就活における面接のポイントと判断材料

カテゴリ:自分事


悩ましいんだけど、絶対に採用できない人」という記事が目に留まりました。

新卒の最終面接選考をやっていて思うことがいくつもあるのですが、悩ましいんだけど絶対に採用できない人っていうのがいます。

それは、選考はすべて終わったのですが、結局どういう人なのかを自信持って判断ができない人です。

マネジメント・キャリア・人事 ~ブログJ-center~ 悩ましいんだけど絶対に採用できない人

この問題が生じる要因は、詰まるところ判断材料が不足していることに起因します。

◇応募者が面接官に対し十分な判断材料を提供できていない。
◇面接官が応募者を判断するための情報を十分に引き出せていない。

面接が終わった後に振り返ってみたけれど、「よくわからない」。
「よくわからない」から、採用できない。だから不採用にするしかないのです。

不採用になる理由

判断材料が不足してしまう構造を考える前に、まずは不採用になる理由を整理してみましょう。
企業が応募者を不採用にするにあたり、 大きく以下の3つの理由が考えられます。

1.応募者のスキルや能力が企業の要件に達していない。
2.応募者の行動特性や動機、将来の展望が企業風土や方向性とマッチングしない。
3.選考プロセスを通じて応募者を判断する材料が揃わない(分からない→採用できない)。

※念のため言及しておくと、この3つは「理想的」な選考プロセスにおいてはじめて成り立ちます。
合理的で透明性のある選考プロセスであれば、「なぜ採用・不採用なのか」を社内で説明できるかどうかが非常に重要となるからです。
逆に、面接官の直感が先行したり、人物や能力より学歴・経歴重視だったり…という場合には採用・不採用の要因はさらにぶれます。

冒頭で紹介したブログは「新卒採用」についてでした。この新卒採用についてはスキルや能力よりもマッチングが重視されます。
学生は労働市場で評価されるようなスキル、能力を持っていない、あるいは持っていたとしても発揮したことがない、という場合がほとんどですから、当たり前といえば当たり前ですが。
企業が学生に対してスキルや能力を求めるのは、エンジニアやクリエイターなど専門職採用の場合がほとんどでしょうし、一般的な企業の総合職採用においてはSPIや玉手箱、ES等を用いてある程度測定可能な能力(文章力、論理的思考力など)によって足切りするくらいのものでしょう。

特に新卒者の場合は選考プロセスにおいて、スキルや能力以上にマッチングするかどうかを面接官が判断するための材料を提供することが求められます。
判断材料を提供しなければ、採用するかどうかを判断できず、結果的に不採用になるからです。
もちろん、悪いこともなんでもかんでも自己開示しろ、ということではありません。
応募者の経験や思考プロセス、価値観が見えないことには「良い」も「悪い」も判断することができない、というだけのことです。

判断材料を提供しない/できない構造を考える

しかし、冒頭の記事のとおり、判断材料を面接官に提示できなかったために不採用になる人が少なからずいます。
判断材料はできるだけ提示した方がよい、とは合理的に考えれば理解できるはずなのに。

その理由を考えられる限り挙げてみました。

(1)提供できる判断材料自体が少ない。

判断材料として提供できるのは、自分のこれまでの経験やその中での思考プロセス、価値観等です。
その情報が少ないということは、本来の意味での「自己分析」が足りていない証拠です。
普通、サークル活動やアルバイトを通じて、なんらかの経験を積んでいるはずですが、それを言葉にできていない人は、意外と多いものです。

僕の経験で恐縮ですが、大学時代に所属していたテニスサークルでこんなことがありました。 
ここでは他の例に漏れず新勧(新入生勧誘)を盛んに行っており、たくさんの新入生をサークルに入れるため、毎年4月は練習にコンパにと大忙し。
しかし、僕らのひとつ上の先輩たちは張り切りすぎたために「コンパに新入生が来過ぎる」事態となり、結局新入生とまんべんなくコミュニケーションをとることができず、最終的にサークルに入った人数も満足の行くものではありませんでした。
先輩たちはその反省を踏まえて僕らにアドバイスをくださり、それを受けて自分たちで具体的な対策を検討します。
これまで出会った新入生に手分けして連絡を取り、コンパ前日までにできるだけ参加する新入生の数を確定するようにし、人数が読みきれない当日の勧誘は抑える方針をとりました。
その結果、コンパに参加する新入生の数もコントロールできる範囲に留まり、コミュニケーションも十分にとれ、数字としても満足の行く新勧を行うことができました。

