たり前の結論になってしまった。そして僕の場合は、まさに「選びたい」と思ってしまったがために、フリーランス的な働き方に向かざるを得なかったということになる。

求人の有無=仕事の有無か?

一方、「求人がないことは、その土地でその職種のニーズが少ないことと必ずしもイコールではない」ということも、もしかしたら言えるのではないか、と思う。別に会社経営に詳しいわけでもない僕が説明するのも気が引けるが、企業が人を雇うというのは大変にコストがかかる。田舎の中小企業が一人フルタイムで雇うというのは大きな決断だ。そして、業種の違いはあるにせよ、多かれ少なかれ法人を維持・発展させるために必要な業務というのが発生する。それは営業だったり、事務だったり、経理だったり、いろんな職種として切り分けられる。

フリーランスという立場になって気づいたことは、「ピンポイントでこの業務ができる人手が欲しい(がフルタイムで雇う余裕はない)」というニーズがあるからこそ企業は外注するのであり、そこにフリーランスの活躍の場があるという、これまた当たり前のことだった。「販促のチラシをつくってほしい」「POSレジの導入を0からサポートしてほしい」「硬直化した企業風土を立て直したい」みたいなニーズは、必ずしも継続的にあるわけではなく、その都度のものだから、外出しする。このニーズに人を雇うという対応をするのは「販促ツールのデザイン性を高めることが企業戦略である」みたいな判断があるからだと思う多分(もちろん資金的余裕も)。

僕がフリーランスとして仕事を請けているのはまさにこういったニーズがあるからであって、大抵は単発だったりプロジェクトベースだったりする。例えば僕が秋田に来てからの仕事は、WEBサイトのライティング作業、ワークショップの企画運営、講演やイベントでのゲスト出演、県からの委託事業などなど。

先に挙げたニーズの例は単発っぽい感じだが、「経理専門のスタッフを雇うほどではないが、創業者が毎月手を取られている」とか「長期的な視野でマーケティングを担う人材にかかわってほしい」みたいなニーズも僕の周囲で実際ある。こうしたニーズを業務量に換算した場合、中小企業だと週1~2に収まるくらいになってしまう。結果、フルタイムで雇うということにはもちろんならない。パートタイムでやってくれる人が見つかればいいが、なかなか短時間だけ働きたい高度技能人材というのは乏しい(出産と共に仕事を辞めた後子育てがひと段落した女性とかならあり得るかも)。

田舎にある「求人にならないニーズ」を集めると

こうしたニーズに対応するのは、一つはいわゆるITによる仕組化、自動化の導入。これもなかなか田舎で広がらないソリューションの一つ。なぜなら専門家が少ないし、規模が小さすぎると専門家に頼む余力がないから。

もう一つ、考えられる手立てがある。そして、それは、田舎で自分のやりたい仕事や専門性を生かした仕事をするために実験する価値のある可能性と思っている。これが記事タイトルにも持ってきた「マルチワーク」。複数の企業をまたいで業務を請け負う。週1の業務が5件あればフルタイムの仕事、という考え方。あるいは、春~秋は農作業をし、冬は酒蔵で仕込みをする、みたいな季節労働の組み合わせもあり得るだろう。前者はどちらかと言えばフリーランスの業務委託契約や士業の仕事の仕方に近く、後者は「百姓」という言葉の原義に近い(農業法人のように、繁閑の差がある仕事は当たり前にあるわけで)。

今年度、僕も企画運営にかかわっている「五城目ナリワイクリエイティブ」という移住者募集の枠組み。これは、五城目という町で(そして、きっと全国のいろんなところで)当たり前のように行われている、小さなニーズと一人ひとりができることを掛け合わせた「仕事づくり」に触れてみることで、田舎で暮らし働くことの少し違った可能性を感じてもらいたい(なんなら移住してくれてもいいんだよ)、というものだ。

