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東北 不屈の歴史をひもとく-辺境から歴史を編集する

カテゴリ:読書の記録


2011年3月11日に大震災に見舞われた東北。
その歴史は度重なる天災、人災を乗り越えて積み重ねられてきました。

我々の視線は、無意識のうちに中央からの編集というフィルタを通して東北へと注がれています。
そのことに気づかせてくれるのが本書の見所でもあります。

著者は読売新聞記者の岡本公樹氏。
東北に約8年駐在した著者が有識者の知見を集約し、まとめあげたのが本書です。

結論

本書は第一に読み物として面白いと思います。
新聞記者だけあって文章は読みやすく、学術書の退屈さはありません。

ところが、厳密さでは疑問に残る点があります。
事実が不明な点について、複数の可能性に触れずにひとつの説だけ紹介することが度々あるのがその一因かなと。
もちろん、それが読み物としての面白さを損なうものではありませんが。

また、著者自身が本書の中で「東北」という括りの限界を露呈したのではないかなと思います。
後述するように、「東北」は広いのです。

不屈の東北

東北は過去に幾度となく天災、人災によって危機をかみしめてきた歴史をもつ。征夷大将軍・坂上田村麻呂の征戦以来、中央政府との対決につねに負けてきた「五戦五敗」の歴史という人もいる。だが、歴史はオセロゲームではない。東北は、圧倒的な力の前に倒れても、そのたびに、六度も立ち上がったのだ。業火のなかから不死鳥は蘇る。今回は七度目の蘇りだ。必ず東北は立ち上がることができる。その証拠を歴史で示すのが本書のいちばんの目的だ。

東北─不屈の歴史をひもとく

この「五戦五敗」とは

①蝦夷戦争(三八年戦争、元慶の乱など)
②前九年・後三年の役
③奥州平泉の滅亡
④伊達政宗の豊臣秀吉の服従
⑤幕末の戊辰戦争

の5つの戦いでの敗北を指します。

また、過去には大きな天災があったことが記録に残っています。
貞観十一(869)年五月二六日、東北の太平洋側を襲った貞観地震と津波。
貞観十三(871)年には鳥海山が大噴火、さらに延喜十五(915)年にも十和田大噴火がありました。
慶長十六(1611)年には伊達政宗領である仙台藩(伊達藩)を大津波が襲っています。

それでも東北という地で暮らし続けた人たちの存在が現在の東北をつくっているわけです。
だからこそ、著者はこれからの東北の復興に希望を見出すことができたのでしょう。

たとえば、東北の稲作

東北と言えば一般的には「米どころ」のイメージがあり、地元民もまたそれを誇りに(ときに自虐的に)思っています。
ところが、文献史料や考古資料をたどると、昔からそうだったとは言えない事実が確認されます。

稲作は弥生時代に大陸から伝わりましたが、それは西(九州)からの伝達でありました。
一時期は青森まで伝わった稲作は、当時寒冷だった東北北部には馴染まず、仙台平野・大崎平野で一旦留まります。

そもそも縄文時代においては、東北が最も人口密度が高かったとする説があります。
つまり、東北はもともと資源に恵まれたところであったのが原因と著者は指摘します。

もっとも考えられるのは、(東北に住んでいた)縄文人は十分に豊かで、ハイリスク、ハイリターンな稲作に見向きもしなかったということだ。
稲作は、灌漑、水田などの準備がたいへんな上に、水の管理や害虫の駆除など水田に張りついていないと豊かな恵みをもたらさない。もともと、たくさんのマスやサケが春と秋に東北の川を遡上していた。稲作のように夏場にたいへんな苦労をして準備をしなくても、定期的に年二度の収穫期を迎えることができるのならば、川の利用価値としては漁業の場としてのほうがうんと高かったのだろう。
※括弧内は引用者による

東北─不屈の歴史をひもとく

時がたち奈良時代には気候の温暖化が進み、岩手県の胆沢盆地まで稲作をはじめ農耕が活発化しました。
平安時代に完成した『延喜式』には、全国で最も稲作生産量が多いのは陸奥国(東北の日本海側)だったとあります。

弥生文化の象徴である稲作が定着しなかった北東北は続縄文時代を迎えます。
そこに暮らす人々は北海道の影響を受けつつ、縄文期に引き続き狩猟・採集及びソバなどの農耕を主な生業としていました。
稲作に従事しない以上、中央、つまり大和政権の支配下になかった東北の人たちは「蝦夷」と呼ばれるようになります。
そして大化の改新をきっかけに、阿倍比羅夫の日本海沿岸遠征があり、次第に中央の侵食が始まります。

