田舎で働きながら需要のあるスキルを身に付ける難しさについて

カテゴリ:世の中の事

田舎で体系的に積み上げるって結構難しい

田舎で働くトレンドというのはじわじわとだけど確実に広がっていて、例えば僕が海士町で従事していた高校魅力化の取り組みすらも、全国各地で起こり始めている。そうした取り組みを支える人材としては、都市部の若い人材を投入するケースが一般的だと思う。しかし、人件費が地域おこし協力隊等の助成金から捻出される場合がほとんどで、そうした場合、一定の期間を経て、その本人は次のキャリアをどうするかを考えないといけない。いわゆる移住者のセカンドキャリアということ。

僕自身の話をすると、海士町には5年半いて、基本的には公立塾のスタッフとして教科指導や総務・経理業務、人の採用までいろいろ経験させてもらった。一時高校で非常勤として勤務したこともある。ところが、今五城目にきて「ちょっとやばいかも」と思うシーンがちょこちょこある。「30代にしてはスキルが不足しているのではないか」「○○ができますと言えることがあんまりない」という事態に直面する場面がある、ということだ。

ここで強調しておきたいのは、「できることが少ない」ということではない。「需要のあるスキルや経験に乏しい」ということだ。「需要のある」というのは、細かく言えば「そのスキルに対してお金を払うという社会認識ができている(できつつある)」とでも表現できるだろうか。たとえば、WEBデザインができるとか、プログラミングができるとか、提案型の法人営業ができるとか、まちづくり分野での合意形成を促すファシリテーションができるとか、国や県の予算をとってきてちゃんと管理できて消化できるとか、そういう感じ。

公立塾というのは出来立ての組織でしかも生徒数が年々増えて、しまいには建物まで移転してしまって、毎年のように授業や業務フローを壊してつくりなおすという必要に迫られていた。それ自体はもちろんいい経験なんだけど、そういうプロセスってどうしてもその組織にしか適用できないものになりやすい。きっと他の企業・組織にも応用できる要素があるのだろうけれど、目の前のことを必死にやっているだけでは、一般化するタイミングも余裕もたいていない。だから必死な中で組み込んできた工夫が実は価値のあるものだった、という発見もしづらい。

移住者が地域でどうのこうのする場合、既存の組織にどっぷり入る以外には、割と組織なり事業なりの立ち上げに関わるというケースが多いように思う。しかし、そのプロセスを一般化し、スキル・知識として体系立てて取り込む、ということは意図的に(あるいは本人が自然に)やらないと難しい。(特に「地域おこし協力隊」のような)地域おこし系の仕事って、そもそもお金になっていない領域に着手するケースがほとんどで、しかもそれが商品開発や観光振興といった分野でなく「教育」ともなると、ますます経験を生かすネクストステップは描きづらくなる。こうしてセカンドキャリア問題が出てくるのだと思っている。

キャリア選択は視野の広さが大事かも

スキルがない(強がるならスキルを利用可能な状態まで整理できていない)僕が、じゃあなぜ今のところはそれなりに仕事ができているかというと、仕事をつくれてしまう人がたくさんいる五城目町という環境にいるからというのが大きい。こう書くと、いい環境を選べ、という話に留まってしまうので、もう少し深堀したい。

先日、島の元同僚と東京で会って話をしたのだけど、僕は「人とのつながりをうまく次のキャリアに生かした」事例に見えるらしい。確かに、秋田に来てからというもの(というかそれ以前からも)人の縁に助けられっぱなしで、独力で仕事を獲得したという要素はほとんどない。その点で恵まれているのは認めざるを得ない。

一方で、五城目での仕事がこれまでのキャリアの延長線上にあるか、というと、これもまた微妙なラインだ。過去の経歴を振り返ってみると、現在の仕事には新規の要素が少なくない。縁に助けられてはいるが、そこからもたらされるものが必ずしも過去の経験に直結するわけではない。

例えば、五城目では起業家育成事業の事務局をやっている。主な対象は大学生であり、僕自身がプログラムの基本設計や講師業務に携わっているわけではないものの、これまでのキャリアの大半を占める「教育」という枠からは一見はみ出ている。しかし、もともと「教育」への関心の中核に「キャリア」とか「教育と雇用の接続」といった問題意識があり、その延長線上には「起業」という要素があるのも僕にとってはそんなに不自然ではない。