これは個人の行動・経験そのものではありませんが、所属する組織がこのようなプロセスを通るのはよくあること。
組織が通ったプロセスの中で、どのような状況下で、どのように対策を考え、行動し、どのような成果を出したか。
自分が置かれたシチュエーションを振り返ることが、経験を語るためには不可欠です。

STAR手法という便利なフレームもあります。過去の経験を整理して説明することができます。
僕のサークルでの経験もSTAR手法に基づいて説明されています。

Situation…状況:サークルの新勧について+先輩たちの反省
Task… やるべきこと:適切な規模で新勧を勧める
Action…具体的にしたこと:事前に人数確定するため奔走
Result… 得た結果:サークルに入った新入生数増加

自分が大学時代に携わったことについて、STAR手法を用いて説明を試みようとすれば、とりあえず量自体は確保できます。

※STAR手法についてはこちらの本で知りました。
面接官のための本ですが、シューカツ生が読んでも学ぶことが多いです。

(2)適切な判断材料を提供できていない。

(1)が量の問題であれば、(2)は質の問題となります。
STAR手法を紹介しましたが、これを用いれば面接は完璧、という類のものではありません。
こういった手法はあくまでフレームであって、肝心なのはそれらを通して自分自身の経験や価値観などの判断材料を面接官に十分に提供することです。

自分自身で経験を振り返るときには、具体的であればあるほどよいでしょう。
もうひとつ重要なのは、そのとき何をしたか、何を思ったか、その事実のみで話を構成してみることです。
特に数字(規模、実績、人数、期間など)は手軽に相手の理解を促してくれます。
(10人のサークルの幹事長と100人のサークルの幹事長では求められる役割も変わるはずですよね?)

過去の事実と、今現在自分がどうそれを解釈しているかを混同して話すと、聞いている側としてはどうしても相手が都合の良いように話をしているように感じてしまいがちです。
重要なのは事実なので、自己PRにおいてはどのような状況でどのようなことを考え、どのように行動し、どのような結果を得たか、そのプロセスを伝えることに終始しましょう。

(3)判断材料を提供することを避けている・制限している。

冒頭のブログにこんな言葉があります。

「わかりきれなかった」学生の大半は、面接がかなり上手な学生です。面接が上手でそれなりにそつなく答えてしまうのでその人が本当にどういう人なのかに、自信が持てません。もちろんもう少しかわいいパターンとしては、面接がプレゼンになってしまう学生というのがいて、何を聞いても用意してきたパワポのスライドにある内容に結び付けて答えようとしてしまい、面接がコミュニケーションにならず、結局、用意したパワポのスライド数はわかっても、その人のほんとがわからないというのもありますが、こういったパターンだと、わかろうがわかるまいが合格するのは難しいですね。

 マネジメント・キャリア・人事 ~ブログJ-center~ 悩ましいんだけど絶対に採用できない人

このブログの著者は「最終面接選考」を担当しています。
従って著者が選考する学生は(1)(2)についてはクリアしてきたと見ていいでしょう。

著者のいうとおり、最終面接を終えたときには「採用する・しない」の二択しかありません。
この時点で「わからない」学生は、もはや採用とすることができないのです。

「わからない」というのは、本音が見えない、その人の素が見えないということ。
面接は双方向コミュニケーションの場です。この場においてプレゼンに終始したり、台本どおり一言一句違わずに話すことにこだわったりするということは不適切であり、一方的であるといえます。

