「就職がこわい」という現象

カテゴリ:読書の記録

勝間和代を敬遠している僕としてはなんとなく避けていた著者の本ですが、とりあえずタイトル買い。

若者の就職難についてはいろいろ本が出ていて、それぞれ切り口が違っていて、興味深いです。
その中で本書は実際に著者が教員として関わってきた大学生を観察した結果に基づいて、議論が進められていきます。

若者は「不安」に覆われている

あえて言うならば「『不安』がやってきたらどうしよう、という漠然とした気分」のことを、彼らは「不安」と名づけているのだろう。
ここで、若者が「不安なんです」と訴えるときの「不安」を、「はっきりしない、不確定であることに対する漠然とした否定的な気分」と定義しなおしてみよう。つまり、先が見えないことはすべて「不安」なのだ。

就職がこわい (講談社プラスアルファ文庫)

著者は、就職に積極的でない若者が抱えている「不安」に一貫して注目しています。
就職について拒絶とも言える反応を見せる学生も何人か見てきた中で、著者はこのように若者の不安を捉えようとしているようです。

“先が見えないことはすべて「不安」なのだ。”

さらりとこう書かれていますが、若者の不安の深刻さが感じられるようでいて、一方でこれってある意味誰しもそうだよな?と思える記述です。

就職を遠ざける五つの病理

若者が就職を敬遠する要因について、著者は以下の5要因にまとめています。

1.就職と解離
2.就職と短絡
3.就職と自己愛
4.就職と万能
5.就職と”自分探し” 

ここでは1.就職と解離について、本書から引用してみます。

とはいえ、「そのときにならないとわからない」というのでは、人間は社会生活を営むことはできない。だから、ほとんどの人は「現在の自分」が連続的な存在であり、二年後や一〇年後も基本的にはいまの価値観、性格、体力や健康、趣味嗜好などが大きく変わることはないだろう、という前提のもと、さらにそこに「こうなりたい」という希望も加えて、先々の計画を立てたり夢を描いたりする。

ところが、いまの若者の中には、そもそも「自分は連続的な存在。未来の自分も基本的には自分の延長」という自己に関する連続的なとらえ方ができない人も少なくない。

(中略)

精神医学のことばでは、このように自己の連続性や統合がさまざまな程度で失われている状態を「解離」と呼ぶ。

就職がこわい (講談社プラスアルファ文庫)

 一旦著者のとらえ方を受け止めてみると、「自己の連続性や統合」が失われていることで、未来を過去・現在の自分から想像することができず、結果的に”先が見えない「不安」”に苛まれている若者の像が浮かび上がってきます。
関わる人、世の中の価値観、社会情勢がめまぐるしく変わる中で、一貫性を保とうとするのではなく、部分的に対応するという適応することを処世術として身に付けてしまったがために、気付けばバラバラの自分がそこにいるだけ、ありのままの私って何?と呆然としている若者像をついついイメージしてしまいます。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法」の中でも、「統合」というキーワードは何度か登場していました。
自己イメージ(自分が思っていること)と経験 (実際に体験したり、感じたこと)のずれを統合することで、ありのままの自分を肯定することができるようになる、と。
逆に、コミュニケーションの相手や場によって引き出しを開けるように対応することが当たり前になると、自己イメージと経験のずれが大きくなっていくとも指摘されています(もちろん、それだけが要因ではありませんが)。

他の”病理”について一つ一つ言及するとさすがに長くなるため、以下、ざっくりとしたまとめです。

1.就職と解離
→統合されていない、一貫性のない自己

2.就職と短絡
→将来と目の前の就職をつなぐ理解しがたい、遠回りなロジック

3.就職と自己愛
→自分が”その他大勢”であると自覚しながらも「あなたは特別」という啓示を待つ姿勢

4.就職と万能
→純粋性、完璧主義と現実世界とのギャップ

5.就職と”自分探し” 
→「就職の意味」「自分の存在意義」の答えがでないと踏み出せない真面目さ

諸問題の背景については本書の第5章で言及されていますが、若者がこのような”病理”に陥る構造については個別に検討されている程度という印象でした。
とはいえ、この分類を無駄にせず、若者の就職の諸問題についてもう少し幅広いアプローチが可能になるように感じます。

文末に寄せられた著者のメッセージは、大きく二つ。

・あなたは人生のエキストラでは絶対にない
・仕事はすべてを解決してくれない 

実際に就職活動から逃避する学生たちの対処に苦慮した著者が自信を持って搾り出せたのは、せいぜいこれだけ、ということなのでしょう。
著者の能力不足というよりも、それだけ、 就職活動にまつわる諸問題が複雑で、厄介で、解決しがたいものであるということを物語っているように思います。

感想など

「しかし、本当にこれで若者の「不安」を説明できているのだろうか?

