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「変化の原理」の読後メモ

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知人に勧められ、五城目図書室に出向き秋田県立図書館から取り寄せてもらった本書(なぜなら絶版だったから)。なんと再出版されていたので、購入してしまった。ずっと手元に残したくなる良書である。「家族療法」あるいは「短期療法(ブリーフセラピー)」という、伝統的な心理療法とは一線を画する手法の基礎を拓いたものだそう。ここに紹介されたその原理は、非常に明快で論理的であると受け止められた一方、幾つかの事例は「常識的」とも「論理的」とも言えない飛躍を伴ったものになっており、その意味で衝撃だった。

「どのように人間の問題は生起し、ある場合にはいつまでも持続し、ある場合には解決に至るのか」

本書で示される原理の出発点となる問いがこれだ。しかし、いかに変化を起こし、問題を解決させるかを検討した筆者たちは、「持続と変化はその正反対な性格にも拘わらず、同一のものとして考えられる必要がある」と考えるに至る。

「九点連結問題」から見る「変化の原理」

理論的な背景は、「群論」と「論理階型理論」の二つの数学分野における成果を(メタファーとして)用いることで示されているが、その説明にはかなりの分量を要するため、代わりに、本書内でも扱われている「九点連結問題」に触れる。等距離に置かれた9つの点を「4つの直線」で「一筆書き」をする、というものだ。

有名な問題なのですぐに解答を示すが、例えば下記のようになる。

きちんと「4つの直線」で「一筆書き」するという設定にかなっている。「9点の外側に線をはみ出させてはいけない」という(初見の人のほとんどが陥る)勝手な「仮定」を持ってしまうと、一生解くことはできない。つまり、この早とちりな枠組み(ルール)に従っている限り、直線の引き方にいかに変化をつけたところで、「解けない」という状態が維持されるということだ。その逆に、一度そのやり方を覚えてしまえば(ルールをとらえなおせば)、いとも簡単に解答を導くことができる。これが、筆者らが到達した「変化の原理」の端的な例となる。

問題を生み出しているシステムに対し、そのシステムが持つルールに従って変化を起こそうとする限り、そのシステム自体を変えることはできない(同じことのくり返し)。「九点連結問題」の解法が、九つの点に関する「仮定」を検討することで得られ、九つの点自身から得られるのではないように。こう聞くと、かのアインシュタインが残した言葉がふと頭をよぎる。

“The world we have created today as a result of our thinking thus far has problems which cannot be solved by thinking the way we thought when we created them.”

「問題は、それをつくりだしたのと同じ思考で解くことはできない」。本書の内容に則るならば、僕たちは、問題を解決するために、システムの外側に出ることを学ばなければならない。システムのルールに則った内側の変化は「第一次変化」、システムのルールの外側に出るような変化は「第二次変化」とそれぞれ呼ばれている。本書で主に取り扱うのはこの「第二次変化」についてだ。

「問題」、そして「第一次変化」と「第二次変化」

ところで、「第二次変化」の適用対象となりうる「問題」は、そもそもどのようにして”問題化”するのだろうか。

「困難」と我々が言うときには単純に、特別な訓練を必要としないで常識的な水準で解決出来るような事態(普通それは温める対冷やすといった第一次変化のタイプのものにあたる)かもしくは、更によく見られる例でごく日常的な場面で見られる望ましくないが我慢をしてなんとか切り抜けているような日常茶飯事の出来事を意味している。反対に「問題」と言うときには袋小路や行き詰まり、絡み合いといった、初めの困難の対処方法を誤った為に生じた事態を意味することにする。

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

こでは、シンプルな対応をすればよかったはずの「困難」に対して、誤った「解決」を施してしまったがためにこじれた事態を、「問題」と定義づけられている。「困難」を「問題」にまでこじらせてしまう誤った対応というものは、主に以下の3つに分類される。

A 「極端な問題軽視」・・・行動が必要な時に行動しない誤り(「それは問題ではない」と否定することによって解決を試みる)
B 「ユートピア」・・・とられるべきでないときにある行動がとられる誤り(実際には変えることが不可能かもしくは存在しないような生活上の困難について変化させようと繰り返し努力する)
C 「パラドクス」・・・第一次変化が必要なときに第二次変化を繰り返し試みる、あるいは逆に第二次変化が必要な時に第一次変化を起こす努力を繰り返す誤り(九点連結問題は後者に当たる)

