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現代における「語ること」の意義とコミュニティについて

カテゴリ:自分事

先日、西村佳哲さんのワークショップに参加する機会に恵まれた。
四時間を少し超過したワークは、あっという間に終わった。

僕の内面には、考えるのが面倒なこと、触れたくないことを
ろくに見もせずにさっさと放り込んでおくような倉庫があるらしい。

そのワークショップに参加してからここ数日間、
数年来放置された倉庫の扉を度々開け、中を眺めてみている。

今日は早朝に目が覚めたのだが、
思いがけず倉庫の中に足を踏み入れてしまったようだ。

言葉にならないとても大きな不安感がずっしりと心をとらえ、
わずかな日差しで薄暗い部屋で一人、数秒立ちすくむ。

1日が始まるときには胸にのしかかる重たさは遠のいたけれど、
心には後遺症が残り、浮き沈みはにぶく、凝り固まっている。

普段の何気ないコミュニケーションに対する違和感。
そうして”自然な”状態が何だったのかわからなくなる。

今日一日を通してリハビリしながら徐々に調子を取り戻そうとしているが、
まだ対面でのコミュニケーションがうまくとれないでいる。

そんな一日の終わりに、この記事を書いている。

はなすこと、きくこと、そして「語ること」について

先日のワークショップのテーマは「ひとのはなしをきく」。

が、まず冒頭で扱われたのは「はなす」ことについて。
聞き手がもたらす作用を話す側が体感してみる、というワークだった。

疑似的に体感するためのロールプレイではあったが、
それでも聞き手の態度や聞き方によって、話し手の話す意欲は減衰する。

「きく」の前に「はなす」という構成は、
今日たまたま手に取った本書と似ている。

本書の序盤では特に「語る」ということについて言及されている。

「語ること」の意味について、日常の生活のなかでも、漠然とは感じることがあると思います。「語る」と「しゃべる」とは違いますね。ここで言う「語る」は、自分を語ることです。自分を語ることは、とても意味があることです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

語ることは、自分がとらえきれていない「モヤモヤ」の意味をはっきりさせる行為だという。
長くなるが、以下に引用する。

「もやもやした体験」は、語られることで他人と共有され、社会化され、意味がはっきりしてきます。ここでは私は、「体験」という言葉と「経験」という言葉とを区別して使っています。「体験」→「経験」の間に「語る」という作業が入ることによって、語る相手の人と共有されるのです。「体験」は、まだ自分だけのなかに留まっています。それは、誰か他人に語ることによって他人と共有される「経験」になります。他人に語るということは、他人に自分の「体験」をわかってもらえるように語らないといけませんね。そこには、他人に伝わるように、わかるように語ることによって、自分の「体験」を他者と共有し、社会化していくという意味が含まれます。相手にわかるように語られてはじめて「体験」は「経験」になるわけです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

この章に目を通すと、著者がいかに「語ること」を重要視しているかが見て取れる。

日常生活では、友だちとか知りあいとか、いろんな人が語りを聞くわけです。自分の体験を他者に語って、それを承認してもらい、理解してもらい、共有してもらうことで、世界のなかに自分の体験を位置づけ意味づけることができるということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

いつから「語ること」は重要だったか

著者の視点はなるほど面白い。
僕自身の不安感も、きっと「体験」に留めていたことの結果としてあるのだろう。

しかし、ふと疑問が浮かぶ。

いつの間に、「語ること」の意味がこれほどまで大きくなったのだろうか?

語らなければ「世界のなかに自分の体験を位置づけ意味づけることができ」ない。

そう捉えうる表現を選んでまで、なぜ著者は確信を持てるのか。
ここには日本社会における「語ること」の位置づけとのギャップがある。

文献を読み漁ったわけではないが、
恐らく日本社会は昔から「語る」ことをそれほどまで重要視していなかったはずだ。
相手を自分とは異なる他者として受容するという発想はいかにも西洋的だし、
逆にそれだけの重要性が明らかにあるならばもっと社会は語ることを求めていたはずだ。

むしろ、「体験」を「経験」にするための方法としての「語り」は、
現代においてようやくその重要性を発揮するに至ったのではないか。
そんな感想を持っている。

農村型/都市型コミュニティと「語り」

これまでこのブログで何度も言及してきた
「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」という二者は、
ひょっとするとそれぞれにおける「語り」のあり様で区別できるかもしれない。