一方的なコミュニケーションをするということは、自分が準備できていないプレゼンのスライドについては話さないということにつながります。
つまり、常に相手の聞きたいことではなく、自分の話したいことしかしゃべらないということ。 
これは自分に都合の良い自己開示でしかありません。

よくいうのですが、一番よい面接というのは、途中から面接が「世間話」に近くなります。「世間話」というのは、極めてナチュラルなコミュニケーションの場を意味しています。等身大のその人がみえて、その人の言葉で、その人の関心があることを語っています。そういった面接になると、こちらも安心して採用の決断をすることができます。

 マネジメント・キャリア・人事 ~ブログJ-center~ 悩ましいんだけど絶対に採用できない人

 「世間話」は会話のキャッチボールが成立している状態を指すと考えることができます。
相手がいることを前提にボールを投げ返さなければ、世間話は途切れ、崩壊します。

自分の都合の良いことしか言わないという心理の裏には、不採用に対する恐怖が見え隠れします。
自己開示した結果不採用になることを、まるで自己否定されたように捉えているのかも知れません。

しかし、部分的な自己開示ではマッチングを判断しきれない場合があります。
僕としては、相手の聞きたいことをベースに、自分の言いたいことを絡めながらその場その場で答えていく器用さを追求するか、率直なコミュニケーションを心がけるか、大きく二つの方針があると思っています。

また、自分のこれまでを振り返ることで、そこに何らかの一貫性を見出すことができるはずです。
これをベースにすることで、様々な質問にもブレずに答えられるようになります。

終わりに

とはいえ、自分の過去を振り返り、面接で理路整然と伝える、ということは容易ではありません。
日々の行動を都度都度反省し、できれば改善を目指すということが、結局は一番近道であるように思います。

もっと勉強ができるようになるために、もっとサークルを活発にするために、もっとバイト先の環境をよくするために。

このようなマインドを常日頃からもっている人が就職活動において有利であることは間違いないでしょう。
その姿勢こそが、企業に入ってから求められるのですから。


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メンタルヘルスと「将来への不安」の処方箋

カテゴリ:読書の記録


2年間で述べ1000社を超える企業の人事担当者と会い、日本の企業の人事部の課題とこれからを徹底的に現場目線で拾い集めようとした著者による、人事のための指南書。
タイトルだけに魅かれて購入してみました。

僕は人事の実務経験といえば採用にちょっと関わっただけ、あとは前職でシステム屋として労務管理のソフトウェア開発に携わったくらいですので、本書のメインテーマである「これからの日本の大企業の人事」には触れないでおきます。

日本企業を悩ませる問題の根っこはどこに?

以下、少々長い引用を。

メンタルヘルスはキャリア形成の問題と切り離せない

メンタルヘルスの問題は、キャリアの問題と切り離しては考えられない。
ある社員が上司とうまくいっていないとする。会社が成長し続け、年功序列終身雇用が機能していた時代なら、異動できる部門は潤沢にあったし、課長や部長への昇進はほぼ保証されていたため、 いつか現状から抜け出すことができると信じて我慢することができた。そのため、上司との関係が多少悪くても、それについて、悲壮感をもって突き詰めて考えることは少なかったのではないか。
しかし、今、多くの企業では、異動機会は限られている、いつ昇進できるかわからない、自分の下に社員が配属されないといった現状もある。こうなると、今の上司との折り合いの悪さが自分のキャリア形成に大きな影を落としていると感じて、そのことから考えが離れなくなってしまう。
つまり、始まりはキャリア形成への不安なのだ。

この引用箇所から推測できるのは

1.メンタルヘルスの問題はキャリア形成への不安が起点となっている。
2.今の時代、キャリア形成への不安を覚える大きな要因として、上司との折り合いの悪さが上げられる。

ということ。
2については金井壽宏氏も著書「働くひとのためのキャリア・デザイン」において、キャリア初期において上司の存在、あるいはそれとの関係性がその後のキャリアに大きく影響を与える、と言及しています。