読後の違和感がこの記事をまとめながら明確になりました。
もちろん、ミクロで見れば一人ひとりの抱えている問題が全く同じということはないですが、もう一歩踏み込んだ考察を読みたかったと個人的には思います。

そもそも、本書が見つめる「若者」像が絞られていないところに問題があるのかもしれません。
冒頭に、高校卒業時の選択肢として「就職 > 大学」となっていることを著者は述べています。
就職できなかった/したくなかったから大学に行く、という構造。まさに大学の予備校化です。

しかし、当の僕自身にとってはそれは正確な記述ではありません。
「就職できなかった/したくなかったから大学に行く」ことを選んだのは、一体誰なのでしょうか?
この議論を曖昧にしたまま本章に突入した感があり、少し置き去りにされてしまいました。

著者の眼差しは「就職活動からリタイアする」学生に注がれています。
それはいったい誰なのか?彼らの「像」をもう少し読者に共有してくれたら、本書の価値はもっと上がったのではないでしょうか。
むしろ、著者の手元にあるサンプルだけで一般論を展開しようとしているようにすら見えてしまうのは、残念なところでした。

とはいえ、著者が描くような大学生には僕自身も実際に出会ったことがなく、いままで何冊か本を読んできましたがそのどれもが見逃している若者の不安がここに記録されており、いろいろ考えさせられるきっかけを得ることができました。
2004年に刊行されたという事実は今になってはマイナス材料かもしれませんが、それでもこの議論が遅れているようにはあまり思えません。
(それはそれで問題なのかもしれませんが…)

軽い気持ちで読み進めた割に、胸の奥に重たいものが残るこの読後感。
僕としては、多くの(とくに仕事と自己実現を切り離せない)方が目を通すのも悪くないかなと思います。

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ブログに何かを書くということ-固定することへの躊躇

カテゴリ:自分事

最近、このブログには本を読んでの感想やWEB等で見つけた記事に対するコメントを多く書いています。
一方、以前のブログのようにより大きな視点でモノを書く、ということが少なくなりました。

意識的にしているつもりはないので理由を説明することは難しいのですが、強いて言えば、「考えを固定すること」に対して自分自身、躊躇しているところがあるように思っています。

躊躇の正体

例えば、以前アキタ朝大学さんのHPに「コミュニティ」をテーマにした記事を4回に分けてご掲載いただきました。

[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(最終回)-秋元悠史 [2011/07/04]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(3/4)-秋元悠史 [2011/06/25]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(2/4)-秋元悠史 [2011/06/17]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室] 日本海に浮かぶ離島から(1/4)-秋元悠史 [2011/06/10]

書き終わった後になってその分量に自分でも呆れてしまったわけですが、これだけ書いてしまうと、一旦この話題について自分の中で区切りがついてしまったような感覚があります。
それによってこの話題が自分の中で固定され、一連の議論が、検討されるものというより、これ以降の議論のベースとなりつつあります。

それがいいことなのか悪いことなのか、まだ僕には判断がついていません。
コミュニティについて自分なりに考えを深めるためには、どうしたって議論に見切りをつけながら次のステップに進んでいくことが必要となります。
しかしながら、十分に検討した上で次に進んでいるのか、不安になるのもまた事実です。

ブログに考えをまとめるということは、その時点での結論を一旦固定することだ、と最近考えるようになりました。
なんらかのプロセスを経て練られた考えであっても、固定した記事に表現されるのは結果だけであり、そのプロセスの中に含まれているはずの気付きも戸惑いもすべて文章に込めることは、到底無理なことです(単に僕の文章力の問題かもしれませんが)。

固定するということは、何かを捨てることにつながる。
しかし、今の時点で捨てる作業を行って良いのだろうか?(いずれ必要だとしても)
そう考えている僕にとって、ブログに考えをまとめていくことは躊躇を伴うものとなっています。