急激な中央の進出と王化への反発として東北各地で反乱もありました。
蝦夷と王権の激突といえば、阿弓流為と坂上田村麻呂が登場する三八年戦争が有名ですね。

秋田でも、元慶二(878)年に俘囚(調停に服属した蝦夷)たちによる元慶の乱が起こっています。
時は平安時代。温暖化によって北東北でも稲作が広がり、秋田の横手盆地は現在でも有数の稲作生産地です。
元慶の乱ではこの豊かな横手盆地の存在が乱の成否を分けたと著者は言います。

気候の変化(温暖化)によって東北に稲作が定着した、と先に書いています。
ところが、江戸時代にあった三度の大飢饉は東北の気候の厳しさを強調する結果となりました。
天保の大飢饉(1833~1837年)では秋田や山形の米が石巻や気仙沼に運ばれていたことが記録に残っています。
つまり、日本海側と太平洋側では後者の被害のほうが大きかったことが読み取れます。
「ヤマセ」という言葉もありますが、特に気候に左右されやすい東北の太平洋側が稲作に向いていると言うべきか、すぐには断言できないでしょう。

「東北」という括りの限界

稲作の例を見るだけでも、単に東北六県を「東北」と括ることの限界が見えてきます。

『古代の蝦夷と城柵』の紹介記事でも言及しましたが、南東北は比較的早く稲作及び王化が普及しています。
一方、北東北は、北からは北海道の続縄文文化・擦文文化、南からは倭王権の文化が入り込み、双方が入り混じる独特の文化が形成されていました。
また、太平洋側と日本海側では気候の面で稲作への適性が異なります。これは現在でも変わっていません。

東北で起こった歴史上の出来事が、そのまま東北に住む人たちすべてに影響を及ぼしたわけではありません。
その点で本書が提示した「不屈の東北」像には限界があるように感じます。
本書は、「東北」という括りが、我々の、歴史を見つめる目をぼやかしてしまう可能性もまた掘り起こしてしまっているからです。

よくよく考えてみれば、東北というのは中央から見た位置関係でありました。
これは、倭王権がそれに服属しない者を「蝦夷」と名づけたことと共通しているようにも思われます。

そのような状況を自覚しつつ、東北はどう立ち位置をとるべきか。
著者から大きくてまだ少し曖昧なガイドラインが提供されました。
次は、一人一人の「東北」像を描くことがこの本の読者に委ねられているのかもしれません。


関連する記事

古代の蝦夷と城柵-蝦夷文化の形成をたどる(3)

カテゴリ:読書の記録


1つ目の記事はこちら:蝦夷観念について
2つ目の記事はこちら:蝦夷文化の形成について

倭王権の対蝦夷政策

倭王権の蝦夷政策は、大きく大化の改新以前/以後で区別することができます。

大化の改新以前について、東北において関東系土器が出現した点について著者は注目しています。
関東系土器というのは文字通り関東地方でつくられた土器です。
それが東北に伝わっていたのであれば、関東から関東系土器が持ち込まれたか、技術が伝来したか、いずれかが考えられます。

六世紀~七世紀初頭の仙台平野の遺跡で関東系土器がまとまって出土した事実があります。
これから著者は王権が移民政策のターゲットとして仙台平野を設定し、そこに移民の居住区を築いたと見ています。
仙台平野には蝦夷の拠点集落と見られる南小泉遺跡があり、ここでも関東系土器が多数出土しました。
拠点集落は蝦夷の南北交流の中心でもあり、そこには各地との交易ネットワークがあったはずです。
おそらく、倭王権は蝦夷の拠点集落を政治的におさえることで、交易ネットワークの掌握を目指したのでしょう。
それに連動して蝦夷の王権に対する朝貢の痕跡が確認されており、王権と蝦夷との緩やかな支配-隷属の関係が築かれていたのです。

著者は関東系土器出現期の王権の対蝦夷政策を以下のように整理しています。

1.植民と周辺地域の支配
2.交易ネットワークの掌握と蝦夷集団の服属、および朝貢関係の設定
3.1,2の目的実現のための武力保持と、集落の防御

まもなく大化の改新が起こり、時の政権は国造(地方を治める官職で、その地域の豪族が任命された)支配を解体しました。
続いて全国一斉に評(こおり・後の郡に相当)を設置し、王権の地方に対する一元的な支配体制の構築を目指します。
そして大化三年(六四七)、大化四年(六四八)に相次いで新潟市付近に渟足柵を、新潟県村上市付近に磐舟柵を設置しています。
これらは柵戸(きのへ・さっこ)と呼ばれる関東地方などから東北地方へ送られてきた移民を伴ったものでありました。
つまり、大化の改新以降、柵戸を付属させた城柵の造営が開始された、というわけです。

さて、城柵とはなんでしょうか。
「柵」とは「キ」と読まれ、この「キ」はもともと施設の外囲いの呼称であったそうです。
「城柵」は「キカキ」と読まれ、著者は「木を立て並べてカキ=垣根上にめぐらした施設の意と解される」と記しています。
つまり、もともとの城柵とは防御施設そのものを指していましたが、転じてその防御施設を周囲または一部にともなった施設全体をも「キ」(城・柵)と呼ぶようになったと見られています。

