カテゴリ:世の中の事
2016/01/21
備忘録的に。
世の中には2種類の人がいる。
1つは「リア充」、1つは「非リア」である。
自分を取り巻く周囲の環境に適応したいという欲求と、
適応しろという外部からの要求は常に存在する。
そういう中で、「自分はこうしたい」という欲求や、
そのために生じる環境への違和感も(恐らく)必ず発生する。
前者を優先させた結果が「リア充」であり、
後者を優先させた結果が「非リア」。
もう少し踏み込んで表現しよう。
「適応」を重視し、環境の中で地位を獲得する「リア充」。
「適応」よりも自分の「純度」を保つことを重視した「非リア」。
こうした見方をしてみると、
「適応」の結果「純度」を損ない続けていた「リア充」は、
環境変化に弱いのではないか、と思えてくる。
「リア充」は恐竜なのだ、という見方。
一方、「非リア」の中からは「純度」を保てる環境を選ぶ、とか、
「純度」と「適応」を両立する可能性を模索する者も出てくる。
それは、必然的に変化をもたらす動きだ。
もしかしたら、最後に生き残るのは「非リア」なのかもしれない。
ちなみに、「適応」が自分の「純度」を損なわないあり方が
生来的に実現できてしまう者もきっといるのだろう。
そういう者たちは”真性”の「リア充」と言ってよく、
下手にベンチマークや憧れに設定してしまうと危ない。
こんなことを考え始めたのは、いわゆる「リア充」として
大学生活を謳歌していた人が就職活動で突如として躓き、
あるいは何か言っているようで何も言っていないような
志望理由を暗唱し始める、という事態を見てきたからだ。
ある環境に「適応」し、マジョリティで居られたからと言って、
異なる論理が働く環境への移行がうまく行く保証はない。
「適応」の誘惑の中で自分の「純度」を保ち続けること、
「自分の内なる声に耳を傾ける」ことができた人が
僕の周りには多いし、楽しく暮らせているし、
「純度」を高め維持するための感性を磨くべき、
という風潮も徐々にだが確実に浸透してきている。
「適応」と「純度」の両立という課題は、
多くの人が学校生活で直面してきたことだ。
そして、これまでは「適応」への要求が過剰だった。
結局はそれが僕の問題意識なのだと思う。
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カテゴリ:自分事
2014/06/16
最近、「仕事観」のずれがもたらす影響について考える機会が増えています。
「寝食を忘れて没頭できる仕事がしたい」「仕事を通じてとにかく成長したい」
「仕事は稼ぎのため、プライベートを第一にしたい」「なるべく楽をしたい」
「仕事観」は人それぞれですし、一体感の高い職場であってもずれがあって当たり前。
それでも自分自身では核となる価値観を手放さないようにしたい。
なるべく、この核となる価値観だけは共有できる人たちと働きたい。
そんなことを思いつつ、最近大きく2つのことについてぼんやり考えています。
1.「仕事」=「価値をつけること」が唯一解なのか?
2.一つの組織の中で多様な「仕事観」を受容することは可能なのか?
「仕事」=「価値をつけること」で取りこぼすものはないのか
糸井 だって、たいがいの仕事というのは「価値をつけること」ですからね。
河野 そのとおりですよね。
糸井 「市場をつくる」のが、仕事ですから。それ以上、何があります?
新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 (ほぼ日ブックス)
仕事を通じて価値を生み出し、その対価としてサラリーを得る。
たぶん多くの人が共感してくれるし、大事にしていることだと思います。
ところが、もし”「仕事」=「価値をつけること」”と考えていない人と仕事をしなければならないとしたら。
大小を問わず「価値をつけること」があらゆる働く人に課されているとして、
「価値をつけること」のどこまでが本人次第なのか、ということは考えてみていいと思います。
マニュアル通り動くだけで価値をつけることができる仕事。
ほとんどの工程を自分で考え、それでも価値がつかないかもしれない仕事。
後者の方が尊ばれるのは稀少な能力だから、というのはよくわかります。
ところがその逆、つまり「自分で考えないこと」、「主体性の欠如」について、
なぜこれだけ「悪」として見なされてしまっているのでしょうか?
(そう思っているのは僕だけ、でしょうか)
実際、僕も自分に「主体的である」ように意識しようとしていますし、
他人の受動的な態度にイラッとさせられることがないとは言えません。
でもそれって、単に相手が僕と違う価値観だから、と言うだけではないか。
相手が間違っている、僕が正しい、と胸を張って言えるのか。
最近そのあたりが引っ掛かっています。
「価値をつける」
その測り方が限定的だから、人の評価も一面的になるのかも。
”多様”の前提にあるもの
(見た目上)「主体性」のない人と働けるかどうか、という疑問の先には
「多様な価値観を受容する職場はいかにして可能か」という問いが待っています。
多くの、特にグローバルな領域で活動する企業・組織が重視し始めている「多様性」。
しかし、僕が就職活動を経ていわゆる「多様性」のカタチとして思い描いたのは
「ある一定の価値観・能力・資質を持っている前提での多様性」でした。
広義には「多様性」とは性別や国籍、宗教だけでなく、
能力、資質、志向、価値観、生まれ育った環境など様々な要素が含まれます。
人材要件が足きりラインとなり、「多様性」の中に入り込めない人がいる。
当然、能力の劣る人が所属することは組織にとって大きなデメリットです。
その中で達成される「多様性」とは何なのか。
それとも、あらゆる人を包摂できる組織こそが「多様」といえるのか。
あるいは「多様性」の名の下に「あのひとは違う」と判断するのが早すぎるのかも。
本当に違うのか、その違いは本当に決定的なもので、折り合わないものなのか。
「違い」を「価値」に転化できない組織の問題ではないのか。
そのような問いを立て、性急になりすぎる自分にブレーキをかけたい。
僕自身の課題:「ジャッジ」
こうしたことを考える自分自身の課題は何か。
「学習する組織 現場に変化のタネをまく 」を読んだときに思ったのは、
他人をジャッジしてしまうのが当たり前になっている、ということです。
「いい/悪い」を第一印象ですぐに決めつけてしまう。
その印象を引きずると、その印象を証明するように相手の行動をジャッジしてしまう。
第一印象が悪い人に対しては、その人の悪い行動ばかりが目に入るようになり、
ついつい「ほら、やっぱりだ」と自分の第一印象を証明しようとする心の動きがある。
ジャッジしてしまうと自覚するだけでもある程度コントロール可能になりますが、
そもそも第一印象の時点でジャッジしてしまう癖はなかなか抜けません。
僕自身が「仕事観」について固定的に見ている部分があるというか、
一定の足きりラインを設定しているからなのだと思っています。
しかしそれは「そうできない自分が嫌だから」という理由で
自分を律するために課してきた側面もあるので、簡単に解決できる問題でもない。
そんなことも考えつつ、自分の仕事観をほぐしていくためにも、
寛容であること、多様性を受容するということについて探究していきたいものです。
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