この二つのコミュニティを分類する基準となるのは、その形成原理にあります。端的には「個人」のとらえ方に差異があります。農村型コミュニティは「共同体と同質化・一体化する個人」によって、都市型コミュニティは「独立した個人と個人のつながり」の結果として、それぞれ構成されます。前者は同心円状にその勢力を拡大することで大きくなり、その暗黙的な同質性が前提としてあります。一方、後者は個人の異質性を前提としており、明示された一定のルールや規約をベースに、個人と個人の関係性がつくられていきます。

言語化の台頭と日本のコミュニティの変遷 | 秋田で幸せな暮らしを考える

“農村”という言葉には昔からある、というニュアンスが含まれる。
その土地や組織に根差した文化があり、伝統があるのが農村的と言えないだろうか。
だから、今そのコミュニティに属している人たちも歴史の長短の差こそあれ、
そのコミュニティが有する何らかの文化や伝統を引き継いでいるはずだ。

しかし、文化や伝統は一方で急速に衰退している。
加速度的に社会が変化する中で、伝統や文化は世代間のギャップとなり、
後世に残すだけの意義を現代社会において失っているのが一つの理由だ。

「農村型コミュニティ」は同質性を軸に同心円状に広がって形成され、
必ずしも言語化されているとは限らない暗黙知を共有することで成り立つ。
周辺環境の変化のスピードが増すと、共有されていた暗黙知は
言語化されていないがゆえにすぐに陳腐化し、あるいは忘れ去られる。
そうして「農村型コミュニティ」は周辺から静かに崩壊していく。

これまで強調せずとも自明的に共有できた「体験」、あるいは
過去のある時点で社会化された「経験」が「農村型コミュニティ」の核だとしたら。

「語り」をより広義にとらえるとすれば、
「農村型コミュニティ」が変化に耐えて生き残るためには、
言語化されていない「体験」を「語り」によって「経験」とする、
あるいは絶えず「語り」を通して「経験」を再生産していくことが必要ではないか。

つまり、「語ること」は、変化がめまぐるしく、
あらゆる側面からの影響を受けざるを得ない現代社会において台頭する。
しかし、僕たちはいまだに「語ること」を怠っている。

そんなふうに見て取ることはできないか。

「語ること」を恐れない社会へ

昨今注目される「聞き書き」という手法によって、海士町の口承もまた言語化された。
「体験」を「語り」によって「経験」とする行為の意義に気づく人は増えている。

自分を語ってください。そこでは、聴き手に対して自分を語ることによる自分自身の物語の書き換えが行われることになるのです。物語の書き換えとは、これまで生きてきた物語が挫折するような現実に出くわしたときに、その現実をうまく編みこみ、新たな文脈で意味づけることができるような、新しい自分の物語をつくっていくことです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

「語り」の範囲を改めて”自分”に戻したとしても構造は大きく変わらない。
社会から個人への要請は刻一刻と変わり、
家族や友人は勿論多種多様なメディアによって個人は日々影響を受ける。
そのために「体験」あるいは「経験」は断片化されやすく、
自分の中に一つの物語を構成しづらくなっている。

これは、伝統的な社会で求められていた行為ではないはずだ。
だからこそ、社会を変化させている僕たち自身が変化に戸惑い、
方法としての「語り」の可能性をようやく見いだせた、そんなところではないか。

さて、みなさんも自分のことを語るとき、「聴き手」によって大きく左右されるという経験があると思います。思い出す内容も、語り方も、「聴き手」の反応をモニターしながら語るわけです。いつの間にか、「聴き手」の共感や承認を得られるように語っていたりするんですね。そういうふうに、自分の物語の語り方を大きく左右する「聴き手」の存在はほんとうに大事です。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

そして、「語る」ときには「話し手」だけでなく「聴き手」もまた必要となる。
冒頭の西村さんのワークショップの話に戻すと、
プログラムの最後にロジャーズの「三条件」が紹介されていた。
「カウンセリングを語る」から引用して結びとしたい。

①無条件の積極的関心(unconditional positive regard)または受容(acceptance)
②共感的理解(empathic understanding)
③自己一致(congruence)あるいは純粋性(genuiness)

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

※なお、本書の内容については別途記事としてまとめている

関連する記事

「カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法」を読んで

カテゴリ:読書の記録

カウンセリングというものには以前から興味を持っていました。
カウンセリングという言葉には、心に何らかの問題を抱えている人を救うことができる、というイメージをもっていたのですが、それがどのような理論や手法に基づいて実践されているのか、気になっていたからです。

