まちづくりにおける合意形成ワークショップの虚しさについて
カテゴリ:世の中の事 2014/09/25
「なんか面白いことやりたいね」→「じゃあワークショップしてみんなでアイデア練ろうか」→「これとかできそうだね」という流れは割と良く見るけど、これで”まちづくり”ができるかというとできないんだなというのが海士町で学んだことの一つです。
— Yushi Akimoto (@kamioka) 2014, 9月 23
Twitterで割と反応がよかったのでブログでまとめてみることにした。
海士町に住んでいるとそれなりにワークショップに参加する機会があるが、
海士町内で体験したものは大きく3種類しかなかったことに気づく。
1.給与をもらう仕事とは異なる趣味や興味・関心に基づく場でのアイデア出し
2.内省や対話、関係性構築の契機となるような仕掛けのワークショップ
3.実際に物を作ったり体を動かすようなワークショップ
職場で合意形成のためにワークショップをした記憶がない。
海士町の暮らしの中でも”まちづくり”の文脈で合意形成の方法として
ワークショップを選ぶということはほとんどなかったと思う。
逆に言えば何かを決めるときにワークショップをするという発想がなかった。
合意形成ワークショップが必要なかった、ということだ。
それでも世の中は合意形成ワークショップを求める
一方、「合意形成ワークショップ」で検索すれば、
いろんな地域でそれが行われていることがすぐわかる。
ぱっと見た限りでは、行政主導のものが多そうだ。
合意形成は目的でなく手段であって、
みんなでやろうと決めたことをちゃんとやれるかどうかが大事。
それがわかっていればわざわざワークショップでなくても良い気はする。
合意形成のためのワークショップで決まったものより、誰かが強くやりたいとごり押ししてみんながフォローする方がインパクトとしては大きくなるという印象。 — Yushi Akimoto (@kamioka) 2014, 9月 23
成果が上がるかどうかはやるかやらないかだけ。
そのために何かをみんなで決める必然性もない。
海士町でも”まちづくり”のつもりでワークショップを気軽にやるってないもんな。みんなそんなに暇じゃないし。自分たちの暮らしが楽しくなるように、というつもりでワークショップをやるくらいがちょうどよくて。
— Yushi Akimoto (@kamioka) 2014, 9月 23
”まちづくり”をしている”つもり”で終わらないために
何かしら変えたいという思いを持ちつつ、組織や地域の慣性を変える力を持たない(そんなもの持っている人間は限られている)というときに、仲間が欲しくなる気持ちはとてもよくわかるのだけれど。 — Yushi Akimoto (@kamioka) 2014, 9月 23
仲間内でワークショップをやる虚しさがここにある。
気の知れた仲で合意形成できたことが即”まちづくり”につながるわけではない。
繰り返しになるが、”まちづくり”のためにワークショップをしないといけない理由はない。
「仲間内でやる」が目的なら、それを”まちづくり”と混同してはいけない。
地域のためになにかしたい、でも具体的にしたいことはない、というなら、その地域で仕事をし、働き、家族がいれば家庭を支え、隣人とも仲良くやっていく、ということをまず大切にやったらいいんじゃないかと思ってしまう。
— Yushi Akimoto (@kamioka) 2014, 9月 23
何か特別なことをしないと”まちづくり”と言えないというのもおかしい。
これは裏を返せば当たり前に暮らす人に対する敬意を欠いているということだ。
それよりは(抽象的な誰かのためにではなく)自分たちの暮らしを楽しくするために、
とはっきり自覚してわいわいがやがややってる方がよっぽど健全なのではないか。
上澄みを掬い取って”まちづくり”とか言っている場合じゃない、と思う。