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研修の場としての地域の可能性~海士での経験を通じて~

カテゴリ:世の中の事


通常業務に加えて、先週辺りから海士に来ている都内の私立大生3名の研修のコーディネートをしています。
視察に来られた方や業務補助をメインとして来島したインターン生の対応をしたことは何度もありますが、研修の中で参加者の成長を引き出すことを第一に考えたのは初めてなので、こちら側もいろいろ勉強になっています。

明日、2週間の研修の最終報告会があります。
それまでに何度かフィードバックの機会があったのですが、それに対して3名が自分なりに応えようとしている姿が見受けられました。
全く異なるタイプの3名が、最終報告会でどのようなアウトプットを出してくれるか、非常に興味があるところです。

そんなタイミングで、いろいろ思うことがあったので、簡単にまとめてみました。
(終わってからまとめたらいいじゃん、とも思いますが)

まとめ

書き出したらびっくりするくらい長かったので、ざっとまとめます。

・地域での研修受入は、他地域との差別化につながる(かも)
・利益目的だけだと、地域での研修受入は、辛い
・地域で研修受入を行うにはコーディネーターが必要
…地域のリソースと研修する側のニーズの把握とすり合わせ、プログラムの組み立て、関係性づくり
・海士の「もてなし」すごい!
・秋田もリソースいっぱいあるから受け入れたらいいじゃん!
→今まで秋田に来なかった層のネットワークを活用できるかも…。

研修の場としての地域の可能性

そもそも「研修」って何よ?というところですが、大きくは「スキル・知識の習得」と「マインドの変化・醸成」の二つの方向性があると思っています。
実際には、一つの研修には二つの目的が入り混じったかたちで実施されることが多いと思われます。

こんな記事もありました→価値のある研修とは?
「研修」という形式をとるのであれば、せっかくなら自習では得られないものを提供しようとするのが筋でしょう。

研修の場としての地域の活用方法に目を向けてみると、
・集中研修-隔離された場
・実地研修-実践、体験、フィールドワークをする場
の2種類がほとんどを占めているのではないでしょうか。

前者の場合は「どの地域か」ということはそこまで問題にならず、研修を受ける側(研修主体)は職場や普段の生活との距離やギャップの大きさを重要視する傾向にあるのではないでしょうか。
その場合、どうしても目に見える交通費、滞在費、距離、宿泊先の環境、食事の良さ、温泉があるかどうか、などで比較されてしまうのがネックです。
関東を例にすると、東京から車でも2~3時間程度の距離にあるところ、千葉や埼玉の田舎ら辺、箱根、伊豆なんかがよく利用されているイメージを勝手にもっています。

逆に、なかなか測りづらい地域の独自性や魅力を活かすなら、後者の可能性を追求するのが良さそうです。
海士町や秋田など、都市部と離れている場合、特に意識しなければいけないのがこの部分と言えるのではないでしょうか。
(ちなみに、観光面においても、差別化を図るために同様の観点が問われているように思います)

地域で実地研修プログラムを実施する際の課題

場所さえ確保すればいい集中研修の場合は、研修主体がプログラムを策定することがほとんどでしょう。
施設を利用する場合でも、形としては地域側が提供することになりますが、ほとんどは既存のサービス(温泉など)をそのまま提供することがほとんどなので、研修だからといって特別に地域側で工面することはないと思われます。

逆に、実地研修について考える場合、プログラムは基本的に地域側から提供する必要があります。
ここに、集中研修を受け入れる際には発生しない課題が浮上するポイントがあります。

・研修主体のニーズを地域が把握できない

研修主体として考えられるのは、企業、自治体や関連組織、NPO、大学など様々です。
主体がさまざまであるということは、それぞれの研修に対するニーズもばらばらである、ということです。

もちろん研修の目的は先に挙げた2通りで大きく括ることはできますが、正確にニーズを把握するには、それなりの経験やノウハウが必要です。
単に研修主体の言葉を鵜呑みにすればいいわけでなく、

・研修主体に応じてどのような研修成果が求められるか
・最近の研修の傾向(流行、時代背景など)を認識しているか
・研修主体の人数や日程を考慮できるか
・研修参加者のレベルやモチベーションを考慮できるか
・ニーズを正確に引き出すためのヒアリングができるか

