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誰かの情熱を借りて仕事をする

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情熱の絶対値が小さかったとしたら

情熱においても同じことが言えるのかもしれません。私たちは情熱を探すのではなく、情熱を育てる技術を育むべきだと。

「情熱を探そう」というアドバイスはもうやめよう

情熱は育もうというメッセージに大きくうなずいた僕は、しかし、情熱に突き動かされたという覚えがなかった。周りが見えなくなり、障壁を障壁と思わず、へこたれずに前へ前へと突き進んでいく。「情熱に駆られる」という字面で想起するものの激しさを思うと、そこまで強い心の動きが僕の中で起きたことはないと言うほかない。

基本的に、仕事は受け身でやっているという自覚がある。頼まれたからやる。他に誰もやらなさそうだからやる。穴があったら埋めるという働き方。他にやる人がいるならやらない。順調に回り始めたら手放す(というか飽きる)。こちらから積極的に働きかけることはそんなに多くない。

自分から仕掛けることをしないのは単に面倒くさいからで、つまり「面倒だ」という気持ちを上回るほどの情熱がないからだ、と思っていた。Willがない、とも言える。欲望が薄い。働かなくてよいなら働かないでおきたい。いきいきと働いている人を見る度に劣等感が胸をよぎる。それなのにフリーランスという道を選んだのだから、我ながら矛盾しているなと思う。

情熱を自分だけに頼らない

令和の時代に入ってから、企画書を2つつくることになっている。自分が主担当なので、手や口や足を自分で動かさないと何も進まない。それがわかっていてもなお、しばらく企画書に手を付けられずにいた。アイディアが出ないのなら知恵を借りよう、と周囲にちょこちょこと相談をしていたのだが、一向にまとまらない。創造性に欠けているのは、能力の問題なのか、情熱の問題なのか。いよいよ締切も見えてきたところで、とにかく事を進めなければ、とある人にアポをとる。そこから事態はじわじわと好転し始めた。

今まで進まなかった企画書がここに来てクリアになり始めたのはなぜなのだろう。締切が近いという理由は言うまでもないが、きっかけとなった打ち合わせで、他者のWillを受け取れたというのが大きかったように思う。

これまでは「そういう目的であれば、こうしたらいいんじゃない?」というアドバイスが多かった。「アドバイス」を求めていたのだから、当然だ。あの打ち合わせでは、相手に対するお願い事があった。「それなら、僕はこうします」というレスポンスがありがたかったし、そのWillが指し示す方向をたどることで、芋づる式にやるべきことが見えてきた感じがあった。

本来、一つの仕事をどう進めていくかは担当者のWill次第であり、それが手段かつ制約となって、目指すべきものや段取りが具体的になっていくものだと思う。僕のWillとか情熱といったものはいまいち希薄で、企画もふわっとしたところで留まってしまい、そこからどう進めていいか分からず途方に暮れるのが悩みだった。そんな八方塞がりの渦中にあって、今回の出来事は目からうろこだった。

Willを他人から借りる

自分の内側から、とか、他者との雑談の中で、とか、そういうアイディアや創造性の生まれ方を期待していたんだけど、そうじゃなかった。情熱を燃やすだけのガソリンが足りないわけでもなかった。火種がないなら他所から借りてくればよかったのだ。

他人のWillに加担していく。共犯関係を結ぶ。 情熱を育むのも大切だとは思うけど、他人のWillを束ねたら、同じようなところにたどり着けるんじゃないか。まだまだ仮説でしかないけれど、これからの仕事のアプローチの在り方がこれでようやく見えてきそうな感じがする。とりあえず、手応えのあるところまで来れてよかった、とほっとする気持ちもある。

そして、ふと思う。去年の自分がこの文章をいきなり読んでも、何を書いているかさっぱりわからないだろうな、と。

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「誰かを変えたい」は、あまりうまくいかない

「高校生が自分のプロジェクトを考える」とか、「大学生がビジネスアイディアを考える」とか、そういう場面に居合わせる仕事をしていると、「あ、またこのパターンか」と思う瞬間はどうしても訪れる。だいたいそういうケースはうまくいかないのが目に見えているから、介入できるときはなるべく早めに介入するようにしている。