固定されたモノに囲まれた世界

まず、ここであらためてポイントとして確認しておきたいのは、会話は記録できないということです。
いや、おしゃべりは記録できない、といったほうがいいでしょうか?
もちろん、議事録をつくったり、おしゃべりの光景を録画して残すことはできます。ただ、それがおしゃべりの記録といえるかというと、どうもそうはなりません。議事録や録画にはおしゃべりの場に参加していた人が感じていた「もの」が残りません。
そして、おしゃべりの場合、記録可能な言葉そのものより、その感じていた「もの」のほうが大事だったりします。つまり、おしゃべりというのは、きわめて体験的な性格をもっているといえると思います。

人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く:DESIGN IT! w/LOVE

このブログの著者の棚橋さんの言葉はいつも「考えたこともないけれど、なるほど確かにそう考えることもできそうだ」という絶妙な塩梅の気付きを与えてくれます。
固定することに対して慎重になりだしたのは、このブログを購読するようになってからのことです。

著書「ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術」のあとがきに、「デザインしすぎない」という言葉があります。
デザインとはあるものをある状態に「固定する」ことであり、その言葉の裏側には例えば上の引用文にあるような考えが潜んでいるのだろうな、と推測できます。

移転前のブログにこんなことを書いていました。

デザインがそうであるように、価値観は「固定」することで生まれる。
時間の流れ、連続性、それが生み出されるまでに関わった大小さまざまな因子を削ぎ落として。

僕らはそのプロセスでなく、結果としての価値観と常に対峙することになる。

ワカモノの不安と大量生産・大量消費される価値観:秋田で教育を考える – 日々勉強中

この記事の冒頭にも、棚橋さんのブログの引用文を掲載していますね。

僕らは「すでに誰かの手でデザインされたもの」にあふれ返った世界に生きています。
物質的なものに関わらず、体系化された知識や価値観やイデオロギーといったものに至るまで。
今や、僕らは生産をせずとも、消費するだけでとりあえず生きていけるくらいの時代なのです。

学問というものを見れば分かるとおり、固定することは進歩するために必然的に求められることです。
今の時代の豊かさは、僕らが進歩した結果、モノを固定してきた結果という説明をしてもいいでしょう。

進歩するために

一度モノを固定した状態から次のステップへ進むためには、おそらく二つの手段しかありません。

・固定されたモノをより良くする
・固定されたモノを壊し、新たにモノを固定する

企業活動にあてはめると「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」といったところでしょうか。
ここで重要なのは、どちらがより本質的であるかという議論ではないように思っています。

進歩するためには、その前に固定されたモノがあることが大前提となるのではないか?

より良くするためにはその対象となるモノが必要です。
破壊して創造するためには、そもそも破壊するものが必要です。

僕が自分の興味・関心について、議論を積み重ねるためには、「積み重ねる」モノがなければいけません。

固定することは怖い、しかし進歩のためには固定しなければならない。

そのようなせめぎあい、ジレンマを自覚した上で、日々考えたことを丁寧にこのブログに書いていこうと思っています。

関連する記事

ファシリテーションとコミュニケーション-「対話する力」

カテゴリ:読書の記録

ファシリテーターとしてはご高名(らしい)のお二人の対談をベースにした本書。
「ファシリテーション」というものの位置づけ、ファシリテーターの役割を把握していない状態で読み始めましたが、おぼろげながらその輪郭、基礎となる価値観、概念のようなものに触れたことができたように思います。

読みながらとったメモを振り返りながら、ずらずらと書き連ねておきます。

個人的なポイント

・ファシリテーションはコミュニケーション
・紹介されているノウハウや事例を通じて、一貫したメッセージを自分なりに読み取ってみる
・普段の自分のコミュニケーションに置き換えて考えてみる
・自分なりのかかわり方を言語化してみる

ファシリテーションの基本的な構造・順序

議論:方策を考える(アクション)
        ↑
対話:目的を共有する(ビジョン)
        ↑
会話:関係性を築く(コミュニティ)

いきなり議論に入らない。会話、対話、議論の順序を意識する。

ファシリテーターの役割

ファシリテーション
→人と人が関わる場を促進する
→ 「協働」と「学習」のサイクルを促進する(「学習する組織」)