などなど、配慮すべきことは結構多いです。

・研修主体のニーズに応じたプログラムを提供できない

研修主体のニーズが正確に把握されたとしても
・ニーズに応じたプログラムが地域側にあるか(あるいは組めるか)
・ニーズに応じてプログラムを選択することができるか
という問題が別個に付きまといます。

実際には、ニーズの把握に課題を抱えている地域は、同時にこの課題にも頭を悩ませるように思います。
日ごろから研修主体のニーズを把握できているということは、地域で提供できるものによってどのような研修のニーズを満たせるのかも検討できるということだからです。
地域側のリソースを把握できていれば、情報発信の段階で提供できるものを正確に伝えることができるので、研修主体のニーズとのミスマッチも回避しやすいでしょう。

ここにもスキル不足の問題があると言えますね。

・利益目的で研修を受け入れるのは難しい

実地研修受入の際には、基本的に地域側のリソースを割く必要があります。
そこにおける最大の課題は、人手を割けるか、という点です。
要は、「研修受入はめんどくさい」ということです。

地域が単独で研修受入が主な業務となっている組織・機関を持っている、ということは、あまり考えられません。
海士町ではほとんどの企業研修は巡の環が受入を行っていますが、大学や自治体の研修・調査・視察などは町が受け入れています。
後者の場合、町では研修主体ごと、あるいはニーズごとにコーディネートを行う部署が割り振られているようです。

つまり、通常業務と並行して研修の受入が行われます。
海士では担当課長が2~3日島外からの研修につきっきり、ということも、そこまで珍しい光景ではありません。

特に視察などの場合、滞在費と視察費が地域に落ちますが、コーディネートのコストはかなり大きいものがあります。
平常業務が滞ってしまう以上、あらゆる研修・視察を受け入れる地域(自治体)というのは、そう多くないのではないでしょうか。

実際問題として、「なぜ研修・視察を受け入れるのか」を組織内で明確にすることが求められると思います。
場合によってはメリットのない研修・視察受入は断ることも必要になるからです。

海士町の場合

他の自治体を良く知るわけではないですが、海士町では研修や視察の受入を積極的に行っていると感じます。
海士町は、まちづくりの分野では全国規模で有名なために研修・視察受入の依頼が多いという側面もありますが、それにしても歓迎ムードすら漂う感があります。

海士町の山内町長は「もてなし」という言葉をよく使われます。
田舎の人は見知らぬ人にも優しい、というイメージをなんとなく持たれている方も多いと思いますが、役場の課長陣をはじめとする方々がそれを体現している、という感じですね。
大きなコストがかかるにしても、人の縁を大切にする。有り体に言えば「一期一会」といったところでしょうか。

しかしながら、それが確実にファン層の拡大や新たなネットワークの構築に役立っているように見受けられます。
要人が来島した際の受入も隙がないのは、日ごろから「もてなし」が実践されているおかげかもしれません。

小さな島だからこそ、リソースの把握とプログラムへの組み込みがしやすい、という点も見逃せません。
研修や視察の場となりえる事業所や三セクとの関係性ができあがっているので、体験や視察を比較的気軽に依頼することができるのでしょう。

巡の環も、地域の人からの信頼作りを丁寧に進め、頼り頼られる関係性を構築することを重要視しているようですが、それによって海士でしかできない企業研修のプログラムづくりが可能となっている印象があります。
コーディネートする主体だけがリソースをすべて掌握している、ということはなかなか起こりにくいはず。
地域を研修のフィールドとするためには、関係性が重要となるのではないのではないでしょうか。

島のリソースに自信を持っていることも一因として挙げられそうです。
外から人を受け入れられることに抵抗感がないのは、見せたいもの、感じてほしいものがたくさんあるからこそかもしれません。

自信のあるリソースが増えればそれだけ研修プログラムの幅が広がり、多くの研修主体のニーズを満たすことが可能となります。
巡りの環は関係性の構築と並行して地域の人や資源、文化の魅力の掘り下げをしっかり行うことで、プログラムの精度、つまり「ニーズを満たせるかどうか」を高めることができているのかもしれません。

秋田で研修を受け入れるとしたら

僕の地元である秋田県で研修の受入を行うとしたら。

民の動きが活発化しつつある(と感じる)こともあり、研修のコアとなる「人」というリソースはたくさんあると思います。
第一次産業やそれに深く関連する食品加工の分野から見ても、例えば日本酒にまつわるストーリーは非常に魅力があるのではないでしょうか。
僕の地元の蔵でつくられている「やまとしずく」なんか、その典型ですね(お酒と実家の宣伝もかねて)。

