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言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト

カテゴリ:世の中の事


言語化という言葉の本記事における定義

この記事では、「自分の思っていることや伝えたいと感じていることを的確に表現すること」を「言語化」と呼ぶことにします。

言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、ということを僕は経験的に学んできました。それが本記事を書くモチベーションになっています。

ここでいう言語とは、自然言語はもちろん、コミュニケーションにおいて情報を伝達する手段として用いられるすべてを含めても良いでしょう。

 「言語化の能力」とは、
・伝えたいことを自分がより納得できる状態で把握し、
・その内容をできる限り損なうことなく相手に伝える
能力をここでは指しています。

本記事では、その能力がどのような場合に鍛えられ、あるいは芽を摘まれてしまうのかを検討してみました。

文末ではデザイン思考との関わりについて考察しています。

「言語化の能力」について掘り下げる

まずは、先に挙げた「言語化の能力」というものについて細かく見ていきます。

>伝えたいことを自分がより納得できる状態で把握し、

伝えたいことを言語化する。そのために、まずは自分が何を表現したいのかを知らなければなりません。ここで「自分がより納得できる状態で」という言い方をしたのは、「伝えたいことを」正確に「把握」することは厳密には不可能だと思うからです。

つまり、「伝えたいこと」を「把握」するという作業は「正解を選ぶ」ことでは実現できない、ということです。”適切な表現を追及し続ける”という表現の方が適切です。

>その内容をできる限り損なうことなく相手に伝える

「伝えたいこと」が把握できたら、今度はそれを表現してコミュニケーションの俎上に載せなければなりません。ところが、「伝えたいこと」を再現性の高い状態で把握出来たところで、それをそのまま相手に伝えられるかどうかは別の問題です。コミュニケーションはその相手や文脈など、複数の変数に依存して成立するものだからです。それらを総合的に加味した上で、適切な表現が求められます。

 こう書くと、誰もがこう思うはずです。「それ、難しいよね……」そう、実際、難しいのです。

アーティストは言語化能力が高い

美大出身者やアーティストの方と話をするとき、「この人たちはものすごく”語れる”人だなあ」、「言語化能力が高いなあ」と感じることが多々あります。

なぜか。「ユニークであることが常に求められるから」そう考えると説明がつくのではないでしょうか。アーティストは創作のスタンスにしろ、アウトプットにしろ、常に自他からアイデンティティを問われるはずです。

「あの作家とどこがどう違うの?」「この作品と同じじゃない?」「なぜあなたはそれをつくるの?」「その作品の意義はなに?」

そんな言葉を簡単に投げかけられてはいけないし、投げかけられた際には納得のいく回答が求められます。

「自分が他人と違う」ということは当たり前のことですが、突き詰めてユニークなアウトプットに落とし込むのは非常に難しい。他人と自分の違いを認識するためには、双方をできるだけ深く理解することが不可欠だからです。

これはまさに言語化の作業です。アーティストは常に言語化を強いられるわけですから、その能力が自然と身につくのも当然と言っていいでしょう。

同時に語彙も身につくはずです。ユニークであること、表現者自身のアイデンティティは、当然ながら他人にも理解されなければなりません。自分の考えをより適切な形で把握し伝えるということは、ボキャブラリーの拡張の必要に迫られるということだから。

つまり、コミュニケーションの基本的な手段である「言葉」の精度を高めることを日常的に経験している。結局、アーティストとしての表現手法を問わず、彼らは「言語化」に強くなるのではないでしょうか。

言語化能力の養成を阻みうるハイコンテクスト文化

「言語化」を要請され続ける生き方とは逆に、言語化能力が育まれない環境もあると考えています。「言葉にしなくてもなんとなく伝わる」 環境では、わざわざ言葉にする力を伸ばすのは難しい。そう考えさせられるケースをこれまで何度か見てきました。

日本や東アジア諸国は「ハイコンテクスト文化」と言われています。逆に英語圏などは「ローコンテクスト文化」に当てはまります。

ハイコンテクスト文化
聞き手の能力を期待するあまり下記のような傾向があります。

  • 直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
  • 曖昧な表現を好む
  • 多く話さない
  • 論理的飛躍が許される
  • 質疑応答の直接性を重要視しない

ローコンテクスト文化
話し手の責任が重いため下記のような傾向があります。

  • 直接的で解りやすい表現を好む
  • 言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
  • 単純でシンプルな理論を好む
  • 明示的な表現を好む
  • 寡黙であることを評価しない
  • 論理的飛躍を好まない
  • 質疑応答では直接的に答える

ハイコンテクストとローコンテクストの違い

「コンテクスト(context)」は一般に「文脈」と訳されます。引用部に「聞き手の能力を期待」とありますが、つまり、「言わなくてもわかるよね(わかってよね)?」というコミュニケーションになりがちなのが、ハイコンテクスト社会です。そこでは言葉ですべて説明する必要がありません。