ファシリテーターは問いに尽きる
ファシリテーションの本質はテーマ設定…適切なときに、適切な問いを立てる

ファシリテーターの立場は中立性よりも公平性が大事
中立な人は、当事者でない人。
中立であることより、場から信頼を得るこ

ファシリテーターは「ちょっと寂しい縁の下の力持ち」

ファシリテーションの上達
→×「ファシリテーション道のマスター」
→○自分流のファシリテーションを見つける

ファシリテーターは知識よりも地図を持て

「互いが安全に干渉できる関係性を、ある種強制的に作る」

×「時間内に結論がでない場合にどうするか?」
○「時間内に結論が出る会議となるようにあらかじめ設計する」
…ゴールの設定が大事-幅を持たせる、みんなで決める

「見守る」…ファシリテーターは「場をホールドする」ことに責任を持つ

開始時点でゴールのイメージをすり合わせる
「今日はどこまでやりたいですか」
「今日持って帰りたいものは何ですか」
「今日はどんな進め方が良いですか」

ワークショップを活かすためには、ワークショップを活かすためのプロセスのデザインが必要
「ワークショップが終わったときが、実は始まり」
※研修:事前の準備 4割、 研修そのもの 2割、事後のフォロー 4割

ファシリテーション型リーダーには「政治力」が必要

格言・メッセージ

「徹頭徹尾やる気のない人はいない。やる気のないときがあるだけだ。」

「起こっていることに意味がある」…場やプロセスに委ねる

×頑固な人を頑固じゃなくさせる
○頑固に固執したくなる状況を変える

意図どおりにならないときに、人はイライラする

教える→引き出す→あふれ出す

「人は誰だって誰かに認めてほしいし、人のこともきちんと認めたい。相互に承認し合うことが、いま求められていると思います。

プロセスの納得感が結論への納得感につながる
「よく話し合って決める、決めたら守る」

「その場に居合わせたメンバーが、明日から同じ思いで一歩踏み出し、少しでも組織や社会を理想の姿に近づけるものであれば、それで十分だと考えています。」

人間関係は、役割が一度決まるとそれが強化される傾向にある

「誤解」が対立を生む

雑感

ファシリテーションは、詰まるところコミュニケーションなんだと気付きました。
当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、個人的にこれは重要な気付きでした。

ファシリテーションとはスキルである前に、姿勢(メタ・スキル)を問うものです。 
他人とどう関わっているか、会話の中で、コミュニティの中で、どのようなあり方でいるのか。
姿勢を養い、矯正していく場はどこか。僕はそれこそが日常なのだと思います。
ファシリテーションを行う場、例えばワークショップが、基本的に作為のある、非日常の場であったとしても。

ファシリテーションの上達とは、自分流のファシリテーションを見つけること、とあります。
実践の場でアウトプットし、それを振り返ることで自分自身のファシリテーションを問い直すことはできるかもしれませんが、インプットがなければ本質的にアウトプットされるものに変化はありません。
そのインプットの場は、日常に散りばめられているのです。
そうして、ファシリテーターというシゴトが属人的なものになる、ということが徐々に腑に落ちてきました。

僕は、特にビジネスにおいて、コミュニケーションを「相手のポジションを変えること」と定義しています。
反対派を賛成派に誘導したり、やる気のない人をその気にさせてプロジェクトに巻き込んだり、商品を知りもしないお客さんに商品を買ってもらったり。

ファシリテーターは、「促進する」という意味において、関わる人のポジションを変更します。
もう少し正確に捉えるなら、「場」そのものに関わり、場のエネルギーを変動させることが、ファシリテーションと言えるでしょう。

コミュニケーションはより恣意的に、自分自身のシナリオどおりの進行という大きな目的の中で行われます。
ファシリテーションはもう少し「場に任せる」というニュアンスが強いですが、ワークショップの前後を含めたトータルのプロセスをデザインすることの重要性についても本書で指摘されており、「促進する」ための一定のシナリオ(意図)がなければ成り立たないものであることは間違いありません。

いずれにしても、問われるのは自分自身のスタンスやかかわり方ではないでしょうか。
ノウハウを集め、スキルを鍛えることがファシリテーションやコミュニケーションを極める上で最重要になるとは思えません。
それを理解できただけでも、「対話する力―ファシリテーター23の問い」を手に取ったかいがあったと感じています。

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