一応付け加えるならば、いずれの「問題」も、当事者たちはある「解決」を何度も試みているという点に注意したい。しかし、そうして繰り返される解決が”誤って”いるために事態はますます悪化し、結果として人間関係の悪化や精神病といった結果を生み出してしまっているという構造がある。多くの場合、先に施される「解決」は「第一次変化」に属するもので、それは「いつも人の常識というものにかなっている」のだが(例えば「群衆の反抗に対してカウンターの反抗をもって」鎮圧を試みる、など)、それこそが「同じことのくり返し」を引き起こしている、というのが著者らの考えだ。

逆に、こじれた「問題」に対する「第二次変化」は、「奇妙で予想外で常識外れのものにみえる」もので、しかもそれは「問題」に対してこれまでなされてきたこと、すなわち「第一次変化から見て解決だと見えるもの」に対して適用される。本書の記述を参考にすると、ある事象aが起きようとするとする。この時、常識的にはそれに反対する方法即ちnot-aでaを抑えようとする。しかしこれがまさに「第一次変化」による「解決」である。即ち、aかnot-aかのいずれかを「選択しなければならない」という錯覚に陥っているということだ。それに対し、「aでもなくnot-aでもないもの」こそが「第二次変化」であるという。(これは「ヘーゲルの弁証法」と「同じ原理」に当たる)。

「第二次変化」の(驚くべき)介入の例

より具体的な理解のために、不眠症患者に対し、本書で説かれる変化の原理に従って治療を施した例を紹介したい。彼は日常的なちょっとした困難として「眠れない」という状態に一時陥った(事象a)が、そのとき彼は「自発的に眠らなければならない」という解決を自身に施した(not-a)。つまり、睡眠という自然で自発的な生理現象を意志の力でコントロールしようとした。これは典型的な「パラドクス」だという。以後、彼がなんとか眠りにつこうと努力すればするほど、そのパラドクスは強化され、いよいよもってますます眠れなくなり、不眠症という形で「問題」化する。「物を考えないで故意に眠ろうとする心的な作業自体が皮肉にも逆説的に眠りを妨げ」ているのである。

従ってこうである。第二次変化による介入の目標は彼が眠ろうとすることを阻止することであって、常識的に考えられるような、彼を眠らせる、ということではないのである。

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

具体的には例えばこう指示される。「ベッドに横になりとてつもなく眠くなるまで決して目を閉じないこと」と。つまり、「自発的に眠ろうとする」という解決(not-a)こそが「問題」状況をつくっているのであるから、ここでは「aでもnot-aでもない」変化を起こす必要がある、ということだ。

正直、目から鱗どころか、論理的な説明を持って頭では理解できても、納得が追い付いてこないような印象があったのだが、次のような例に触れると、もう少し腑に落ちるところがあるかもしれない。

たとえば、指導する教官と指導される研修生という二者がいたとする。この教官が研修生の信頼を得ようとするならば、それは「私を信用しなくてはならない」というような言葉では到底実現されないのは容易に想像がつく。「信頼とは命令によって手に入れることも生み出すこともできない自発的な何か」だからだ。筆者はむしろ逆説的な言い方が有効である、と言う。すなわち、「私を完全に信頼するということがないように。また何でもかんでも全てを話してくれなくてもいい」と。これによって教官は、「自身が信用する人物に値しないという程度には信頼できると研修生をして信頼させるし、それで両社の研修上の関係を準備できたことになる」。

あるいは。さらにまた別の例を出すならば、公衆の面前でスピーチすることを極度に不安がる人は、自分が緊張していることを恐れていることがある。そうした場合、緊張を悟られまいとコントロールし隠そうとするあまり、ますます抑えることが難しくなり、緊張は強まっていく。むしろ、スピーチの前にこう述べればよい。「私は極度に神経質で不安で仕方ありません。きっとあがってしまいます」と。これによってもはや隠そうとした緊張は公にされ、もはや隠す必要がなくなってしまう。

上述した「第二次変化」による解決はいずれも本書で紹介されている豊富な事例の一部だが、実際に僕自身もそれと知らず取り入れることのある工夫で、イメージをつかむ手がかりとなっているので、ここに引用してみた。