また、もともと教員志向が強かったわけではなく、(いわゆる)地域活性化という文脈の中で「教育」を捉えていたので、大学生や若手社会人の中から起業家を輩出する事業を県が主導する、という面白さと社会的インパクトをパッとイメージできたというのも大きいように思う。ベンチャーとかスタートアップ、事業創造にも興味があったし。そうでなかったら、これまでのキャリアでほとんど接点のなかった「起業家育成」という領域に(曲がりなりにも)足を踏み入れる気にはならなかっただろうと思う。狭く深く、というよりは、広く浅く、というタイプだからこそ、こうした拡大解釈が可能だった(のかもしれない)。

お金になっていない領域で仕事をしていて、引き続きその領域にかかわろうと思っており、しかもネクストステップとして独立を考えているわけでもない、という場合には、視野を広く持つ必要があると思う。関心を深堀りし、あるいは解釈を変えてみるとか、一か所に雇われるだけでなく、複数の仕事をパラレルに受け持つとか、やりがいのある仕事と貨幣を得るための仕事を分けるとか。そういう準備はあらかじめ取り掛かっておかないと、いざ任期満了というタイミングで身動きが取れなくなる恐れがある。元同僚の中には再び大学等で学び始めた人もいるけど、それだって前もって計画しておかないと学費のねん出すら難しくなる(田舎の仕事は給料低いし)。

こだわればこだわるほど自分でつくるしかなくなる

以上はセカンドキャリアという観点で述べたが、色々と制約を取っ払って考えるならば、手っ取り早いのは今の仕事を助成金等に頼らず事業として継続する仕組みを作ってしまう、ということなのだろうと思う。持続的な事業運営を描ければ、こだわりを押し通すことはむしろ容易になる(補助金の仕様に縛られることもない)。そこまでいかなくても、経験を余念なく体系的にスキルとして積み上げていけば、需要にこたえられる専門性を高めることはできるかもしれない。いずれにせよ、お金が発生する価値を自らつくりだせるまでの努力が必要となる。

こだわり続けるためには、最終的には自分でその仕事をつくりあげるしかなくなってしまうと思う。もちろんジャストタイミングでいい求人が転がってくる可能性がないとは言えない。しかし、運を天に任せるのは人事を尽くしてからじゃないと僕は不安だし、人事を尽くせる性格ではないので、飛んで来た球のうち打てそうならとりあえずバットを振る、というのが僕のこれまでの選択の仕方だったように思う。

飛んで来た球というのはそのタイミングで何かしらの需要があるものと考えることもできるし、自分自身が思い描く理想の仕事が求められるかどうかはまた別の話。プランドハプンスタンス理論から考えても、一つに絞って選択肢を狭めるよりも”たまたま”を生かせるくらいに目線を上げていた方が良い(一つに絞るならそれなりの準備と戦略が必要という意味で)。

今日はとりあえず思いついた通りにざーと書いてみたけど、引き続きこの問題の構造については考えてみたいと思った。

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「もったいない」をなくしたいのかもしれないという話

カテゴリ:自分事

以前から「人と人とのかかわり方のかみ合わせをよくしたい」というモチベーションが自分の中にあるって感じていたのだけれど、それって具体的にどんな感情に根差すものなのだろうか、ということを改めて考え直す場面があった。どうも、「もっと前向きな関わり方ができて、相乗効果が生まれる可能性があるのに、その人のモチベーションが生かされていない」と感じると、なんとなく萎えてしまうらしい。

「かみ合えばもっとうまくやれるはずなのに、もったいない

そう、「もったいない」と思ってしまう。「もったいない」を何とかできないものかなという思考が勝手に走る。落としどころを探そうとする。「その会社辞めてこういう会社探したらいいのに」とか。それを実行に移すどうかはまた別の話で、それはその状況と僕自身との距離感とか、僕自身が作用できそうかどうかという変数が加わる。

いつでも「もったいない」と思うわけではなくて、そもそも消極的に関わっていて不満ばかり言っている状態とか、そういう様子を見てもあまり心動かされない。前向きな気持ちや希望を持っていたのに、とか、関わり方や見方を変えれば今あるリソースでも良い変化を起こせそうなのに、みたいな感じ。「もっとよくなるかも」「まだ可能性はある」と思うから「もったいない」と思える。そもそものスタートからおかしいよね、と感じた時には、「もうやめちゃえば?」とか平気で言ってしまう場面もある。つまりそこに発展性を見出せないものを改善しようというモチベーションは、あんまりない。