「求人にならないニーズ」をハローワークやリクナビのようにネット上で検索して探し求めるというのは多分難しい。求人になりきらない分、ニーズが顕在化しているわけではなく(諦めて現状を受け入れているケースも)、フルタイムで抱え込んで育てるということもできないため、誰でもウェルカムとはしづらい。一言でいうと、「いい人がいたら……」という感じ。むしろ、巡り合わせや人の縁によって、「じゃあうちの仕事手伝う?」となるパターンの方が(五城目の場合は)多いような気がする。まさに、「掛け合わせ」の妙であり、既存の求人という”枠”を用意することも、それにすっぽりと収まってくれる人を募集するということもなかなか難しいのではというのが肌感覚。

五城目ナリワイクリエイティブ」の枠組みで、10月20日~22日に現地ツアーを実施する。このタイミングでは、具体的な求人を紹介するというよりは、とにかく現地を周りながら人と出会い、ニーズを探り、自分のやりたいことやできることを発信し、「掛け合わせ」の妙にたどりつけるかどうかにトライしてみたい、と思っている。単に、そっちの方が、何か面白い仕事ができそうだから、という理由。

幸い、兼業や副業が注目を集めているところなので、時流に乗りつつ、時流の先取りをするような感じで、この五城目で自分自身がまずは実験台になるところから始めてみたいと思っている。

しかしこの本が日本で出版されたのが2002年とか、恐ろしいな……。


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メンタリングって本当に難しいねという話

カテゴリ:自分事


仕事柄と言うべきか、高校生や大学生のメンタリングの機会を持つことが多い。1対1だったりオンラインだったりグループだったり。僕と彼/彼女たちの間では考え方や価値観から用いる言葉、受け取り方まで異なるので、それこそ何気ないメッセンジャーのやり取りでも気を遣っている自分がいる(油断すると年上であることに甘えてしまいがちというのもある)。

人間は、不思議なもので、できなかったことができるようになった後、できなかったそのときの気持ちや”できなさ”をついつい忘れてしまう(あれだけできない自分が嫌だったのに)。その典型が「なんでこんなこともわからないんだ!」と口に出てしまうあの瞬間だと思うのだけれど、勉強に限らず、それぞれが多様な経験をくぐり抜けて培ってきたコミュニケーションのお作法でも同様のことが起きてしまいがちだなと思う。

相手のレベルに合わせて話す、というとき、なんとなくだけど、「これくらいに下げてやらないと」という意図と同時に、「でもこれくらいならできるかな?」という期待もまた込めてしまう部分があるのかもしれない。僕の基本的な認識として、お互いの所属するコミュニティが異なる場合に、共有できる”当たり前”は結構少ない。しかし、なまじメンタリングという場になると、「メンティーのもつアイデアをブラッシュアップする」とか「メンティー自身を掘り下げる」といった目的は共有できていることにして、メンター側のメンタリングにおけるお作法を遠慮なく出してしまう瞬間が僕にはある。というか、つい先日、そのことを自覚した。

僕が「あれ?」と思ったのは、あるワークショップの一場面だった。

まず、ある1人の高校生のアイデアについて、グループでもっと聞きたいことやより深堀りしたい観点などを付箋に書き出して共有する。その中から話すべきトピックを選び、本人の思いや大切にしたい点がどこなのかを全員が留意しながら、問いを立てたり、意見を述べたり、参考になりそうな事例を紹介したりする。最終的にはそのアイデアの輪郭をより具体的なものとし、アイデアを実現するためのネクストステップを考える、というのが全体の流れだ。この流れ自体は違和感がないし、ごくごく一般的なものと思う。