「よくあるパターン」はいくつかあるが、その代表的な例として、「誰かを変えたい」という願いが込められているものは、まず煮詰まってしまう。他人はそんなに都合よく変えられない。変化を外から強要されることはかえって不快に感じることが多い(だから先生も親もうざったいのだ)。だから、それがプロジェクトだろうがビジネスだろうが、他人に受け入れられない可能性が高く、うまくいく見込みは薄い。

「誰かを変えたい」という願いは、「自分以外のものに変わってほしい」という願いでもある。この現実の社会が変わってくれないことには、自分が困るのだ。そうであるならば、自分が本当は何に困っているのかをちゃんと見つめないといけない。原因が解決されない限り、それは対処療法にしかならない。

変わってほしい人ほど、変わりたがらない

具体的に課題に直面している誰かがいて、その人の状況を変えてあげたい、という願いに昇華されると、前に進む見込みはぐっと高まる。ただし、その願いを届けたい張本人にこそ届きづらくなるという悲しいすれ違いもまた起こりうる。

僕自身もこのジレンマに度々直面する。教育の分野にいたからかもしれない。勉強から逃げる生徒ほど進路に困らないために勉強してほしかったし、他人を変えようとするアイディアを出す人には自分をこそ見つめてほしかった。しかし、こちらのささやかな願いはだいたい叶うことがない。肝心の本人がそれを拒否しているからだ。

来春から、「キャリア・デザイン」に関する授業を一部受け持つことになった。ここにもジレンマがある。キャリアをデザインしてほしいという相手は、往々にして、自らのキャリアをデザインする必要性を認識していないからだ。大教室での講義ともなれば、その必要性を説くのはなおさら難しいとは容易に想像がつく。正しさだけでは伝わらない。

たぶん、相手が受け取りたくなるような形に整えることが大事になってくるはずで、それは中身を充実させることとイコールではない。どちらも大事で、どちらにもそれぞれの専門性があり、職業として成立するだけの需要がある。

自分以外のものに変化をもたらすというのは、だから、そう簡単ではない。もうそろそろ、高校生や大学生にも率直にそう言っていくべきかもしれない、と思いつつある。

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あるものだけで勝負するのが楽だったとしても

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今日耳にしたあれこれのおかげで、気分が暗くなっている。「明日は我が身」という言葉が生々しく脳内再生される。いや、もはや、今すでにその渦中にいるのかもしれない。いつだって、自分の状況を客観視することほど難儀なものはない。

この夏に約35,000字という分量をねん出するプロセスを経て、自分の語彙力が枯渇してしまったような感覚がある。35,000字を書ききるために、一旦あるものを出し切ってしまった。それから、書くことがやや無味乾燥なものになっている。たぶん、書くという行為を通じて、僕は自分の中で言語化できていない物事に出会っていたのだと思う。出し切ったあとに自分の中から出てくる言葉に新鮮味がない。自分の文体に対して、自分自身がそろそろ退屈を覚えている。「ああ、またこの表現が出てきてしまったか」と。

去る9月にも、それなりのボリュームの文書を仕上げた。単純に分量だけカウントすると、実は10,000字を優に超えていたらしい。幸か不幸か、その作業は苦痛ではなかった。これまでの経緯を整理して、相応の文体に乗せて書けばよかったから。しかし、薄々感づいてもいる。苦痛を避けたのだと。出し切ったと言いながら、なお根深く言語化されていないものがどうやらある。そこに取り掛かるのを早々に諦めた自分がいたのは、今や認める他ない。

少なくともこの1年程の間、僕は過去のストックを消費するようにしか仕事をしていなかったということになる。もちろん、断片的にまとめてきたアイデアは幾つかあったし、わざわざ東京や京都に出かけて学びに行くこともあった。しかし、それらはその都度活用する分にはよかったが、まだ僕自身のコンテンツになりきっていなかった。身に余るような機会に預かり、自ら企画を持っていこうと勇んだ矢先、いまいち進歩していない自分と対峙する羽目になったのだった。

とにかく、腰をすえて、自分の中から何かを生み出すしかない、のだと思う。自分自身の言葉で、ぼんやりとしたアイデアを、誰かと共有できるところまで、形づくる。借りてきた言葉、どこかで見た表現でなく、拙くとも自分の言語で。

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