先に上げた地域における研修受入の課題や海士町の特徴を見てみると、必要となるのは「コーディネーター」の存在であると言えるのではないでしょうか。

コーディネーターの役割は以下の通りです。
・リソースを把握する(関係性づくり)
・リソースをプログラム化する(リソースとニーズのすり合わせ)
・諸々の雑務の引き受け

地域のリソースを見極め、研修主体のニーズを踏まえながらプログラム化し、研修全体のスケジュール調整やアテンドを行う。
そのようなコーディネーターの存在によって、各事業主体の研修受入のスキルがさほど問われることなく、効果的な研修プログラムの提供を進めることができるはずです。

逆に言えば、今はコーディネーターが不在(あるいは不足)している段階ともいえます。
当然、秋田という地域そのものの方向性もあるでしょうが、一つの可能性として、検討してみるのもありなんじゃないでしょうか(根拠なし)。

もちろん、事業主体がスキルを身に付けるのも一つの手段だと思います。
例えば、秋田はグリーンツーリズムの足場がずいぶん固められており、農家民宿の開業も増えています。
そんな中、農業体験や田舎のゆとりある時間を楽しむという方向性以外に、学びの場としての農家民宿の可能性を考えることもできるのではないでしょうか。

現実性はとりあえず置いておくとしても、農家民宿のご主人がファシリテーターのスキルを習得することで、これまでの農家民宿が狙う層とは別のターゲットに秋田を訴求することができるかもしれません。
そのターゲットとなる人は、自身の人間的成長やよりより生き方に対する意識が高いと想像できます。
そのような層が秋田というフィールドに触れ、関心を持ち、かかわりを築き、交流が生まれることで、何か面白い影響が出てくるようにも思えます。

余談…僕が秋田での研修受入を提案する理由

海士町にIターンが多く訪れる理由として、ネットワークを持っている層が先行してIターンしてきたことが挙げられるのではないか、と勝手に思っています。

人のつながりが、海士ファン拡大に確実に結びついている。
海士に来てからというもの、そう思わされることがたびたびありました。
秋田というフィールドを学びの場として発信することで、そのようなネットワークを持つ層が集まってくる、そんな期待も込めて、こんな提案をしてみました。

※この話については、自分の中で整理ができたら、改めて記事にまとめようかなと思っています。


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今起きていることを見つめる、という作法-子育ての現場から

カテゴリ:自分事


『子育て支援』って一体なんだろう。子どもを育てることにも支援が必要な時代になったのだ。昔は地域で子どもを育てることが当たり前のような社会だったはず。高度成長期以降、核家族化がすすむなか社会にも会社にも家族にもさまざまな変化が見られるようになった。それらが「豊かさの代償」だとすると豊かさの意味を問い質さなければならない、と一時的に熱を帯びた議論が展開された。しかし、物質的欲得から離れられず、結局、議論のみがずっと空に浮いたままの状態で、あたかも答えに辿り着きたくないかのような不誠実さを感じるのはボクだけだろうか。見かけは議論、内実はアポリア(思考停止)、あまりに切ない現実。

子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

「豊かさの代償」と捉えるかどうかは慎重に検討する必要がある、とふと思いました。
「豊かさの代償」という言葉には、「選択可能である」というニュアンスがこめられています。
僕らは自分たちの意思で豊かさを追求し、一方でその代償を甘んじて受け入れることとなった。

しかし、これまでの人類は代償のことをさほど気にかけているようには思えません。
おそらく、今後も。

もしかしたら、僕らはこの未来を選択できたわけではないんじゃないか。
何か大きな流れが、あるいは人類の見えざる意思が、僕らをここまで運んできたのではないだろうか。

情報社会(知識社会)で子育てをしているお母さんたちは当然のごとく情報過多に陥っている。今日お邪魔したNPOでは定期的に独自のアンケート調査をしており、その中でいまのお母さんたちが一番悩んでいるのが、「躾」である。一歳や二歳で躾も何もあったものではないと思うのだが、「脳教育」だの何だのと否が応にもどんどん情報が流れ込んでくる。