特に僕が着目したのは1の視点でした。

「自分はこの会社で果たしてやっていけるのだろうか。」
「この会社で一生懸命働くことに、意味はあるのだろうか」

将来が見えないこと、先行きを楽観しできないことに対する不安が、メンタルヘルスへ悪影響を及ぼしている、ざっくりとそうまとめることができそうです。

先行きの見えない不安を誰もが持つ時代への処方箋

メンタルヘルスはあらゆる企業で問題となっており、産業カウンセラーを社内に配置するところも少なくありません。
鬱病は「かわいそうな誰かの病気」などでは決してなく、自分や家族、友人、同僚と身近なところで起こりうる問題になっています。

つまり、それだけ将来への不安に苛まれている人が多い、ということ。

本書によれば、メンタルヘルス問題に対応するため、人事担当者がキャリアカウンセラーの資格を取得したり、実際に現場に出て社員と話をしながら、異動や上司との話し合いなど、落としどころを見つけていく、という対策をとっている企業もあるそうです。
終身雇用もなくなりつつあり、キャリア形成は社員一人ひとりが自律的に行うべき、という風潮が強まる中、企業に入ったからには、少なくとも社員であるうちは、社内でのキャリア形成についてできる限り会社がサポートする、という態度が、結局は社員の悩みを解決し、パフォーマンスを安定させているということかもしれません。

学校教育では、将来に渡って社会で通用する人材を育成するために、キャリア教育に力をいれはじめています。
しかし、基本的に学校教育は被教育者が社会に出た後まで被教育者の将来にコミットできるものではありません。
結局、高校も大学も「進学・就職させる」ことにのみ注力することになりがちです。

フィンランドで見つけた「学びのデザイン」 豊かな人生をかたちにする19の実践」を読んでみると、フィンランドでは学校以外にも図書館やミュージアム、NPOなどがあらゆる人の学びの機会を創造することにコミットしていることが伝わってきます。
学ぶ主体は国民一人ひとりですが、単に「学べ!」と啓発するだけではなく、社会に出ても学ぶことのできる場を提供しようとしているのです。

昨日のブログでは「Learn, or die.」という言葉を紹介しました。
就職させることが目的となりがちな日本のキャリア教育は、「Learn, or die」の精神に基づいている、つまり「学べ」といいながら生涯にわたって学ぶ機会を保障していない無責任さがそこにあります。
フィンランドは日本よりも一人ひとりが「学ぶ主体」となることを求めているように感じますが、その一方で学ぶ場をつくり、要求するだけの責任を果たそうとする姿勢を垣間見ることができます。

丸投げしない。求めただけの責任を取る。

よくよく考えれば当たり前のことですが、この視点で「仕組み」や「制度」を考え直してみるのも悪くないかも。


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「フィンランドで見つけた「学びのデザイン」」から学ぶために

カテゴリ:読書の記録


「教育」で世界的な注目を集める北欧の国、フィンランド。
そこで実践される「学びのデザイン」の事例が幾つも紹介されているのが本書。
特に、本書では学校教育外に着目し、ミュージアム、図書館、メディア、自然の4カテゴリ におけるフィンランド国内のステキな取り組みについて、実践者へのインタビューも交えて紹介しています。

写真も豊富に掲載され、カバーの彩もよく、本のデザイン自体も非常によい。
読みやすく手に取って読むだけで幸せになれること請け合いです。

内容に入る前に-独り言

僕は「学び」という言葉がどうにも苦手です。
世の中的には、むしろ「学び」は「教育」よりも注目され、勢力を拡大しつつあるというのに。

「teaching」ではなく、「learning」がもてはやされる時代。

その背景には、昨今の雇用不安があると思います。
自ら学べる学生には内定が集中し、そうでない学生にはひとつも内定がでない。
ディテールを捉え切れていない見方かもしれませんが、今はまさにそんな時代です。

ここにおいて「学び」を強調するということの意味について、僕はネガティブに捉えています。

“Learn, or die.” - 「学べないやつは死ね。」

極端な見方だとは思いますが、自立的に学べる人材を育成しようと主張する人に対しては、無意識に学べない人材を排除するような意図が込められていやしないか、いつも注意して見るようにしています。

学校教育においてはteachの主語は教師。 learnの主語は生徒。
主語が逆転することで、責任の所在まで移っていやしないか。
「学び」という言葉を耳にする度、僕はついついひやひやしてしまいます。

いきなり本書にない内容から始めてしまいました。
以下から本題に入ります。

学びをデザインするのは誰か?