七世紀中葉~八世紀初頭には宮城県中北部の各地で囲郭集落がいっせいに造営され、在地の土器と関東系土器が並存していました。
このことから著者は関東からの移民と在地住民(=蝦夷)とがともに居住していたとみています。
囲郭集落には王権の蝦夷支配を前提とした住民の政治的な編成があった可能性を著者は見抜いたわけです。

この囲郭集落が初現期の柵でありますが、改新以降はこの城柵が明らかに増えています。
また、考古学の成果を整理しつつ、特に改新以降の城柵について以下のような機能があると著者は考えます。

軍事的機能:防御施設としての機能のみならず、有事の兵力の供給源の機能も備えていた
移民政策の受け皿:「柵戸」は軍事力だけでなく農業の労働力としても期待されており、城柵は彼らの受け皿となっていた
交易センター:南北両世界の交流・交易の場となった
官衙としての行政機能:柵造(さくのみやつこ)が置かれ、移民集団と在地の蝦夷がともに居住する地域の行政機能を司っていた
朝貢センター:蝦夷から王朝に対しての基本的、恒常的な朝貢を受け入れた

城柵といってもその存在形態は多様であったようですが、多機能であることが伺えます。
この城柵も10世紀半ばには相次いで消滅したとのことです。

著者による城柵のまとめのページもありますので、こちらも参考にしてください。

蝦夷の社会性と移配

さて、ここからは蝦夷社会について簡単にまとめます。
本書の論点となるのは狩猟。実は研究者の間では蝦夷の生業としての狩猟の可能性に否定的だそうです。
この原因について、著者は狩猟の証拠となる鏃などの出土品は、戦闘の道具でもあることに由来すると指摘します。
また、八~九世紀ごろには東北北部でも稲作農耕を行っていた蝦夷が多数いたという研究結果もあるそう。

その上で著者は、蝦夷が狩猟を主な生業の一つとしていたと主張しています。
文献資料に注目すると「弓馬の戦闘は、夷獠の生習」(『続日本後紀』)という記述があります。
ここから、蝦夷の戦闘能力が生活文化と結びついたものであると読めます。
日常生活で食料を得るために弓を使用しているのですから、戦闘においても自在に活用できるということです。
「弓馬」とありますが、蝦夷は馬飼もまた生業としていて馬の扱いに優れていました。
蝦夷はこの両者を用いた高度な戦闘技術で官軍を苦しめたわけです。

面白いのが、遊牧民の優れた集団戦法を引き合いに出し、蝦夷も同様に移動性の高い暮らしをしていたのではないかという著者の考察。
実際、東北北部の日本海側では蝦夷の存在が早くから倭王権が把握していたにもかかわらず、蝦夷の暮らした痕跡を確認できる遺跡があまり見つかっていません。
これは、蝦夷が遺跡として後世に残らないような、移動性の高い生活を営んでいた可能性を示唆しています。

ところで、蝦夷は元来そう大きくない規模(五十戸程度の「村」)で生活をしていたとされています。
しかし、ひとたび蝦夷の集落で反乱が起こると、短期間で広範囲の蝦夷が反乱に呼応するという記録が残っています。
これを素直に受け止めると、蝦夷は大きな集団として生活するほどには社会的統合が未熟でありながら、一方で独立した複数の「村」を相互に結びつけるネットワークが形成されていたと考えられます。
このネットワークは、平時はヒトやモノの交流に活用され、有事には緊急の連絡網として機能したのではないか、そう著者は主張します。
蝦夷支配を目論む王権にしてみれば、このネットワークは厄介です。

ちょうど三八年戦争(七七四~八一一)における征夷ではじめて目ぼしい戦果があがった延暦十三年ごろからはじまったのが、蝦夷の諸国への移配でした。
この目的は王権との戦闘に参加した蝦夷に対する懲罰的な意味も含め、抵抗分子の勢力を分散することにありました。
逆に言えば、それだけ蝦夷の抵抗が激しく、朝廷は苦戦を強いられていたとも読めます。

移配蝦夷は諸国に少数ずつ分散され、一般公民に囲まれた土地でさまざまな差別を受けていたと言われています。
当然強い抵抗感を覚える蝦夷もいたようです。
移配されてなお狩猟に従事し、一ヶ所に定住しようとしなかったり、実際に反抗に及んだりした蝦夷がいたことが記録にあります。
が、実際には短期間のうちに多くの蝦夷が国家の「教喩」にしたがい、同化していったようです。
移配蝦夷は法制によって公民と同列に扱わないと定められたものの、調庸が免除され、夷禄と呼ばれる経済的な援助も受け取っていたとする記述が文献に見られます。