引用先のページにある例が面白いので引用してみます。

ある商社で「先週のインドネシアでの商談はうまくいったのかい」という問いかけがあったとします。日本型のコミュニケーションスタイルでは、
「人間万事塞翁が馬。今のインドネシア情勢の変動は激しく予断を許さないからね。今回の契約もどうなるかとヒヤヒヤしていたんだ。人間諦めないで最後まで頑張ってみるものだね・・・・」
のように、問いに対する答えを直接的に伝えることよりも、周囲の状況や自分の感情などを詳細に説明することで共感を求め、肝心の答えは相手に推測してもらおうとする傾向があります。

一方、英語型のコミュニケーションスタイルでは、
“It was so successful. We got two new big contracts there.”「非常にうまくいった。大きな新規契約を2つ結んだよ」
のように、問いに対する回答や結果などの重要な情報を明確に伝えます。推測しなければならないような回答は、伝達側の努力不足でありルール違反であり、非常に無責任なものととられます。

ハイコンテクストとローコンテクストの違い

質問に対する回答を「文脈」に預けるか、「言葉」に預けるか。二つの文化間の違いがにじみ出ていますね。

言語化能力の養成という観点からすれば、ハイコンテクスト文化は文脈の活用を促進し、具体的な「言葉」による表現を避ける傾向を生み出します。

ハイコンテクスト文化が必ずしも悪とは思いません。例えば俳句は、たった17字の中に組み込まれた文脈を読み手が想像することで、芸術性を成り立たせています。日本を代表する小津安二郎の映画にも、文脈をふんだんに利用した描写や台詞回しが見られます。

察する力が読み手に求められるのは、ハイコンテクスト文化という背景があってこそでしょう。この独特な表現手法は、文脈を積極的に活用し、相手の察する力に働きかけることで豊かなものとなります。

一方、相手の察する力に依存し、
文脈に”丸投げ”するコミュニケーションは、
具体的で的確な表現を放棄する方向に働きます。

劇作家の平田オリザも指摘するところですが、最近の親は子どもに「ねえ、あれ」と言われるだけで、その時々の状況により食後のデザートを出したり飲み物を出したりするそうです。これは、文脈依存の最たるケースです。赤の他人では一切成り立たないコミュニケーションに慣れると、いざ他人と話す際のコミュニケーションの文法を身に付けないまま、社会に出ることになりえます。

文脈に依存しやすいのは、前提を共有している場、「みんなわかるよね?」という空気の影響にもよります。

学校、会社、地域…。同調や共感を強いる側面を持つこの空気感は、「農村型コミュニティ」の特徴とも言えるでしょう。この場では、同調が暗黙の前提であるゆえに、共有されている文脈にないこと(=説明が要ること)は話題にあがりません。

必死になって自力で適当な言葉を選ぶのではなく、前提となっている文脈に頼り、みんなと同じ言葉を使う。こんな環境に居続ければ、他者理解どころか、自己理解すら難しいという事態に直面するのは当然です。

他者が分からない人間に自分自身の把握はできない。そもそも自分と他人がどう違うか、その差異を考え、表現する機会の乏しさがもたらす当然の帰結です。
(参考:《他者》:「主体的」な行為をつくりだすただ一つの手がかり

例えば、高校や大学卒業といった人生の選択を迫られるときに「社会的な尺度」(みんなの基準)でしか決められない。これが文脈依存者の末路のように思えてなりません。

改めて、デザイン思考

ここまできて、ようやく先日の記事につながります。

基準が「私」なのか「みんな」なのかの絶望的な違いとデザイン思考

デザイン思考の(おそらく)根本にある、理想と現実を可能な限りマッチさせようとする”気迫”は、文脈に依存し、言葉を曖昧なままにする文化の中で育つことはありえるでしょうか。ほとんど希望はないと言っていいでしょう。

ハイコンテクスト文化においては「察する力」が求められますが、近年ではその衰退を嘆く声すら上がっています。
この悪しき文脈依存の状況を断ち切らなければ、僕らは「わび・さび」すら感じられなくなるかもしれません。大量の情報を並べ、グルーピングし、それぞれに文脈を埋め込んで図示するという、デザイン思考のエッセンスとも呼べる作業も遂行できないでしょう。

[1]Design Thinking

定義

デザイン思考は、技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なものと、人々の要求とを一致させるために、デザイナの感覚と手法を利用する方法、である。

デザイン思考の系譜 | Design Thinking for Social Innovation

「技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なもの」と「人々の要求」を「一致させ」ようとする”気迫”。それは、「試行錯誤アプローチ」とも呼ばれる、プロトタイピングによって徐々に精度の高いアウトプットを追及するプロセスにも現れています。そしてこのプロセスは「自分は何を求めているか?」という、終わりの見えない問いに対して、より適切な表現を探し続ける作業に似ていると感じます。

そういう点で、デザイン思考は、ビジネスを促進し、イノベーションをもたらすもの以上の意義があるのかもしれません。単なるビジネスの一手法として捉えるのはちょっとつまらないなと思います。

※以下の記事でも「言語化」についてコミュニティの視座からまとめてみましたので、よろしければご笑覧ください。

「言語化」の台頭とコミュニティの変遷~農村型コミュニティの衰退~


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