改めて「第二次変化」の実践に当たって

事例に当たったところで、変化の原理を用いた問題解決の4ステップを引用する。

1 問題を具体的に、明確に定義すること。
2 これまでなされた解決への努力を明らかにする。
3 達成されるべき治療目標の具体的定義。
4 この変化を生み出すための計画の設計とその実行

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

薄々感じていたことだが、第一のステップなどまさに「アクションラーニング」で重視される点と酷似している。

明白だが、なかなか実践しがたい問題解決の最初のステップは、それがどのような問題であろうと、問題の本質を知ることである。すでに聞いたり経験したりしているがゆえに、我々の多くは、何が問題なのか正確に認識し、理解していると思っている。さらに危険なことに、他の人もその問題について自分と同じように認識し、理解していると信じている。

「偽の問題」に何らかの解決策を施したところで「問題」は解決しない。至極当たり前の話だ。次にはこれまでなされた「解決策」を明らかにする。先に触れたように、「第二次変化」はこれまでの誤った解決策に対して適用するものだからだ。そして、治療目標は具体的に定義されなければならない。もっと幸福になりたい、夫との関係をもっと良くしたい、といった目標はあいまいだ。ではその目標の達成のために何をすればいいのか、と考えようとするときに結局困惑することになる。また、解決に当たっては時間制限も設ける。最後のステップとして、新たに検討された解決策を、来談者(クライアント)が納得をもってきちんと実行されるような形で与えられる必要がある。この第4のステップは本書でもいくつか具体例が示されるが、非常にテクニカルであるという印象を受けている。まさにケースバイケースなのだ。ポイントは、治療者は来談者(クライアント)の「言語」をしゃべる能力を必要とされる、ということにあるらしい。

エンジニアやコンピューター技術者の来談者ならネガティブ・フィードバックからポジティブ・フィードバックへの変化の必要性があるのだと言っても良い。自尊心が低い来談者にはあなたは今、自罰が必要で、それには今いった課題をやるのが良いのだと言える。また東洋思想にかぶれている者には禅の公案を思い出させれば良い。「私は来談者、あなたが私の問題を解いてくれるべきだ」と言わんばかりの者には権威者としての態度で臨み、何の説明もなくその指示をすれば良い。専門家の命令だ! と。

変化の原理〈改装版〉: 問題の形成と解決 (HUPセレクション)

これまでのロジカルな解説に対し、この「変化の原理」を用いたプロセスも(もちろん論理的であるけれども)「コミュニケーション」である、ということを思い出させてくれる感じがした。非常にプラクティカルでありながら、決して機械的な仕事ではない、ということがよくわかる。

個人的なまとめとしては(それでも5,000字に及んだが)これくらいにとどめておきたい。気になった方はぜひ一読をすすめたい。専門書にしては平易に書かれており、それほど苦労なく読めると思う。

感想など

本来であれば本書の冒頭で紹介される「群論」と「論理階型理論」について言及するべきだったが、分量の問題もあり、避けながらのまとめとなった。自分自身の理解は進んだが、優れたメタファーだと思ったので、ぜひ本書を手に取っていただきたいと思う。一応、WEB上に「論理階型理論」とブリーフセラピーを紐づけて説明している記事を見つけたので、リンクも貼っておく。

本書の内容が速やかに実生活に反映できるかというと、当然難しさはある。しかし後半で言及したように、「アクションラーニング」との関連や、弁証法的アウフヘーベンとして「第二次変化」がある、という観点など、これまでの知識とリンクすることが多かったという点で、また一つ学ぶべき方向性が見えたように思う。

特に、「治療者は来談者(クライアント)の『言語』をしゃべる能力を必要とされる」という話。僕自身、インタビューの実践を重ねるごとに「相手の目線で見える世界を見る」という地平に迫ろうと努力しているが、その努力が別の形で肯定されたような気分だ。勝手ながら励みにさせてもらった。

残念ながら絶版になっているらしい本書であるが、以下のような関連書籍があるようで、時間があればそちらにも手を伸ばしてみたいと思う。

また、今回のまとめではほとんど触れなかったものの、本書の中では哲学者ヴィトゲンシュタインについての記述が非常に多い。「

」でも大活躍のヴィトゲンシュタイン、そろそろじわじわと手を出す必要が出てきたように思う(下記リンク先はkindle版)。

 