先に僕の感想を述べると、カウンセリングは手法というよりも、カウンセラーとクライアントの「あり方」の問題である、と本書を読んで感じました。
そして、誰もがこのカウンセリングの当事者になりうるということ。
クライアントであるということ、カウンセラー(的なかかわり方・立場)であるということ、それぞれが僕ら一人ひとりの日常とは切っても切れないものだと考えることも、決して極端な見方ではないはずです。

 自己の物語の不在

本書の冒頭、第2章のタイトルは
「カウンセリングと物語-生きるとは自分の物語をつくること」。

著者は「ありのままの自分」を抑圧し、周囲から期待される「よい子」の像を演じる子どもたちの事例に触れながら、こう述べています。

「よい子」という仮面のなかに自分を閉じ込めてしまって、「よい子」としての感情や気持ちをつくっているうちに、いつの間にか、本当の自分の気持ちや感情がわからなくなってしまっている子どもたち。自分のなかには、それこそとてもいろいろな面があり、いろいろな感情をもったとしても不思議ではないのに、「よい子」の枠にはまらない感情は、全部自分から押し出され抑圧されているのです。そうして、息苦しく、生きづらくなってしまった人たちが、カウンセリングに来ることは少なくありません。

そういう場合、私たちカウンセラーの仕事は、「よい子」の枠からその人の心を解放するのを手伝うことになります。 そして「ありのままの自分」というものにもう一度触れなおし、「よい子」のなかに閉じ込めていた自分を解放して、新しい自分の物語を生きられるように援助することです。言い換えれば、カウンセリングは「ありのままの自分」のなかに「本当の自分」を見つけ出すことを援助する仕事だということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

「新しい自分の物語」という言葉がここに紹介されています。ありのままの自分のなかに飛びこみ、本当の自分を見つけ、自らの物語をつむぎだすこと。
それがカウンセラーの役割であり、クライアントの治療のプロセスとなります。

私たち人間は意味を経験する前提として、世界のなかに自分のやっていることを意味づけるような「物語の枠組み」が必要です。それがないと、自分の経験していることを、意味ある経験として物語のなかに編みこめず、経験がバラバラに断片化してしまいます。そうならないためには、自分をとりあえず騙しながら生きるのではなく、自分とまともに向き合わないといけません。自分とまともに向き合ったら、自分の物語がないことによる暇つぶしや、ただ楽しいことに時間を費やすこととは違う毎日を創っていかざるをえません。でも、自分と向き合うと、その空虚な自分とも、まともに向き合わないといけませんから、とてもつらいです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

著者はカウンセリングが求められる背景、そしてカウンセリングそのものの説明のための前提として、自己と世界の間に”意味”を見いだせるような「物語」が必要であると言っています。

僕が、その必要性について考えるために、本書から見いだしたキーワードは、「生涯学習社会」と「自己実現」。

生涯学習審議会(1997年)は、生涯学習社会を「人びとが学習を通じて自己の能力と可能性を最大限に伸ばし、自己実現を図っていく社会」というふうに表現しています。生涯学習社会とは、その時その時に学習をしながら自分の可能性を花開かせていくような、そういう自己実現を追及する社会だというわけです。(中略)

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

自己実現というのは、マズローの欲求階層説にある言葉。
「自己実現の欲求」はその下位層にある「生理的な欲求」、「安全の欲求」、「所属と愛の欲求」、「承認の欲求」が満たされた上で出てくる最高次の欲求です。

ちょっと意地の悪い見方かもしれませんけれども、私は、こんなふうに問いかけてみたいと思います。つまり、「自己実現社会」というのは、一皮むけば、人材として要求される能力を次から次へと学んで身に付けていかないと見捨てられてしまう社会。だから、生涯にわたって見捨てられないために、次から次へと勉強していないといけないような社会なのではないでしょうか?

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

この著者の問いを、今の社会だからこそ丁寧に受け止める必要がある、と個人的には思っています。

どんどん変化していく社会に必死になってついていかないといけない。置いてけぼりをくったら、見放され、見捨てられてしまうから、必死になって社会の変化にあわせて自分も変身していく。そういう生き方を強いられているとき、二通りの心の問題が起こってきます。それは「過剰適応の問題」と「不適応の問題」です。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

僕が最近気になっている言葉、「Learn, or Die」。
学び続けることを奨励する構造の裏側には、「自己責任」の論理が染み付いているように思います。
変化し続ける社会に個人ができることの一つとして、「学ぶ主体」であること、を掲げることに問題があるとは思いませんが、例えば「キャリア教育」や「総合的な学習の時間」など、学ぶ主体であれという要求を個人に出し続けることに偏重しすぎてはいないか、という不安を抱くことを禁じえません。
フィンランドでは、それと同時に、学びたいものはいつでも学ぶことのできる環境づくりも並行して行っている印象を受けます。
僕が、日本は、社会全体として「自己責任」を推奨していると感じるのは、この辺りが要因となっています。