このアイデアをブラッシュアップするというやり取りにおいて、ずれを感じた。その原因は何だったのだろう、ということを今も振り返っている。

一つの仮説として、僕が前提としていた考え方が間違っていた、または双方に共有されていなかったという可能性が考えられる。

アイデアそれ自体は、いわば氷山の一角で、その根っこにある思いを100%再現しているとは限らない。だから、その場に出されたアイデアを手がかりに、本人がどんなモチベーションで、どんな状況を実現させたいのかを丁寧に掘り下げていくと、自然とアイデアはそぎ落とされていき、本来の目的が浮かび上がる。このプロセスを辿ることで、アイデア=手段が目的化する事態に陥ることなく、目的に応じて適切な手段を選択することができるようになる。

これが、僕がメンタリング中に前提としているものだった(もう1人メンターがいたが、たぶん2人のメンター間ではある程度共有できていた印象)。しかし、その高校生は、アイデアを手段ととらえ、奥底にあるであろう目的を捉えようとするプロセスの中で、言葉に詰まる・語気が強まる・少し早口に話す等の様子が見られた。それが、なんとなく、元のアイデアの形が変わっていくことへのネガティブな反応に映ったのだった。最終的に、アイデアを変えることなく、アイデアを成り立たせるために不足する部分を強化するというところに落ち着いたようだった。僕は、最後まで「なぜ彼がその手段にこだわるのか?」「彼の語るどの部分こそが大事だったのか?」が腑に落ちずにいた。

「アイデアは変わってもいい(大事なものが損なわなければ)」という前提があって初めて、自分のアイデアそのものを保留し、深く掘り下げることができる。今思えば、メンタリング冒頭のタイミングでその前提を確認するべきなんていう発想はなかった。これは次回への反省材料だなと思う。そして、そもそも、その前提はどこから生まれてきたのだろうか。一つは、「その人本来の有り様と、言動が、一致していることで、その人の潜在性が存分に発揮される」みたいな世界観・人間観が背景にありそう。でも、この見方もあらゆる人に共有されているかというと、まったくそうではない。

「僕はこういう考えの元にこういうアプローチをとっています。まずはそのやり方で進めますが、違和感があったら遠慮なく言ってください」

こんな感じだろうか。

 

と、ここまで書いて、ふと、気づいてしまった。僕自身がその高校生のアイデアにそもそも否定的だったことに。それを自分が取り組むこととして掲げること自体には、遠慮なく拍手を送りたい。が、そのアイデア自体は、本当に単なる手段でしかないものだ。実際、そうして先人が実現したものたちの中には見事に形骸化しているものもある。それを知っているから「その手段を選ぶ動機や、手段を通じて実現したいものをクリアにしないといけない」と感じた僕がその場にいた。その第一印象が、「アイデアは変わってもいい、大切にしたいことを掘り下げるべき」というメンタリングの方向性を決定づけていたのかもしれない。

となると、僕自身はどう関わるべきだったのか。正直、年齢にかかわらず、「いやあ、そのアイデアはいけてないでしょ……」と言いたくなるシーンは多い。言いたいところをぐっと飲みこみ、自分自身をなるべくフラットにして、まずは相手の真意を把握しようとなんとか試みる。あるいは話半分で聞き流す。それが今までの対応だったかなと思う。改めて文字にしてみると、それはそれで悪くないのだが、率直に意見を表明してみるのもいいかもしれない。

例えばこんな感じだろうか。

「いきなりごめんね、そのアイデアなんだけど、僕はあまり共感できない。同じことを考えてきた人ってこれまで人人もいて、手段と目的が一致しないまま突き進んで燃え尽きたり、実現した後に結局形骸化したりするパターンもあるみたいだから。結果的に形骸化するようなことは本人にとっても社会にとってももったいないというのが僕の考え。だから、僕はなぜそれをしたいと思い至ったのかをぜひ伺いたい」

 

「その人本来の有り様と、言動が、一致していることで、その人の潜在性が存分に発揮される」

そんな人間観が前提にあると言いながら、自分自身が不一致な状態に意識的でなかったということに気づけて良かった。いつまで経っても精進の道に終わりはない……。


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