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「技芸としてのカウンセリング入門」を読んだ感想まとめ

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一連のインタビューに少しでも参考になるかなと手に取った本書。カウンセリングは実践的・身体的であって、知的な活動で完結することはない、というスタンスが目を引いたのだった。

タイトルのとおり、全体を通じて著者の「カウンセリングはプラクティカルなものだ」という主張は一貫しており、従って取り上げられている事例も具体的でイメージしやすいものになっている。「カウンセリング」といってもコミュニケーションの一系統であり、そこには非言語的なやり取りが含まれていることもきちんとわきまえよ、という忠告は、本当にその通りだと思う(そこを自覚的に受信するのは僕の苦手分野だが)。

著者のカウンセリングのスタンスは、なんとなく、「マインドフルネス」の領域で大切にされているものと近い。たとえば、この辺は、まさに”それ”っぽい。

まず第一に、カウンセラーは、クライエントの体験を細やかにありのままに、そのままに聴いて受け止めようとする、ということが言えるでしょう。クライエントの話の背後に流れる体験の流れを感じ取ろうと意図しながら、リラックスして、自分の心に生じるがままにし、ただ感受するのです。

技芸としてのカウンセリング入門

そんなふうに思っていたら、実際に著者も第三章で「マインドフルに聴く」と銘打って言及していた。西村佳哲さんのインタビューのワークショップに参加していた時も、「これってマインドフルネスに近いんじゃないか?」と思いいたったことがふと思い出された。当時も今もマインドフルネスには全然手を付けていなくて、あくまでイメージだけど。

本書でインタビューにも活かせる観点はたとえばこんなところ。

クライエントの心の中の体験は、クライエントにしか分からない。クライエントだけが知りえること、感じうることなのです。同じ場面に居合わせて、同じものを見て、同じものを聞いても、人の体験はそれぞれにとても違います。そしてそれは、その人だけにしか知りようのない私的な世界の出来事なのです。

技芸としてのカウンセリング入門

僕は「相手の目からどんなふうに世界が見えているのかを共に体験させてもらう」ことを目指してインタビューに取り組もうとしている。それは、僕自身、「ああ、こういう経験があるってことは、こういう感想をもったのだろうな」とすぐに先回りしてしまう癖があって、そういう自分を矯正したいからというのもある。

カウンセラーの側の「こういう出来事があったら、きっとこういう体験があるんだろうな」という予想を完全に裏切るような体験が語られることがしばしばあるのです。

技芸としてのカウンセリング入門

もちろん、その点にもしっかりツッコミが入っている。僕も自分の予想をなんとか脇に置いておくことで、「おお、そういう結論に至るのか」といちいち驚きをもってきく場面に何度か出会えた。そうやってきく方が、そりゃあやっぱり楽しい。

第4章「応答技法」で紹介される「あいづち」や「反射」についても結構細かく書いてくれている。単純なようで奥が深く、しかし複雑なようでシンプル。テクニックというのは往々にしてそういうものなのだろう。

「ありのままに聴く」といっても、言うは易く行うは難し、とにかくやってみなければしょうがない。そういう機会を来週末に試しにやってみるが、そこでの反応を踏まえて、このきき方の広げ方を考えていきたい、と思う。

 

カウンセリングについてはこちらもなかなか良かった↓

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「U理論」の15章までのメモ―”答え合わせ”のために

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いよいよ着手した「U理論」。そもそも600ページ近い分厚さなのでぼちぼち読み進めている。1ヶ月ほど経って15章まで。ちょうど15章がひとつのまとめになっていたので、一旦ここで区切って自分なりの捉え方をまとめ、その後を読み進める際の比較材料としたい。とにかく用語が多く咀嚼しきれていないものも多々あるので、一つ一つ細かく取り上げるようなことはしない。また、自分の理解のためのメモなので、本書では使われていない表現も用いている。

社会システムや構造はある状況(コンテクスト)の中にいる人々によって具現化され、一方その状況(コンテクスト)は人々の場に対する意識を決める。そしてどのようにそれが行われるかを決定するのは、意識を生み出している源(ソース)である。