人には向き・不向きがあるし、合う・合わないがあるという前提がある。だから合わない状態なら「合わせる」と「状況をそもそも変える」という選択肢があって、「合わせる」ことに意味を見いだせるかどうかは、ケースバイケース。どうしようもなく合わないよね、向いていないよね、という話と、かみ合わせが悪いよね、という話がある。後者なら、もしかしたらその状況の中でも工夫次第で何とかなるかも、という感じ。

 

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浅い話し合い、あるいは「対話っぽいもの」で留まらないために

カテゴリ:自分事

ワークショップやそれに準ずる会を企画・運営したり、一人の参加者として輪に加わったりする中で、深い対話というのは本当に難しいなということを毎度感じる。ちゃんとお金を払い、そういう場に出ていく必要を感じている。さしあたって、何によってやり取りが「浅い」状態で留まってしまうのかを考えるために、思い至るところをいくつか挙げてみた。

・チェックイン/チェックアウトの意義がいまいちわからない

導入の定番として「チェックイン/チェックアウト」というのがある。「ホテルに入るときのように」チェックインしましょう、という言い方を良くするのだけど、その語源がまずしっくり来ていない。「自分の今の気持ちや状態をシェアし、ただ受け止める」「準備できた人から発言する(順序を定めない)」というのがオーソドックスなチェックインと認識しているが、これが理想的に機能したとすれば、その目的はとても効果的である、というのは直感的によくわかる。即ち、本題に向けて気持ちをオープンにするとか、状態をシェアすることで相手の背景に配慮することができるとか。

しかし、「チェックインをしましょう」と言って指示したところで、率直に感情を表現できる人はそれほど多くない。オーダーを無視して長々としゃべる人もいる(ご年配に多い)。あるいは心ここにあらずの教科書的コメントで切り抜ける人もいる(男性に多い)。慣れている人はいい感じのお手本を示してくれるが、一般の人にこれを期待するわけにもいかない。

もちろん正解/不正解はないのだろうけど、「果たしてこんなことに時間をかける必要があるのか?」という疑問がつい湧いてしまう。「ああ、いいチェックイン/チェックアウトだった」と思えたことがほとんど記憶にない。あるいは、チェックインに対する期待値が高すぎるのだろうか? 「やらないとマイナスだがやってプラスになるわけでもない」くらいのものなのだろうか?

・対話的コミュニケーションに慣れていない人たちのこと

自分をさらけ出し、ときには自分の意見や考えを疑い、他の意見にただただ耳を傾け、その全体をとらえていこうとする。こう書くだけでも対話的コミュニケーションというのは非常に難易度が高く、僕自身も常にそうできるかは自信がない。対話を別に良しとしてこなかった人たちならばなおさら無理ゲーだと思う。

なのでメンバーが厳選されているときでもなければ基本的には僕はそこを諦める。対話が生まれなくても良いようにする。その分、内省の時間をとるかもしれない。考えたことはシェアしたければシェアするくらいのスタンスで。

こう書いたところで、この諦め自体がまた場に影響をもたらしているかもしれない、ということに思い至る。それは前述のとおり僕自身がそうしたワークショップ等の場で「対話」を経験したことはない、という認識があることに由来しているように思えてきた。

・「こうして/こうしないで」と言われてもできないものがある

ブレストして集約してアイデアまとめる、みたいなやり方だと、「否定はしないでね」とか言えば割と自制してくれる。「意見を否定する」という行為は良くないことというのはコンセンサス取れやすいので、普段は否定しまくっている人にも効果があるように思う。こういうケースは特に深くなくても良い。

逆に、対話的にやろうとしたときに、たとえば「相手の言いたいことを先取りしないでください」みたいな方向付けは、意義は理解してもらえても実際にそれをどう自制すればいいかわからないという事態に陥りそうである。

以前にも、対話を大切にしたワークショップにわざわざ参加した人たちが、ある相手の状況を決めつけてそれに意見し問題解決を図ろうとする様を見て、「自覚するってなんと難しいことなのか」と感じたことがある。

 

ここまでざーっと書いてみたけれど、結局、心のどこかで「対話的なコミュニケーションを生み出すのは無理」と認識しているのが問題の根源のような気がしてきた。もう少しひも解くと

・僕自身が他人に対して心を開く際に課題がある
・一見対話的な態度でない他人に対する信頼が薄い
・期待値が低い(から結果もそれに準じてしまう)

といったところだろうか。もっともっと内面も外面も溶けていくような時間を過ごすことで、また世界観が変わるような気もする。

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