Tag Archive: 自己責任

複雑で高度な21世紀への挑戦と一抹の不安

カテゴリ:世の中の事

島に移住して間もなく薦められた本をようやく手に取った。

邦訳の初版は1999年なんだが、
今読んでみても”新しい”見方を提供してくれている。

まだ最後まで読み切っていないが、
数十ページ進めてみてとっさに思い浮かんだことがある。

現代は性悪説から性善説への移行期かもしれない

本書の具体的な内容については別途整理したいが、
率直に言えば、本書の内容を実践することは
これまでの人をコントロールするやり方よりも難しい。
難しいだけより良い成果が出る、ということなのだと思う。

20世紀においてはシンプルでわかりやすく
とっつきやすい直線的なやり方が好まれていた。
しかし、その限界が多方面で21世紀の課題として残っている。

どん詰まり感が支配しつつある時代背景を考えれば、
複雑だが、より人間的だったり、より本質的だったり、
そうした方法に注目が集まるようになるのも無理はない、と思う。

ただ、自覚は必要だ。
水準を複雑で高度なものにすることへの留保が。
新しい正義が誰かを置き去りにするかもしれないことへの留保が。

すでに、気づいた人が気づいていない人を、
しようとしている人がしようとしない人を批判する声が大きくなっている。
対立により摩擦が生じるという覚悟が、きっと必要なんだろう。

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橋下徹・大阪市長が義務教育段階での「留年」を検討する是非について

カテゴリ:世の中の事

大阪市の橋下徹市長は22日、小中学生が目標の学力水準に達しない場合、進級を認めず留年させることを検討するよう市教委に要請したことを明らかにした。

 同日開かれる市教育委員との意見交換会で協力を求める。義務教育課程での留年は法的には可能だが、実際の運用はほとんどない。

 市役所で報道陣の質問に答えた。橋下市長は、教育評論家の尾木直樹氏が学力の底上げ策として、小中学校での留年を提案していることに賛同する考えを示し、「学んだかどうかに関係なく進級させることで、かえって子どもたちに害を与えてしまっている。理解できない子にはわかるまで教えるのが本来の教育だ」と述べた。

 義務教育での留年は、現行法でも学校長の判断で可能だが、学校現場からは「子どもへの精神的影響も大きい」との声がある。

橋下市長、小中学生の留年検討…尾木直樹氏提案 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

何かと話題を巻き起こす橋本市長ですが、今回の要請も物議をかもしそうです。

直感的には、記事にもあるとおり「子どもへの精神的な影響」が大きな課題であることは明白であり、受け入れがたいものです。
しかし、この提案自体が何の突拍子もないものではないこともまた、認めなければなりません。

橋下市長が県教委に検討を要請した背景には、日本の教育が抱える複雑な問題が潜んでいます。

僕の意見:「留年」は解決策として不適切である。

結論から言うと、「留年」を検討するに至る問題意識についてはほぼ同意です。
しかし、その問題意識に対し、「留年」というソリューションは適切とは言えないでしょう。

問題は「学んだかどうかをきちんと担保する仕組み」(=「結果の平等」)になっていないことにあります。
 この仕組みは現行の教育制度に「留年」をくっつけるだけでは実現できないと思われます。

落ちこぼれを量産する日本の教育制度

そもそも、なぜこんな話が出てきたのか。
日本の教科教育のカリキュラムと、その学習到達度の評価手法に、その原因があります。

日本の教科教育のカリキュラムは学んだことを段階的に発展させていくようならせん状を描きます。
従って、前段階の知識が不足していることが原因でつまずいてしまうことが珍しくありません
小、中、高と年を重ねるごとに、勉強から脱落していく子どもは増えていく構造になっているのです。

これを「教育七五三」と呼ぶこともあるそうです。
高校で七割、中学で五割、小学校で三割が落ちこぼれ、ということを指摘する人もいるということです。

ここには学習到達度の評価手法である「学力テスト」の問題があります。
ご存知の通り、生徒のその時々の学習内容の理解度を評価するために、学校では主にペーパーテストを実施しています。
しかし、これも誰もが実感しているとおり、この「学力テスト」は理解度の担保としては不十分です。
つまり、テストの点数が悪くても(=授業が理解できていなくても)、テストが終われば、授業は次のページに進んでしまう、ということです。

残念ながら、テストで合格点を取れるまで反復して学習する機会を授業の中で確保することが前提とはなっていません。
学習理解度を測るためのテストは、生徒の学習理解度を担保するという重要な役割を担っていないのです。