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

ここから、「源(ソース)」が最も根本的なものということをざっくりと読み取った。そして、その「源(ソース)」は4つの異なる領域構造を持っている。

◆私の中の私[I-in-me]……自身が組織化した境界の内側にある中心から行動する(領域1)
◆それの中の私[I-in-it]……自身が組織化した境界の周縁から行動する(領域2)
◆あなたの中の私[I-in-you]……自身が組織化した境界の向こう側から行動する(領域3)
◆今の中の私[I-in-now]……自身が組織化した境界を越えて出現している領域から行動する(領域4)

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

領域(フィールド)1~領域4のどこに位置する源(ソース)から行動するかによって、それぞれ異なる形で社会に何らかの影響やパターンがもたらされる。本書で示される「会話の現実創造」の例に当てはめて考えると分かりやすい。

領域1においては、会話は「ダウンローディング」で行われる。ある事象に対して反射的に、あるいは習慣的に「いつものやり方」で反応する。

領域2は「討論(ディベート)」。討論(ディベート)は異なる意見が複数あって成り立つ。領域1においては「異なる意見」の差し込まれる余地がないのだから、それに比べて視野は広がっている。が、あくまで「あれかこれか」という対立的なやり取りに収まってしまう。

領域3は「対話(ダイアローグ)」。討論(ディベート)と異なるのは、「あれもこれも」という視点だ。その場にいる誰かの意見だけが正しいのではなく、それぞれがそれぞれの視点で事象を眺めていることに気づく。悪者探しをするのではなく、自分自身がそのシステムの中に組み込まれ、そして影響していることを自覚する。

そして、「プレゼンシング」の段階が待っているのが領域4だ。プレゼンシングというのは「presence(存在)」と「sence(感じ取る)」からなる筆者の造語であり、ここは僕自身もどういう状態なのかぐたいてきなイメージがない(が、そういう段階がある、ということはなんとなくわかる気がする)。この段階に到達すると、そこにいる人たちが集合的なつながりを感じ、「根本的なところからアイデンティティや自己を転換させる」。なんとなく、これまで「ダウンローディング」のときに用いられた習慣的に形成してきた”自分”という境界を崩す、ということなのかなと理解している。

この領域1~4のうち本丸はもちろん4だ。あらゆる事象が絡まり複雑化を増す現代の課題は、ほとんど過去から学ぶことで対応できるものではない。そうではなく、これから「出現する未来」に耳を傾けることが必要というのが本書の主張だ。ただ、一方でまずは3,4を目指すべき、というメッセージが本書の中に埋め込まれている要にも受け止めている(逆に1,2は批判的に書かれているように感じる)。この4領域の区別と、それらをどう行き来するかという方法がこの「U理論」の肝であるはずで、だからあえて自分なりの例えを用いた説明を試みたい。

領域1:「あれはあれ」
自分が眼鏡をかけていることを自覚できていない。自分と他人の眼鏡が同一だと思っている。あるいは、眼鏡の違いを恐れてみな同じ眼鏡であるかのように振る舞おうとする。

領域2:「あれかこれか」
異なる種類の眼鏡があることは認識しているが、どの眼鏡がベターかを争っている。

領域3:「あれもこれも」
眼鏡はある程度付け替え可能であることに気づき、眼鏡を取り替えてお互いの見え方を体感し始める。

領域4:「あれにもこれにも」
そこにいる人たちの眼鏡からそれぞれ見えるものを重ね合わせたり組み合わせたり結び付けたりすることで、これまで見えなかった(見ようとしなかった)ものが見える。

U理論を読み進めて気づいたのだけれど、僕の頭の中のイメージでは「領域3」までが到達すべき点だった。細々と勉強しているアクションラーニングも、少なくとも「領域3」まではマストであることを示してくれている。アクションラーニングの中で出てくる”良い”問いはたいてい「領域3」に結びついており、質問者の前提を押し付けることをしない。むしろ、問題の当事者こそがその問題のへの回に最も近いはず、というリスペクトがある方が割とすんなりいく。それは、当事者自身も質問者も”眼鏡”をかけている、というわきまえからしか生まれないようなやり取りではないかと思う。

 

もうちょっとまとめようと思ったけど、やはりU理論難しい。あとは続きを読み進めて自分の理解を確かめてみることにする。

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