Category Archive: 読書の記録

「都市をたたむ」―これからのまちを見る眼鏡を手に入れる

カテゴリ:読書の記録

人口減少社会における都市計画のあり方を提言する本書。

「都市」という用語が当てられている通り、そもそも農村部、山間部についてほとんど言及はないが、今日の都市の成り立ちと、都市の中で進行する現象についてロジカルに説明がされており、理論武装にもってこい、と思う。

「都市をたたむ」という表現が指すもの

まずは本のタイトルでもある「都市をたたむ」という言い回しについて。

英訳は「shut down = 店をたたむ」ではなく、「fold up = 紙をたたむ、風呂敷をたたむ」である。つまり、この言葉にはいずれ「開く」かもしれないというニュアンスを含めている。日本全体で見ると人口は減少するが、空間内には一律に減少せず、特定の住み心地のいい都市に人口が集中する可能性もあるし、都市の内部でも人口の過疎と集中が発生する可能性がある。つまり、一方向的ではなく、一度は間引いて農地に戻すけれども、将来的に再び都市として使う可能性がある場所は存在する。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

本書では「計画」を「内的な力による変化を、整えて捌くもの」と定義している。

計画は、社会を動かしている様々な力を整えて捌くことによって、不都合な状態や危険な状態を乗り越え、望ましい方向に社会をドライブしていく役割を持つ。

(中略)

つまり、都市計画が捌く「力」は、都市を使う人たちが内的に持っている空間的な望み―広い家に住みたいとか、快適に通勤したいとか、立派な建物で仕事をしたいとか、遊ぶ場所が欲しいとか―こういった望みである。(中略)個人の「望み」は、人口流入の動きで加速され、それらの合計は大きな力を持つことになる。この大きな力を受け止め、その力の流れを整えて、適切な空間をつくる方向に捌くこと、これが都市計画の役割である。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

これまでの人口増社会はこんこんと湧き出る大量の水を捌く必要があった。しかし、これからはどんどん減っていく水をどう整えて捌くかが求められる時代。したがって、都市計画もこれまでと明らかに違うことをしなければならない、と筆者は指摘する。

この定義に立つと、地方への人口流入を必死に考える最近の「地方創生」の方向性にも疑問符が付く。川の流れに逆らうどころの話ではない。水量がそもそも減り続けているのが現状だ。この当たり前の事実を念頭に置けるかどうかで、計画の実効性が大きく変わる。

人口減少社会の都市の姿と「コンパクトシティ」の限界

では、この人口減少期に都市はどのように縮小しているのか。

本書では、その前にまず都市の戦後の発展を振り返っている。それは「スプロール(虫食い)」という言葉で表現されており、農地改革により土地が細分化されていった結果、個々人による分散した土地利用の意向を計画が捌ききれず、土地利用の混在が連なりながら拡大したのが日本の都市だという。

こうして元々の状態に比べるとかなり細分化された土地は、引き続き土地利用者の個々の意志やライフステージに応じて姿を変えていく。

ある住宅地で、ある家は既に数年前から空き家になっているのに、その隣では、その同じ大きさの家を取り壊してさらに3分割したような小さな住宅が売られていたりする。つまり、縮小と拡大という全く異なる減少が隣り合わせで起きることになる。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

都市は周縁からじわじわと縮小していく素振りを見せるわけではない。大きさは変わらず、しかし見えないところでぽつぽつと小さな穴が不規則に出現する。この現象を筆者は「スポンジ化」と名付けている。

「スポンジ化」を前提とすると、「コンパクトシティ」という構想は揺らぐ。都市は周縁から中心に向かって一様に縮小するのではなく、都市の中心部も外縁部も全体としてランダムに空間変化を起こすのだから、中心の集約化、高密化を実現するには、結局、人の移動を伴わざるを得ない。しかし、実際問題として1軒1軒動かすコストを行政が負担できるだろうか。

「コンパクトシティ」という提案が魅力を失うとしたら、ますます「スポンジ化」する都市をどう再編成すればよいのだろうか。

成長が止まり空間に余裕が生まれる時代の都市計画

これまでの都市計画は「中心×ゾーニングモデル」と位置づけられるが、各々成長する商業、工業、農業、住宅が都市の中で対立しないことを目指しそのために都市空間をゾーンに分けたものだった。

これからは、成長が鈍化し、空間に余裕ができるため、その対立を回避するためにゾーンを区切る必要性は下がる。そこで提案されるのが「全体×レイヤーモデル」だ。

中心×ゾーニングモデルから全体×レイヤーモデルへの大きな変化は、都市拡大期の都市計画が行っていた、大きなゾーン、巨大な青い鳥、大きな開発の組み合わせに寄る粗っぽい制御ではなく、スポンジ化によって小さな単位でしか動かない空間に対して、そこに顕在化している複数のレイヤーの可能性を読み取り、それを組み合わせながら空間のデザインを丁寧に組み立てていく、というスタイルへの変化である。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

「用途純化」とは逆に、小さな空間単位で様々な用途を混在させる。都市施設及び都市開発事業を小規模化させる。それがこれからのマスタープランとなる。「スポンジ化」が生み出す小さな穴は、小さく埋めるしかないのだ。

そこで描けるのは、せいぜい「スポンジの穴があいたら、このあたりにこういう機能が欲しい」という、大きな領域に対する「欲しいものリスト」のようなものではないか。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

読書の振り返り

改めてブログにまとめてみると、非常に分かりやすくロジカルに記述されている印象を持つ。それは、本書後半に紹介された事例のおかげもあると思う。

高度経済成長期と人口減少期の都市計画が同じであるはずがない、というのはあまり深く考えなくてもわかることなのだけれど、本書を読んでようやくそれが当たり前のこととして意識できた。