テストが良かろうが悪かろうが、授業は進みます。
小さな”穴”は、後々になってようやく影響を及ぼすことになります。
そのときには、すでに手遅れになっていることがほとんどです。
こうして、落ちこぼれが次々と生み出されていくのです。

橋下市長はこの現状を憂い、教育評論家の尾木氏の提案に賛同しました。

「学んだかどうかに関係なく進級させることで、かえって子どもたちに害を与えてしまっている。理解できない子にはわかるまで教えるのが本来の教育だ」

記事中の橋下市長の言葉です。
問題意識としては特におかしいところはありません。単に、そのソリューションに課題があるだけなのです。

学習内容の理解を担保するために(1)

先ほどの言葉にもあるとおり、「理解できない子にはわかるまで教えるのが本来の教育」なのです。
したがって、現状を改善するには、学習内容の理解を担保するための評価の方法や仕組みづくりが必要となります。

経営学の名著「イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき」の著者・クリステンセン氏による一冊。
クリステンセン氏は、学力の評価方法である「テスト」が学力の担保になっていないことを指摘しています。

と同時に、学習内容の定着を担保している事例として、TOYOTAのラインのトレーニングプログラムが紹介されています。
TOYOTAでは整備士のトレーニングを行う際に、ラインの工程を段階ごとに区切って指導します。
被訓練者はその段階をマスターしなければ次の段階のトレーニングに移ることができないようになっています。
その結果、各工程の習熟が担保され、結果的に工程上のミスも発生しにくいそうです。

曰く、現在の学校の教育は「時間は一定、成果はまちまち」。
しかし、本来の教育は「時間はまちまち、成果は一定」でなければならない、というのがクリステンセン氏の主張です。
「一人ひとりに合った教育」を語るならば、ますますパラダイムの転換が求められるわけです。

学習内容の理解を担保するために(2)

教育国で知られるフィンランドでは義務教育段階での「留年」が当たり前にあるそうです。
低学力層への学校の支援も手厚く、落ちこぼれをつくらない、問題を先送りしないというコンセンサスがあります。
(参考URL:http://www.nichibun.net/case/ict/34/05.php

またデンマークでは、就学前の児童に対し、基礎的な能力が充分身についていないと判断される場合には、進学を一年据え置くことがあります。
年齢で明確に区切るのは一見すると平等のように見えますが、就学前で能力差が明確にある場合、それを放置したまま義務教育に子どもをつっこむことには確かにリスクがあります。

注目すべきは、学習内容の理解が不十分であったり、当然身に付けるべき能力が備わっていない場合は先に進ませない、という判断が実際に行われているという点です。
「留年」も「時間はまちまち、成果は一定」の精神の下に運用されていると考えることができます。 
一年の遅れを不安視して問題を先送りするという態度が、結果的に落ちこぼれを量産していることを思えば、「留年」は確かに選択肢の一つとなりえるのです。

「留年」の是非―「時間はまちまち、成果は一定」は実現されるのか

理解するスピードに差はあれど、どの子も平等に学習内容を理解し、次のステップに進むための能力が身についている状態を目指す。
これが「時間はまちまち、成果は一定」であり、それの意味するところは「結果の平等」です。
一方、日本の教育制度は「時間は一定、成果はまちまち」、つまり「機会の平等」に留まっています。

先ほど見たとおり、「留年」は「結果の平等」を実現するための一つの手段となりえることが分かります。
しかし、だからといってすぐさま日本も「留年」を義務教育で導入するべきだ、という結論に至るのは早計と言うべきかもしれません。

何よりも、北欧の国々では「留年」が日本と比べてそれほどネガティブではない、という大きな違いがあります。
これは「結果の平等」の重要性を国民が広く認識しているという前提があるからです。

日本では「留年」は非常にネガティブに捉えられているのが現状です。
記事内でも学校関係者の子どもの精神的な影響を危惧する声が紹介されていますね。
現行法でも義務教育の「留年」が可能であるとは個人的には驚きですが、実際に運用された例はほぼありません。
これだけ見ても、「留年」の導入に対して強い抵抗があることが容易に想像されます。

また、「留年」は事後的な対処であることも見逃せません。
落ちこぼれをつくらないことを優先するならば、「留年」に至る前に充分な個別対応が必要なはずです。
「留年」のみが導入されたとしても、現行の教育内容に変更がなければ意味がありません。

どの程度を留年にするかは定かではありませんが、最下位層がその対象となるとしても、問題が解消されるわけではありません。
最下位層は詰まるところ、理解に非常に時間がかかる生徒のことです。
最下位層の生徒に対して手厚い指導ができない限り、とりあえず進級させて問題を先送りすることと本質的には変わりません。