子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

情報化社会において、自分に入ってくる情報を制御することはそう簡単ではありません。
むしろ情報過多になる方が”普通”かもしれない、と思えるほどに。

「情報リテラシーを身に付けろ」とよく言うけれど。
個人の問題に帰着しても、実は根本的な問題解決にはならないのではないか。
こんな時代だからこそ、改めて本質が問われているように思います。

僕らはもっと現実を直視する必要があるのかもしれません。
「今の時代、情報過多にならないほうがおかしいよね」と。
前提を踏み外してしまうことは、問題解決においてあってはならないことですから。

彼女たちの情報源は雑誌やネットが主らしい。特にほとんどが携帯で情報収集をしているという。授乳中が唯一ゆっくりとケイタイをみられる時間だそうだ。そんなときこそ子どもの顔をじっくりみてあげて欲しいという現場スタッフの方の感想がとても印象的だった。ベビーカーを押しながらあるいはファストフードのお店で子どもに食事をさせながらケイタイを操作しているお母さんを見かけるが、何かに憑依されているのではないかと思うほど集中している。ちょっと怖い気もするが・・・。

 子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

この文章を読んで、「ん?おかしくない?」と感じた自分に気が付きました。

授乳中が唯一ゆっくりとケイタイをみられる時間だそうだ。そんなときこそ子どもの顔をじっくりみてあげて欲しいという現場スタッフの方の感想がとても印象的だった。

子育てを経験したことのない僕であっても、「現場スタッフの方」の意見は、ごくごく当たり前のことのように思えます。
雑誌やネットで情報収集を行う彼女たちが、なぜそれに気づかないのか。

こんな動画もあります。これ、大学生がつくったんですよ。
大学生が問題意識を持っていることに、なぜ当事者である母親たちは無関心なのでしょうか?

どんな構造がそこにあるのか。
これも「情報リテラシーの欠如」の一言で済ますこともできます。
果たして、それでよいのでしょうか。

港北区のモザイクモール内にスタバがある。平日の昼過ぎに行くと夕方まで席をとることが難しい。その一角は必ずといっていいほどベビーカー数台と数組の親子が占拠している。ママ友同士で仲良く話に華を咲かせている、といった風景なのだが、実は人間関係に悩んでいるお母さんもいるそうだ。笑っているのだが、楽しくはない。疲れる。行きたくない。そんな気持ちでいるのだが、ママ友同士で集まるときには、また、参加しているという。当然ストレスが溜まり子育てに疲れる。虐待に発展するケースも少なくないという。これらの問題の根底にあるのは『孤独』だ。相談する相手がいない、何が正しい情報か分からない。外からみていたのでは分からない現実がここにもある。

 子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

『孤独』におびえる母親たち。
しかし、彼女たちは「ママ友」というコミュニティにおける孤独にだけおびえているのでしょうか。

誰が彼女たちの味方なのでしょうか。

子育てに悩むお母さんはまじめな人が多いという。鬱病を発症する人もまじめで細かいコトにこだわるタイプの人が多い。どちらにも共通してみられる「まじめさ」というのは、執着とつながりその先にある思い通りにしたい、という欲求の裏返しでもある。思い通りにならないからストレスがどんどん溜まる。

子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

「まじめさ」とは何でしょうか。

「自分で何とかする」という気持ちの表れなのか。
思い通りにならなかった自分の人生の鬱憤を晴らしたいという欲求なのか。
子育てを通して「いい母親」像に近づこうという必死さなのか。

なんとなく、そこには「子ども」自身が対象としてしか存在しない感覚があります。
(あと、父親の存在感も。)

ボクたちは地域社会の中で子どもを育てるとう視点を回復しなければない、というとあまりにも陳腐化されたフレーズにしか聞こえない。しかし、これを本気でやるかどうかが20年後の子どもたちの笑顔につながるのだ。

子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

そしてこの結びにつながるわけです。

この記事において「地域」という言葉は冒頭と文末にしか登場していません。
しかし、この記事が捉えてようとしていたのは、まさしく「地域社会」の機能なのです。

母親たちを悩ませているのは、紛れもなく”現代病”です。
僕らは、その発症のメカニズムを丁寧に解き明かしていく必要があるように思います。

そのためにも、今まさに起きていることをきちんと見つめることが必要だ。
この記事を通して、そのようなメッセージを感じてしまった僕がいます。
既存の知識や枠組みを安易に当てはめることは、問題解決にとってさしたる貢献とはならないわけで。


