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教えることとトレーニングの重要性についてのメモ

カテゴリ:世の中の事

このようにして、私は一年の間、英語の作文を次から次へと書いていった。最初はまったく通じなかった作文を、先生が次第に理解してくれるようになり、そしてだんだんと複雑なことも書くことができるようになってきた。自分がどうしたら人に読ませる文章を書けるかということを考えながら英文を書くようになったのだ。

受けてみたフィンランドの教育

以前書いた記事で紹介した本から引用。
フィンランドでは小学生の頃からエッセイを書く訓練を学校の授業の中で実施しています。
作文が大の苦手な著者はフィンランドの先生にも「論理的でない」「まとまりがない」と突っ込みを入れられ続けたわけですが、その甲斐あって一年間の留学を終える頃には読者に読ませる文章を英語で書く力を身に付けることができたのでした。

著者のお母さんもこんなふうに印象をつづっています。

「へー、ちゃんとした文章が書けるようになったのか!」と、以前のだらだらした話しぶりや要点を得ない文章に「この子はちゃんと仕事ができるのだろうか?」という不安をもっていたものだが、その不安がきれいに払拭されるくらいに変わったのである。

受けてみたフィンランドの教育

ここで僕が注目しているのは、指導の質と演習の量で文章作成能力は向上できる、という点です。

「指導」と「トレーニング」の機会を増やすべき

日本人は文章作成能力や論理的思考、プレゼンテーションが下手くそだとよく言われます。
が、この原因は日本人の民族的特性なんかにあるのではなく、単なる適切な指導とトレーニング量の不足が原因にあるのではないでしょうか。

実際、僕自身も教育の現場に携わり、生徒がこれまでろくに書いたこともない小論文の添削指導を受ける中で、じわじわと実力を伸ばす姿を何度か目の当たりにしました。
また学校の勉強においても、適切な教材を用意し、しっかり反復をさせること、そして各生徒のつまずいているところを見極めて指導することで、生徒の学力は確実に伸びることも実感しています。

逆に言えば、適切な指導やトレーニングなしに小論文をかけるのはごく一部の元々才能がある生徒だけ、ともいえます。
まとまった文章を書いた経験もないのにまともなエッセイを書くなんて離れ業ができるはず、ないのです。

当たり前のことを言っているのかもしれませんが、企業の多くがOJTによる研修をメインに据え、指導力を養成されていない現場の社員に教育を任せることが多い日本においては、指導とトレーニングの重要性に対する認識が定着しているとは思えません。
人に教えるということ、適切なトレーニングを積むことで伸びる力があるということを、日本人はもっと意識するべきではないでしょうか。

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