「留年」の導入は早計。その前にできることはたくさんある。

現行の教育制度の課題を放置したままで「留年」を導入するのは早計です。
「留年」を検討する前に、落ちこぼれを未然に防ぐための施策を講じるべきです。

まずは教員が生徒に指導をする時間をもっと拡充するべきではないでしょうか。
そのためには教科書のボリュームをそのままに授業時数を増やすというのはありかもしれません。
教員一人当たりの生徒数を少なくすることも有効な手段と考えられます。
また、学生などボランティアの指導スタッフを活用する手もないことはありません。

授業内で学習内容を反復する仕組みづくりも検討していいと思います。
現状では、授業の中だけで学習内容の定着を図るのは難しくなっています。
そのために宿題や自習が期待されるわけですが、理解できない生徒は自分で疑問を解消する方法がそもそもわかっていません。
生徒の自学に頼るだけではなく、教員が生徒の理解を積極的に促せる機会を設けることが問題の解消に繋がるはずです。

「留年」についても、義務教育ではなく、就学以前の段階で実施することも検討すべきではないでしょうか。
最近は就学前の段階で集中力がなかったり、人の話を聴けなかったり、数字やひらがながわからない子どもが増えているそうです。
このような子どもを機械的に義務教育に送ったところで、授業についていけないという事態は大いにあり得ます。

さらには、授業態度に問題があったり、理解力が極端に低い子どもの場合、心身の事情、あるいは家庭の影響が原因にあることにも目を向けるべきです。
北欧では各校にスクールソーシャルワーカーが置かれ、必要があれば家庭の問題に介入したり、医療の専門家と連携を取って子どもたちの心身の問題に対処します。

どれも一朝一夕で実現できることではありません。
しかし、重要なのは問題解決のための本質的なアプローチをとることにあります。

「留年」の導入がどのように展開するか定かではありませんが、「留年」をとってつけただけでは効果は見込めず、むしろ悪影響を及ぼすリスクすらあると思います。
今後の動向から目が離せませんね。

※2012/04/02追記

2012年03月20日のとある関西のローカル番組にて「学年別ではなく習熟度別にするべきだ」と発言があったようです。
これは教育制度の根本を問う内容ですが、「留年」導入よりも橋下市長の意図がはっきり出ているように思います。

学校教育の大きな問題は”落ちこぼれ”を救い出せない構造にあると思います。
習熟度別にすることで現在よりも”落ちこぼれ”が生まれにくい学校教育への実現に近づけるかもしれません。
もちろん、これは教育制度の根幹を揺るがす事態であり、慎重な検討が必要ですが。

http://www.j-cast.com/2012/03/21126152.html

※2012/06/14追記

留年制度は効率的で効果的か? 畠山勝太(SYNODOS JOURNAL) – BLOGOS(ブロゴス)

こちらの記事は2012年3月に書かれたものですが、専門家ならではの視点で、留年制度のコストとリターンを分析しています。
教育畑でこのような議論をする人は僕も含めてほとんどいないので、非常に参考になりますね。

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社会人基礎力にも扱われていない「体力」について

カテゴリ:自分事

最近忙しさが増しており、ブログ更新が滞っています。読書も進んでいません。
体力的に余裕があれば、帰宅後30分は読書やブログ執筆の時間にあてるということもできますが、現実的には体が追いついていません。

おそらく、今は東京にいたころよりも体力が落ちていると思います。
なんだかんだで電車通勤は歩く時間が長いですしね。以前は一日30分近くは歩いていました。
海士に来てからはしばらく自転車通勤でしたが、年明けくらいから自動車通勤に切り替わり、運動量ががくっと落ちたことが影響していることは間違いないでしょう。

元々体力がなく、どちらかというと気力で前職のハードワークを乗り切っていたということもありますが、最近の衰え方にはいろいろ反省させられることが多いです。
疲れていると脳が働かず、重い仕事を敬遠しがちになり、結果的にハードワークを再生産する構造になってしまっているのは見逃せない事態です。

そんな状況にいるためか、こう思わずにはいられません。
「社会で活躍するために必要な力」として、実はフィジカル面(+メンタル面)の充実・安定が大前提としてあるのではないか。

「社会人基礎力」にも記載されていない「体力」

「社会人基礎力」という言葉は、ほとんどの方がご存知ではないでしょうか。

「社会人 基礎力」は経済産業省が策定したもので、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、3つの能力/12の能力要素によって定義されています。

