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いじめの構造(内藤朝雄):コミュニティの光と影【書評】(後編)

カテゴリ:読書の記録


前編はこちら

前編ではいじめのメカニズムについて整理しました。
これを踏まえつつ、後編ではいじめをどう排除するかをコミュニティの視点も加えながらまとめていきたいと思います。

学校という場に働く力学

まずは日夜(?)いじめが繰り広げられる日本の学校という環境に注目してみましょう。

日本は、学校が児童生徒の全生活を囲い込んで、いわば頭のてっぺんから爪先まで学校の色に染め上げようとする、学校共同体主義イデオロギーを採用している。
(中略)
若い人たちは、一日中ベタベタと共同生活することを強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ、さまざまな「かかわりあい」 を強制的に運命づけられる。これが自動車教習所とは異なる「学校らしさ」である。

※太字は引用者による

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

学校は我々にとってみれば当たり前の存在ですが、著者はその「学校らしさ」の正体を暴いていきます。
確かに、学校というものは子どもたちを同年代というだけで同じ施設の中で集団生活をせざるを得ない状況にいきなり追い込んでいます。
入学試験や面接などの選抜はありません。当然、生徒も誰と同じ学校に行くかは基本的に選択できません。

いわばランダムに集められた子どもたちが、突如として集団生活を強いられ、「仲良くする」ことを要求されるわけです。
学校内でのあらゆる生活活動は集団化されているため、”自分の運命がいつも「友だち」や「先生」の気分や政治的思惑によって左右される状態をもたらす”と著者は指摘します。

加えて、教員を中心に学校が聖域化しているのも問題です。
実社会では法の下に罰せられるような暴力があっても、司法の手が学校内に入ることを極端に嫌がり、身内だけで処理しようとする学校の体制も、いじめにとっては好都合というわけです。

群生秩序を衰退させる方法

周囲の影響を受けざるを得ない環境では、各自が身を守るために集団の論理が加速され、群生秩序が前面化し、ついには市民社会のジョーシキは通用しなくなる。
逆に言えば、周囲から受ける影響を個人の選択で回避できる状況をつくれば、群生秩序が育まれるリスクは下がる、ということ。

また、前編でも解説しましたが、いじめる側は利害関係に非常に敏感です。
自分たちが明らかな不利益を被ると分かれば、いじめは一旦は治まります。
特に暴力については司法に訴える姿勢を見せることで見事に止みます。

これらを踏まえて、著者は短期的な方策として以下の二点を提案しています。

1<学校の法化>
加害者が生徒である場合も教員である場合も等しく、暴力系のいじめに対しては学校内治外法権(聖域としての無法特権)を廃し、通常の市民社会と同じ基準で、法にゆだねる。そのうえで、加害者のメンバーシップを停止する。

2<学級制度の廃止>
コミュニケーション操作系のいじめに対しては学級制度を廃止する。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

は唐突な気もしますが、著者の意図するところは、濃密な小集団の中に人を押し込めることで、いじめが発生する確率が増幅することを危惧したものです。
学級制度を廃止することで、親密な人間関係を選択する可能性を拡大しようというわけですね。

自由な社会と透明な社会

中長期的な政策を検討する上で理想とする社会構想として、「自由な社会」を掲げています。
一方、その対称的な位置にあり、いじめを引き起こすのが「透明な社会」の働きです。

透明な社会では、何がよい生であり、何がよいきずなであるかが、ひとりひとりの幸福追求をとびこえて決めつけられる。「われわれ」にとってのよい生は、すべての人にとってのよい生でなければならない。
(中略)
学校は、制服を着せ、靴下の色や髪の長さまで強制し、運動場で「気をつけ」「前へならえ」をさせたりすることで、生徒を「生徒らしく」しようとする。その生徒の「生徒らしい」隷属のかたちによって、単なる学習サポート・サービスを提供するための組織の敷地に、聖なる「学校らしい」学校が顕現する。なぜ生徒が茶髪にしてはいけないのかというと、それは聖なる「学校らしさ」が壊れるからである。

※太字は引用者による。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

透明というと聞こえはよいですね。
が、構成員が各々監視しあうガラス張りの環境下にいる、と想像してみてください。
このような状況では、個人に対する”周囲の目”の影響力は大きなものになります。
そこには個人の自由はなく、ただ集団の論理のみが残るのです。

学校は透明な社会である、と著者は主張し、この透明な社会を打破する必要を説きます。

もっとも重要な方針は、個人に特定の生のスタイルを無理強いせずにはおれないゆがんだ情熱と、利害図式(特に権力図式)が、構造的に一致するチャンスをなくしていくことだ。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

 そのための具体的な枠組みとして提示されているのが以下の二点です。

①現在、人々を狭い閉鎖的な空間に囲い込んでいるさまざまな条件を変える。生活圏の規模と流動(可能)性を拡大する。
②公私の区別をはっきりさせ、客観的で普遍的なルールが力を持つようにする。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

これが「透明な社会」を廃し、「自由な社会」を築くための基礎の枠組みとなります。

コミュニティとの紐付け

集団の論理を強いる「透明な社会」と、個人の自由が保証される「自由な社会」。
この両者はそれぞれ農村型コミュニティ都市型コミュニティの特徴と一致しています。

端的にいえば、ここで「農村型コミュニティ」とは、”共同体に一体化する(ないし吸収される)個人”ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性を言う。これに対し「都市型コミュニティ」とは”独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」の著者・広井氏は農村型コミュニティと都市型コミュニティの両立が望ましいと主張します。
いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか」では「透明な社会」を排除するべき存在としていますが、都市型コミュニティは個人と個人のつながりをベースにしている以上、関係性構築が個人に依拠するリスクがあります。
「透明な社会」を「自由な社会」で代替する上では、「自由な社会」では実現できないことについても論ずる必要がありそうです。

「透明な社会」は「農村型コミュニティ」と特徴を同じくするとは言いましたが、「透明な社会」の条件についてもう少し細かく見るべきですね。
情緒的・非言語的なつながりは、時には田舎のおっちゃん・おばちゃんとの会話のようにどこか安心感をもたらすものであり、「透明な社会」の負の面はここには見られません。
ここを詳しく区別することで、「農村型コミュニティ」が牙をむく条件を整理することができそうです。

コミュニティの光と影

「コミュニティ」という言葉を最近至るところで耳にしますが、いじめが発生するような「透明な社会」も広義にはコミュニティです。

人が集まるところには、必ず光と影があります。
田舎のコミュニティは都会の生活にはない親密さ、温かさを持ちうる一方で、閉鎖的であり、異物を排除しようとする力が働けば簡単に人を傷つけることができます。
日本でも「津山三十人殺し」という悲惨な事件が起こりました。これも家族、そして農村というコミュニティが牙をむいた結果の悲劇です。

人とのつながりがあることで僕らが生きていられる、というのもまた事実。
コミュニティというものをあらゆる角度から見つめなおすことで、21世紀以降の新しい社会を描くヒントを得られる、そう思います。

今回は「いじめ」という問題が主題でしたが、これは日本に限ったものではありません。
コミュニティが諸条件を満たすことで、人をモンスターに変える力を持つ。
その事実に目を向けることで、人とのよりよいつながりを築くことのできる環境作りにようやく着手できるのではないでしょうか。


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