一連の主張を批判的に読む力量はまだ持ち合わせていないが、ひとまずは都市を「たたむ」という視座と、「スポンジ化」というフレームを持ってまちを見るようにしたい。

これは都市に限ったことではなく、これまでの常識を客観視し、これからのあり方を考える上で広範囲に応用可能な気がしている。それについてはまた次の記事にまとめてみたい。

関連する記事

ディープ・アクティブラーニングのメモ:序章・ディープ・アクティブラーニングへの誘い

カテゴリ:読書の記録

「アクティブラーニング」をちゃんと理解するために、
知人に薦められていた本書を購入。

内容は詰まっているが決して難しすぎず、
ブログにメモしながら読むのがよさそうなので。

アクティブラーニングの反省

「這い回る経験主義」という言葉があるが、
今日のアクティブラーニングは同じ失敗に陥っている。

そもそも、アクティブラーニングは
「網羅に焦点を合わせた指導」としての
講義形式の授業のアンチテーゼとして登場した。
しかし、今日のアクティブラーニングの実践の幾つかは
「活動に焦点を合わせた指導」に終始し、
対極にある講義型の問題は結局未解決のまま、
あるいは新たな問題が生じている現状がある。

ディープ・アクティブラーニング

「ディープ・アクティブラーニング」とは、
「深い学習」「深い理解」「深い関与」と、「深さ」の次元を考慮し、
真の意味で能動的な学習のあり方を提案するものだ。

「深さ」について言及する前に、
その前提となる”学習サイクルの6つのステップ”を紹介したい。

動機づけ―方向づけ―内化―外化―批評―コントロール

このうち、現状のアクティブラーニングで課題となりやすいのは
「内化(必要な知識の習得)」と「外化(知識の適用)」である。

講義型指導は内化に偏重しているという批判があったものの、
そのアンチテーゼは内化を軽視し過ぎたきらいがある。
そうした反省と次の段階への提案が本書に詰まっている(ようだ)。

以下、雑多にまとめていく。

・先行研究として学習への「深いアプローチ」という概念があるが、
評価方法もまた「深いアプローチ」を促す/阻害する要因となる。

・学習対象と能力のいずれもが重要と認識するべきである。
同時に、過去には知識そのものは低次のものと捉えられていたが、
「内化」と「外化」を繰り返す中で理解が深化することを考慮すべきである。

・身体的な活動に焦点をあてるのではなく、
”知的に”活発な学習の実現にこそ注力すべきである

 

 

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「2020年の大学入試問題」と東大生ノートの話

カテゴリ:読書の記録

とある先生が紹介していた本書。

「生きる力」というものがある。
文科省によると、この「生きる力」を養うのが「学力の3要素」だそうだ。

◎知識・技能
◎思考力・判断力・表現力
◎主体性・多様性・協働性

ところが、現行の大学入試ではセンター試験・2次試験において
「思考力・判断力・表現力」を問うのが関の山となっている。
小中高における学習の事実上の集大成がこれなのだから、
普段の授業で「主体性・多様性・協働性」を取り扱われることもない。

「ゆとり教育」に始まる一連の改革は、普段の授業を変える試みだった。
が、ご存知の通り、期待通りの成果は挙げられなかった。

そして、文科省はついに本丸に狙いを定めた。

2020年、大学入試はどう変わるのか

結論から言えば、まだはっきりと決まっているわけではない。
著者は海外の試験制度等も紹介しながら、
学力の3要素と新しい入試制度をこう結び付けている。

・高等学校基礎学力テスト ― 知識・技能
・大学入学希望者学力評価テスト ― 思考力・判断力・表現力
・各大学個別独自入試 ― 思考力・判断力・表現力+主体性・多様性・協働性

位置づけとしては現在のセンター試験に相当する
「大学入学希望者学力評価テスト」はPISA型の問題が想定されているそうだ。

各大学個別独自入試ではさらに「主体性・多様性・協働性」が問われる。
これを著者は「自分軸」と表現しているが、なるほど、
小論文の問題文の例には「あなた」という文言が頻出しており、
かつ賛成/反対の明示を求めず、「考えを述べよ」という形式が目立つ。

批判的思考を求めるならば、軸となる自分が必要だ。
著者の指摘は当たり前だが新鮮だった。
ちなみに、この「自分軸」を育むためにも
アクティブラーニングが重要なのだ、という話だが、
それはまた別記事にまとめてみたい。

「自分軸」と東大生ノート

本書を読み始めてまもなくのタイミングで、
太田あやさんの高校生向けの講演を聞く機会があった。

そこで印象に残ったのは2つ。

・東大生の美しいノートは試行錯誤の賜物だということ。
目標達成のため、自分に合ったノートをつくるという
東大生たちの執念が、講演の各所で感じられた。

・ルールを決めてマークや色を使うという話。
ノート術としては当たり前といえば当たり前だが、
「何が重要なのか?」を最後に判断するのは常に自分である。
そう、東大生のノートは「判断」の積み重ねの結果なのだ。

アクティブラーニングが流行っているためか、
ノートをとる行為は受動的なものとみなされがちである。

しかし、真に意味のあるノートをとるためには、
自分に即したものを自分で考え判断し試行錯誤するという
非常に能動的な学習のプロセスが発生する。
これだって「自分軸」を育んでいると言えるんじゃないか。

「どれくらい予習をしておいたらいいかわからない」
と質問している生徒がいた。○ページ分…?○単語分…?

太田さんの「それは自分が一番分かっているはず」
という回答に、僕は思わずうなずいてしまった。

大学入試改革の方向性自体に賛否はないが、
今の教育でもできることを取りこぼさないでおきたいものだ。

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