前に踏み出す力(アクション)
~一歩前に踏み出し、失敗しても粘り強く取り組む力~

・主体性:物事に進んで取り組む力
・働きかけ力:他人に働きかけ巻き込む力
・実行力:目的を設定し確実に行動する力

考え抜く力(シンキング)
~疑問を持ち、考え抜く力~

・課題発見力:現状を分析し目的や課題を明らかにする力
・計画力:課題の解決に向けたプロセスを明らかにし準備する力
・創造力:新しい価値を生み出す力

チームで働く力(チームワーク)
~多様な人々とともに、目標に向けて協力する力~

・発信力:自分の意見をわかりやすく伝える力
・傾聴力:相手の意見を丁寧に聴く力
・柔軟性:意見の違いや立場の違いを理解する力
・情況把握力:自分と周囲の人々や物事との関係性を理解する力
・規律性:社会のルールや人との約束を守る力
・ストレスコントロール力:ストレスの発生源に対応する力

社会人基礎力(METI/経済産業省)

これ自体の是非についてはこの記事では無視しますが、改めて見てみると、いわゆる「コミュニケーション能力」に関連する項目が多いですね。

さて、ご覧の通り、この「社会人基礎力」の中には冒頭で僕が言及した「体力」なんて項目がありません。
どちらかというと「思考」や「行動」の特性を表現している印象があります。

これに限らず、「社会で必要な力」を問われる場合、多くの人はアウトプットや成果につながる力を第一に考えるようです。
この傾向は「社会で必要な力」でググってみることでも確認できますね。

 

「基礎」という言葉をどう捉えるかの問題になりますが、「社会に必要な力」はアウトプットに直接関わるような”力”というイメージで捉えられています。
一方、そのアウトプットやパフォーマンスの持続性、安定性を決定付けるという意味での「基礎」としての性格はあまり加味されていないようです。

個人的に気になるのは、「残業」に関連する議論です。
残業が批判されるのは、「時間内に仕事ができない奴に給料を割り増しで払うのはおかしい」とか「サービス残業は規制しろ」という文脈で語られる場合が多いです。
ここには、労働時間を給料が発生するかどうかでしか見ていないようなニュアンスを感じます。
実際には、法定労働時間が定められた背景には、「労働者の健康を維持する」という目的があります。
この大前提が無視されている現状から察するに、日本人の健康に対する意識は低いと言わざるを得ません。

能力が意識されるとき

ご察しの通り、この記事ではフィジカルやメンタルの重要性を強調したいわけですが、その前になぜそれが軽視されがちなのか、その構造を見てみる必要があるかもしれません。

まず、どのような場面で能力が意識されるかを考えてみます。

例えば、「語学」がスキルや能力として意識されるのは、ビジネスや留学時など外国語でのコミュニケーションが目的達成の際に重要性を増すときです。
逆に、学校で英語の勉強をしているときには、ほとんどの場合それは受験のために学ばなければならないものという位置づけになっています。
つまり、英語それ自体を活用する目的からは必要とされておらず、その結果受験英語を学んだ人の大半がそれをスキルとは意識していません。

この違いは重要ではないでしょうか。
何らかの技術や知識、処世術、性格、あり方が目的達成のために活用されることが必要とされるときに「スキル」とか「能力」と呼ばれるようになるのです。

一方で、日本で日常生活を営むときに、日本人である僕が「日本語は必要だなあ」と感じることはほとんどない、という点にも留意する必要があります。
必要性を実感するのは、日常生活以上の高度なレベルでの日本語が求められるような、たとえば文章読解や文章作成、推敲のときです。

つまり、目的達成において能力の不足が自覚され、更なる修練が求められることが、「能力」を自覚するきっかけとなるのです。
それもあって、他人と比較したときにその差異に気づき、能力の不足を自覚する、ということは結構あります。

なぜ体力は必要な能力の候補に挙がらないのか?

