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ブログに何かを書くということ-固定することへの躊躇

カテゴリ:自分事


最近、このブログには本を読んでの感想やWEB等で見つけた記事に対するコメントを多く書いています。
一方、以前のブログのようにより大きな視点でモノを書く、ということが少なくなりました。

意識的にしているつもりはないので理由を説明することは難しいのですが、強いて言えば、「考えを固定すること」に対して自分自身、躊躇しているところがあるように思っています。

躊躇の正体

例えば、以前アキタ朝大学さんのHPに「コミュニティ」をテーマにした記事を4回に分けてご掲載いただきました。

[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(最終回)-秋元悠史 [2011/07/04]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(3/4)-秋元悠史 [2011/06/25]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(2/4)-秋元悠史 [2011/06/17]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室] 日本海に浮かぶ離島から(1/4)-秋元悠史 [2011/06/10]

書き終わった後になってその分量に自分でも呆れてしまったわけですが、これだけ書いてしまうと、一旦この話題について自分の中で区切りがついてしまったような感覚があります。
それによってこの話題が自分の中で固定され、一連の議論が、検討されるものというより、これ以降の議論のベースとなりつつあります。

それがいいことなのか悪いことなのか、まだ僕には判断がついていません。
コミュニティについて自分なりに考えを深めるためには、どうしたって議論に見切りをつけながら次のステップに進んでいくことが必要となります。
しかしながら、十分に検討した上で次に進んでいるのか、不安になるのもまた事実です。

ブログに考えをまとめるということは、その時点での結論を一旦固定することだ、と最近考えるようになりました。
なんらかのプロセスを経て練られた考えであっても、固定した記事に表現されるのは結果だけであり、そのプロセスの中に含まれているはずの気付きも戸惑いもすべて文章に込めることは、到底無理なことです(単に僕の文章力の問題かもしれませんが)。

固定するということは、何かを捨てることにつながる。
しかし、今の時点で捨てる作業を行って良いのだろうか?(いずれ必要だとしても)
そう考えている僕にとって、ブログに考えをまとめていくことは躊躇を伴うものとなっています。

固定されたモノに囲まれた世界

まず、ここであらためてポイントとして確認しておきたいのは、会話は記録できないということです。
いや、おしゃべりは記録できない、といったほうがいいでしょうか?
もちろん、議事録をつくったり、おしゃべりの光景を録画して残すことはできます。ただ、それがおしゃべりの記録といえるかというと、どうもそうはなりません。議事録や録画にはおしゃべりの場に参加していた人が感じていた「もの」が残りません。
そして、おしゃべりの場合、記録可能な言葉そのものより、その感じていた「もの」のほうが大事だったりします。つまり、おしゃべりというのは、きわめて体験的な性格をもっているといえると思います。

人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く:DESIGN IT! w/LOVE

このブログの著者の棚橋さんの言葉はいつも「考えたこともないけれど、なるほど確かにそう考えることもできそうだ」という絶妙な塩梅の気付きを与えてくれます。
固定することに対して慎重になりだしたのは、このブログを購読するようになってからのことです。

著書「ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術」のあとがきに、「デザインしすぎない」という言葉があります。
デザインとはあるものをある状態に「固定する」ことであり、その言葉の裏側には例えば上の引用文にあるような考えが潜んでいるのだろうな、と推測できます。

移転前のブログにこんなことを書いていました。

デザインがそうであるように、価値観は「固定」することで生まれる。
時間の流れ、連続性、それが生み出されるまでに関わった大小さまざまな因子を削ぎ落として。

僕らはそのプロセスでなく、結果としての価値観と常に対峙することになる。

ワカモノの不安と大量生産・大量消費される価値観:秋田で教育を考える – 日々勉強中

この記事の冒頭にも、棚橋さんのブログの引用文を掲載していますね。

僕らは「すでに誰かの手でデザインされたもの」にあふれ返った世界に生きています。
物質的なものに関わらず、体系化された知識や価値観やイデオロギーといったものに至るまで。
今や、僕らは生産をせずとも、消費するだけでとりあえず生きていけるくらいの時代なのです。

学問というものを見れば分かるとおり、固定することは進歩するために必然的に求められることです。
今の時代の豊かさは、僕らが進歩した結果、モノを固定してきた結果という説明をしてもいいでしょう。

進歩するために

一度モノを固定した状態から次のステップへ進むためには、おそらく二つの手段しかありません。

・固定されたモノをより良くする
・固定されたモノを壊し、新たにモノを固定する

企業活動にあてはめると「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」といったところでしょうか。
ここで重要なのは、どちらがより本質的であるかという議論ではないように思っています。

進歩するためには、その前に固定されたモノがあることが大前提となるのではないか?

より良くするためにはその対象となるモノが必要です。
破壊して創造するためには、そもそも破壊するものが必要です。

僕が自分の興味・関心について、議論を積み重ねるためには、「積み重ねる」モノがなければいけません。

固定することは怖い、しかし進歩のためには固定しなければならない。

そのようなせめぎあい、ジレンマを自覚した上で、日々考えたことを丁寧にこのブログに書いていこうと思っています。


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