 

以上、3回にわたって本書の内容を自分なりにまとめてみました。
端折った部分が多いですが、その点についてはぜひみなさまご自身で調べていただけたらと思います。


関連する記事

古代の蝦夷と城柵-蝦夷文化の形成をたどる(2)

カテゴリ:読書の記録


1つ目の記事はこちら:蝦夷観念について
3つ目の記事はこちら:古代王権の対蝦夷政策について

蝦夷文化の形成~南北の交流~

蝦夷文化の形成期にあたる三~七世紀には、蝦夷の主要な居住地である東北北部を舞台に、南北両世界の異なる文化が盛んに接触、交流し、この地域に独自の文化が形成されてくる。それこそが蝦夷文化の中核となるものであったと考えられるのである。それは端的にいって、北方世界の続縄文文化を基本としていた人びとが南方世界の倭人文化を摂取しながら自らの生活文化を変革し、新たに創り出した文化であったといってよい。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

蝦夷文化の形成の特徴として、南北の文化の交流・融合があります。
南方の倭人文化が東北地方に伝わる以前は、蝦夷の主な居住地である東北北部は続縄文文化の影響下にありました。
ちなみに、弥生文化の主な特徴である稲作については、東北北部で一時的に広まったものの、その時点では定着していません。
当時は北方、つまり北海道から伝わった、狩猟・採集を生業の基本とする続縄文(※1)文化の影響をむしろ強く受けていました。
(なお、東北南部以南では弥生時代から稲作が定着しており、古墳文化への移行もスムーズだったようです)

南北世界の文化が混在する様子を、著者は「土器」と「墓」について注目しつつ解説します。

まず土器について。
三世紀の遺跡である寒川Ⅱ遺跡(秋田県能代市)からすでに弥生時代末期の壺と甕が出土しています。
四世紀代とみられる永福寺山遺跡(岩手県盛岡市)でも、続縄文系の土器にまじって弥生時代終末期の赤穴式や古式土師器の塩釜式と認められる土器が出土しています。
これらのことから、土器については早くから南方文化の影響を受けていたことがうかがえます。
この傾向は五世紀以降さらに顕著になります。
五世紀の森ケ沢遺跡(青森県天間林村)では北大式(※北方の土器)の甕や片口とともに土師器・須恵器が出土しており、両者の比率はほぼ半々となっています。

一方、墓制については土器ほど早くから南方の影響を受けたわけではないようです。
古墳文化の中心的要素である前方後円墳などの高塚古墳について注目してみましょう。
日本海側の海岸部では信濃川下流域の越後平野、同内陸部では米沢・山形盆地、太平洋側では宮城県の大崎平野が高塚古墳の北限と言われています。
これより北では高塚古墳がきわめて例外的にしか存在しないそうです。
このことから、古墳文化の土器は取り入れつつも、従来の土壙墓という墓制を維持していた様子が伺えます。

さらに、擦門(※2)前期に注目してみましょう。
この時期、北海道では伝統的な土壙墓が継続される一方、東北北部では末期古墳と呼ばれる独自の墓制が出現します。
末期古墳は続縄文文化の墓制を基礎としながらも、古墳文化の強い影響を受けて出現したと著者は見ています。
南方文化を取り入れつつ、平安時代に入ってもなお独自の墓制を維持していた東北北部の暮らしが垣間見えます。

退屈な話題ではありますが、要するに東北北部は南北両方の文化が入り混じった地域であった、ということです。
東北北部の蝦夷たちは、南北いずれか一方の文化圏に属するのではなく、両文化の要素を摂取しながら、独自の文化を創り上げていたのです。

ここで重要なのは、両文化の影響を受けていたということは、取りも直さず両文化圏との交流が盛んであったという点です。
たとえば、東北北部の末期古墳から副葬品として和同開珎が出土した例があります。
これについて著者は、「東北北部の蝦夷が律令国家と一定の政治的関係を有していたことを示すもの」と見ています。

続縄文文化、そして擦文文化の主要地であった北海道-北方世界。
弥生文化、そして倭王権の古墳文化の影響下にあった東北南部以南-南方世界。
これらに挟まれ、両方の影響を受けながら独自の文化を形成してきた東北北部-蝦夷の世界。

この構図を頭に入れながら、次回の記事では倭王権の蝦夷政策である城柵や移配について触れていきたいと思います。

※1
続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)は、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応する。縄文時代から引き続くものとして山内清男により名づけられ、実際に連続する要素は多い[1]。 南部に恵山文化、中央部に江別文化、その終末期(5 – 6世紀、古墳時代中期から末期)の北大文化など、内部には地域と時代により異なる文化が含まれる。Wikipediaより引用)

※2
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。Wikipediaより引用)


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