自己の物語は、直感的には内発的動機づけにつながるものであり、それは学ぶ主体の必須要件でもあります。
キャリア教育は自己の物語の構成をすべての子どもに対して実施させるという意気込みを感じますが、同時に社会に適応しろ、という社会からの要請を突きつけられる中で、子どもたちが”安全に”自己の物語づくりに集中できるのか、という疑問を感じてしまいます。

自己の物語の構成に成功した人たち

著者の主張を多少乱暴にまとめると、「自己肯定感を高めるためには、自己の物語を構成する必要がある」ということになります。
ということは、「自己の物語を構成することができている人は、自己肯定感が高い」と言っていいはずです。
(論理的には逆が必ずしも成り立つわけではありませんが)

では、具体的にどのような人が「自己の物語の構成に成功した人」なのでしょうか。

今の若者は、私のような古い時代に若者だった者と、自分の定義の仕方、自分の語り方が変わってきているのではないか、と言われています。では、どういうふうに変わってきているのでしょうか。荒っぽい言い方をすると、昔の若者は「大きな物語」のなかに自分を位置づけえたのに対して、今の若者は「小さな物語」のなかに自分を位置づける、ということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

僕は、この部分に着目しました。
今の若者には「大きな物語」が不在である、という著者の主張。
それは、いったい何を意味するでしょうか。

最近、「社会貢献」を自分が将来解決すべき課題として熱く語る、あるいは実際に取り組んでいる人が増えていると感じます。
地域活性化、貧困の撲滅、教育の改革、国際支援、ジェンダー…。
これは、自分自身の経験と地域や社会、日本や世界が抱える課題を自己の物語に統合している、という見方ができるのではないでしょうか。
政治への関心、地域活動への参加。あるいは、会社全体の課題、将来の発展を見据えた仕事への取り組み。
自分と自分が暮らしている世界とのつながりを捉えている場合、自己の物語は空間的な(物理的な)”大きさ”を獲得することができると考えることができるはずです。

また、「自分が将来解決すべき課題」という言葉には、物理的な広がりだけでなく、時間的な広がりを見ることができるのではないでしょうか。
いくら未来が予測不可能な時代だとしても、将来の自分と今の自分を接続することができる。
将来を語れる、あるいは過去を語れる人の物語には、時間的な”大きさ”があります。

もう一つ、考えられるとすれば、それは“密度”かなと思っています。
つまり、より「自分らしい」物語であるかどうか、物語と自己とが深く連動しているかどうかという点です。
単にその地域出身だから、興味があるから、だけではなく、なぜその対象が自己の物語に統合されているのかを語れるかどうか。
それは自己と物語との統合度合い、物語の密度と呼んで良いでしょう。

例として「立派」なものばかり挙げてしまいましたが、家族や友人と幸せに暮らしたい、好きなことをやっていきたい、地元が好きだからここに住んでいるだけで幸せ、でも全然構わないと思います。
要は、上に挙げた3要素によって物語の大きさを支えているわけですから。

実際のところ、僕自身は大きさと密度とをバランスしながら自己の物語をつむぐということが重要であると考えています。
いずれにせよ、大きな物語が不在となる中で、より物語を大きくしていこうという流れは確実にあるでしょう。
その流れが、まだまだ社会の中ではマイノリティであるとしても。

とはいえ、社会全体の変化のスピードが増し、”正解”と”不正解”の境界が曖昧になっている現代においては、自己の物語を拡大し、かつ密度を上げるという作業は困難なものがあります。
その作業を自力で行わなければならないという現状までも、社会構造の不備として捉えるべきか、時代の要請として抗えないものとして捉えるべきか。

ここは、個人的に、もう少し慎重になって考えて行きたいところですね。

あり方を考える

幾分脱線気味に話を展開してしまいましたが、このように自己の物語を構成するという事態にはすべての人が直面するはずです。
自己の物語への統合という問題は、単にカウンセラー-クライアントという特殊な状況のみならず、すぐ隣にいる家族や友人も抱えていることです。
この状況を認識することが、自分自身のあり方を変えるきっかけとなりうるのではないか。
僕自身は、本書を読みながら、明確にそう思うことができました。

本書を誰にでもおすすめするつもりはありませんが、自己のあり方、特に他者とのかかわり方について深く考えている人にとって、カウンセリングの概念は何らかの示唆を与えてくれる、そんな可能性を感じています。

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