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「コミュニティデザイン」という概念が生まれた背景を考えてみる

カテゴリ:世の中の事


 

先日の東京訪問ではこの本のことがちょこちょこ話題に上がりました。

で、昨日の日記でちらりと書いたこと。

コミュニティを変えるなら、外からコミュニティに関わらなきゃいけない。
コミュニティに入り込むということは、 そのコミュニティと運命を共にするつもりがないと。
約4ヶ月ぶりの東京で感じたこと

「コミュニティデザイン」という考え方は、外からコミュニティに関わっているということが前提としてあるはず。
つまり、こう思うのです。そのコミュニティにずっと属している人には「コミュニティデザイン」なんて発想はできないと。

異なるコミュニティがあるから、コミュニティの存在が認識される

アキタ朝大学のHPに掲載いただいた記事にも書きましたが、
コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」では以下のようにコミュニティを分類しています。

・生活のコミュニティと生産のコミュニティ(場の役割)
・農村型コミュニティと都市型コミュニティ(形成原理)
・時間コミュニティと空間コミュニティ(志向性)

日本古来の農村をイメージすればわかりますが、ここまで明確に分類できるようになったのは最近のことだと思います。
生活と仕事の場が分かれ、どのコミュニティに所属できるかが選択可能になり、さらにコミュニティが多様化していく。
高度成長期やインターネットの普及など、時代の流れがあり、サンプルが増えたから、分類が可能になったのでしょう。
基本的にはライフステージにあわせて所属するコミュニティが移り変わりすることによって、コミュニティというものの存在がはじめて認識されるはずです。
今までのコミュニティとは異なるコミュニティに属することが否応なしに起こる現代では、コミュニティの存在を意識しない方が難しいと言えるかもしれません(もちろん、人によって意識する・しないはあると思いますが)。

ヨソモノという立場になってはじめて見えるもの

コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる」の著者、山崎亮さんが情熱大陸で印象的なエピソードを語っていました(以下、うろ覚えなので誤解が含まれているかもしれません)。

山崎さんは親御さんが転勤族だったため、多くの転校を経験してきたそう。
転校先でうまくやっていけるかどうかをいつも不安に思う彼は、ごく自然に”誰が「ガキ大将」ポジションなのか”、”どういうグループがあるのか”というふうに、クラスの人間関係を観察するようになったそうです。

山崎さんは転校という「異なるコミュニティへの移行」の経験から、自分が「ヨソモノ=コミュニティの外側の人」であることを自覚した上で、どうやって既存のコミュニティに入り込むかを考え、その結果いわば「人間相関図」を描く力を身に付けた、と僕は捉えました。
「コミュニティに入り込む」という発想は、「ヨソモノ」という立場になってはじめてできること。
学校の同級生というコミュニティは基本的に生年月日によって強制的に形成されるコミュニティであり、その中で自分がコミュニティの外側に位置することを自覚する人はそう多くはないでしょう。

自ら置かれた環境下で身に付けたこの距離感の取り方、コミュニティとのかかわり方こそが、山崎さんのスタンス、そしてコミュニティデザインという考え方の原点になっているのではないでしょうか。

ヨソモノの自覚と都市型コミュニティの形成原理

これ以降は余談というか思い付きです。

単に転校して「名目的に」同級生にはなったものの、どうにも自分が同級生であるという「実感」が得られない。
そのコミュニティが単に所属するもの(条件を満たせば自動的に資格を得るもの)ではなく、参加するもの(自ら参加条件をクリアする必要があるもの)だと気付く。
自分がヨソモノであると自覚することで、コミュニティとコミュニティの間に”違い”を見出す、ということはありそうです。

特に同級生というコミュニティは、その強制参加という形成原理からして、コミュニティの構成員に対して農村的な同質化を求める傾向にあります。
同級生コミュニティのヨソモノであるということは、「みんな一緒」の中で「自分は違う」ということ。

それって、もしかして都市型コミュニティへの参加の第一歩なんじゃないか。

都市型コミュニティは、経歴に関わらず、価値観や目的を共有することで参加条件を満たした異なる個人どうしが集まることで成立しています。
自分は他の人と違うという自覚が、自分自身の他人とは異なる価値観や目的意識の認識につながるのかもしれません。
ちょうど、アイデンティティが「どんな他人を選んでも自分とは異なる」ということを指し示すように。


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