冒頭にちらりと書きましたが、本書は基本的に学校教育外の取り組みについて取り扱っています。
そうなると気になるのは、教師以外の誰が子どもや大人の学びをデザインしているのか、という点です。

本書の登場人物は、図書館、ミュージアム、NPO、自然学校、動物園のスタッフたち。
彼らが語るいきいきとした実践がなければ、これだけ多様な学びの場が生まれることはなかったのではないか。
フィンランドにおける学びのデザインは、何よりもそれに取り組む人の存在が大きかった、そう感じています。

「翻って、日本では、どうだろうか?」

本書では、とある図書館のスタッフたちがWEBサイト上で全国から投稿される質問に回答する取り組みが紹介されています。いわば、「生協の白石さん」の図書館版。
こんなサービスを、日本の図書館が始めることが想像できるでしょうか。

紹介されている3つの図書館は(読む限り、おそらく)すべて公共図書館です。
「公共の図書館でこれだけ”働く”スタッフがいるなんて」 
日本人の僕が真っ先に不思議に思ったのは、そこでした。

図書館は基本的に無償でサービスを提供するものです。
利用者数が増えることはスタッフの仕事を増やす割に収益の増加には結びつきません。
利用者数がスタッフの人事評価につながるなら別ですが、基本的には図書館のタッフが利用者数増にコミットできなかったとしても、しょうがないのかなと思えてしまいます。

学びのデザインの実践者の言葉からは、「利用者にとって本当に価値のあるものを提供する」というコミットメントのようなものが感じられます。
あるミュージアムの活動報告書は、僕たちが”活動報告書”と聞いてイメージするそれとは全く異なり、創造性にあふれ、思わず手にとって読んでみたくなるようなデザインでした。
上述したQ&AのWEBサイト「iGS(information Gass Station)」を運営する図書館のスタッフは、「iGSを重要なマーケティングツールと捉えています。」と話しています。

これだけ主体的なシゴトができる、「優秀な」スタッフが、なぜ集まるのでしょうか。
引き続き追ってみたい「不思議」をひとつ見つけてしまいました。

優れたデザインがあふれているフィンランド

本書の事例を見ながら、実際にNPOなどのWEBサイトを幾つか覗いてみました。

http://en.mediakasvatus.fi/
http://www.koulukino.fi/
http://igs.kirjastot.fi/en-GB/iGS/
http://www.esajaesineet.com/
http://mediakompassi.yle.fi/

どのサイトもWEBデザインで手を抜いている様子はなかったのが印象的です。
これだけ見ても、フィンランドの人たちのデザインに対する認識が汲み取れるような気がします(というのはさすがに言いすぎでしょうか)。

また、見た目だけでなく、ワークショップや提供するサービス、施設の設計に至るまで利用する側の立場になって考えられている印象を受けます。
専門的な知識以上に、デザインすることが習慣化されている、そう思えてなりません。
(もちろん、本書が優れた実践を取り上げているからそう見えるという面もあるんでしょうけど)

日常のシゴトの中にデザインがある国。
 教育に限らず社会保障や政治など様々な面で注目されるフィンランドを、こう見てみるのも面白いかもしれません。

 

あえて「学び」から観点をはずしての書評となりましたが、本書においてはこの言葉がキーワードであることは間違いありません。
政府も国民もサービスの提供者も、「学び」の重要性を強く認識しており、機会の平等を実現することがコンセンサスになっているように感じます。
正しいと信じることを実践する。より良いものを提供できるように創意工夫する。
当たり前のようでなかなか難しいことを、ごく自然なこととして語るフィンランドの人たちを、ただただ尊敬するばかりです。


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