能力が意識される構造を考えてみると、社会に必要な力として挙げられる能力は、何か事を進める上で必要が生じる(=不足しがちである)ということが言えそうです。

さて、そろそろこの記事の本題に突っ込んでいきます。
ではなぜ、体力は必要な能力の候補に挙げられないのでしょうか?
※ちなみに、企業の求人を見ると、「 心身ともに健康な方」という要件があったりしますよね。

この問いを考えるために、「日常生活で日本語は能力として意識されない」という点に注目してみましょう。

当たり前にできることは、もはや能力としては意識されません。
逆に、無意識のうちにできてしまうことが実は他の人にはない自分の長所だった、なんてことも結構あります。

体力も同様です。
体力が意識されないということは、あって当たり前、という認識がなされている(というか無意識にそう位置づけられている)ということです。

僕の場合、「自分は体力がないなあ」と思うのは、体調を崩したときとか、自分よりもバリバリに働いている人を見たときです。
そう自覚ができると、これまでの活動や仕事の仕方を振り返って「体力を気力でカバーしていた」とか「疲れていてもパフォーマンスを落とさないようなスタイルを確立しようとしていた」と、過去の経験から気づくこともあります。

また、体力の必要性が無視されるのは、パフォーマンス低下の原因が”勘違い”されてしまうことにも起因しているように思います。

普段関わっている生徒は「授業中集中できない」とたまに口にしますが、その結果彼らは「自分が集中力がない」と判断しています。
果たして本当にそうなのか、個人的には十分に疑うべきと思っています。
ある小学校の先生に伺った話ですが、集中力がない子は夜遅くまで起きていたり、朝食を抜いている場合が結構多いそうです。
また、精神的な負荷が大きいときにも、目の前のことに集中できず、あれやこれやと気が散るということも少なくありません。
そもそも、原因を「集中力がない」というふうに設定してしまうとその改善を図るのが難しくなる、という問題もあります。

「集中力がないから」という言葉の裏には、自分の能力のなさや性格上の問題を反省する態度が見受けられます。
「できない理由」を自分の努力や資質の不足に求めがちな日本人の傾向が、ここにも当てはまっているようです。
※参考:日本人は「自分で何とかする」美談が大好き?

もっと冷静に考えてみる必要があります。
疲れているときにイライラしたり、 身の回りのことが見えにくくなったりした経験は誰にでもあるはずです。
特に、日本はストレス社会であり、精神的な負荷が不眠や暴飲暴食/食欲不振、頻繁な喫煙などにつながり、身体的にも影響が生じます。

個人的に、”新人”ほど自分を責める傾向が強いように思います。
その理由として、パフォーマンスが安定する要因をまだ自分で掴みきれていないからでしょう。
逆に、例えば年齢を重ねて無理が利かなくなったり、若いときよりもパフォーマンスを安定させるのに苦労する、という経験をする場合には、体力の劣化として認識されやすいように思います。

心身の健康がもっと重要視されるために

僕が学生に「社会で必要な力って何ですか?」と聞かれたら、迷わず「基礎体力とメンタルヘルス」と答えます。
要は、心身の健康ですね。

特にメンタルヘルスは自分でメンテナンスできるようにした方が身のためです。
新人の場合、新しい環境へ適応するストレスに加えて、職務内容や上司や先輩との相性により、高校・大学時代では経験しないような大きなストレスを受けるリスクがあるからです。

個人として意識するべきことは、2点あると思っています。

・健康やメンタルヘルスの問題は、誰にでも起きうると認識すること。
・厳しい状況でも自分を過剰に責めるのをやめ、ストレスの発生源や疲労の原因を冷静に検討すること。

また、制度や日本人の健康に対する認識にもメスを入れる必要があるでしょう。

先に上げた「残業」のとらえ方もさることながら、「健康診断 」の制度運用自体にも疑問があります。
会社から言われてとりあえず受けるものの、そこで健康面に問題があった場合のガイドラインは普段意識されていません。
ここにも、健康であることが通常とされ、健康を害した場合は例外的に扱われる、という状況が垣間見えます。

メンタルヘルスは企業研修でもかなり需要の大きいものになっていますが、個人や組織内でのメンタルヘルスへの意識付けや人事部などを中心とした制度設計の促進はなされるものの、その運用自体が働く社員に共有され、ガイドライン化されているかは気になるところです。
要は、「健康を害したらなんとなくやばい」ではなく、健康状態に応じてどのような対応がなされるかが把握されるような工夫が必要だということです。
もちろん、そこには組織風土、特に上司の理解の必要性も含まれています。
やばいときにはやばいと言えること、そして健康の悪化によってキャリア設計を不当に害さないことが組織に求められるように思います。

健康も個人の責任にされる傾向がありますが、実際は外部からの影響を強く受ける場合も十分にあります。
社員の健康状態を維持し、パフォーマンスの安定を図ること、そして健康を害したときのガイドラインがあることは、職場環境として不可欠であり、「自己責任だから」と手を抜いていいものではありません。

僕が再三ブログで言及している「自己責任」という概念の存在が、ここにも見え隠れしますね。

(しかし、この程度の内容でこれだけ長文になるというのは問題だなあ。)

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