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リーダー待望論に見る日本の努力主義とその停滞

カテゴリ:世の中の事

僕がTwitterに流したこの記事が、地味にアクセス数を稼いでいました。

何が鍵を握っているかというと、政治のビジョンをしっかりと描きそれを実行に移していくためにリーダーをしっかりと支えるブレイン集団が存在すること、社会が抱える様々な潜在的な問題を早い段階で政治のテーブルに載せ、それに対処するための政策の選択を専門家がきちんと洗い出し、どれが最適かを議論したり、社会を構成する様々な人々の意見を聞きながら実行していくためのプロセスが制度としてしっかり確立していること、そして、そのプロセスが透明性を持っていること、候補者の人気投票ではなく政策議論を中心とした選挙を可能にする選挙制度があること、研究実績も博士号も持たない肩書きだけの「教授」や御用学者ではなく専門知識に長け社会を良くしようというやる気に満ちた学識研究者が歳に関係なく自らの能力を政策決定に反映できること、大学で専門知識を学んだ人がその能力を生かせる行政の職場に就き、エキスパートとしての立場から行政を行ったり政府に対して意見や提案を行えること・・・。スウェーデンの政治や社会を見ていると、以上のような「制度」の確立のほうが特定の個人のリーダーシップの有無よりも非常に重要な鍵を握っているのではないかと思う。

だから「スウェーデンの現在の経済や政治を導いてきた代表的なリーダーは誰ですか?」と尋ねてくださった方々には申し訳ないが、「こんなリーダーがいたから、今のスウェーデンがあるんですよ」と一言で述べて、その人物のリーダー哲学を説明してあげることはできない。私の答えは、上に示したように、一言では言い切れない。スウェーデンで政治に携わったり行政のアドミニストレーションに携わったりする人に求められるのは、心を動かすようなリーダー論や人生哲学ではなく、むしろ組織の中での効率的なマネージメントの能力やコミュニケーションの能力、他人とのグループワークの能力といった「地味」で実務的な能力だ。大学教育の経済・経営などに関する教育課程でもそういった要素が重視されているし、他の学生と一緒に一つの課題をこなすというグループワークは他の教育分野でも一般的だ。

今の日本の政治に欠けるのは果たしてリーダーシップなのか? – スウェーデンの今

「ふがいないリーダーがいるから失敗する。リーダーシップのある優秀な人材であればうまくいく。」という発想。
失敗を個人のせいにするか、失敗を発生させる環境の中に原因を追究するか。

日本は往々にして前者の「」の論理が優先されるように思います。
全員が同じルールの下に集まり、同じ課題を与えられる学校教育においては、その傾向は顕著です。
「みんなできていることをしない・できないのは怠慢、努力不足の証拠」なのです。

2010年の初夏、大阪で風俗勤務の女性が2人の子どもを家に閉じ込め、死体を遺棄するという事件が起こりました。
あの事件の後のmixiニュースに対する加害者への非難・中傷は見ていられないほどでした。

しかし、加害者ははじめから「殺人者」 になるような特徴を兼ね備えていたのでしょうか。
加害者が置かれた環境が、加害者を殺人者にまで追い込んだのではないか。僕はそう捉えています。

この記事を読みながら、映画「降りてゆく生き方」のプロデューサー、森田さんのTweetを思い出しました。

欠陥品が出ると「本当は完全品を生み出すシステムなのに、偶然欠陥品がエラーとして出てしまった」と思う人が多い。しかしそうではない。真実は、「そのシステムは、欠陥品を生み出すのに最適なシステムである」ということなのだ。less than a minute ago via web Favorite Retweet Reply

 

僕としては、森田さんの立場に賛同します。
根性に頼ることなく、仕組みでなんとかする、という発想は個人でも組織でも適応可能です。

例えば「Lifehack」。
人間の心理や行動、クセに関する最新の研究を踏まえて理に適う方法で習慣化・効率化を実現する。
根性論に染まりきってしまうとなかなかできない発想かもしれません。

なぜ自己責任の論理が強調されるのか

個人的に関心があるのは、どのような影響の下で自己責任の論理が染み付いてしまうのか、という点です。

一つ考えられるとすれば、「平等」の意識が強いこと。
(見た目は)日本社会においては機会の平等が保障されていることが多いので、その中できちんと機会を実らせる人がいれば、 そうでない人は機会を生かせなかった、というレッテルを貼られるのはある意味フツウのことと言えます。

「オレはできたのになぜお前はできない!?」といわれても、正直困ります。
「能力はみんな同じ」という前提が成り立つなら、確かに個人 の怠慢が原因になるかもしれません。
「適性は個人によって異なる」ということをみんなぼんやりとでも認識していると思うんですけど。

過剰な平等主義とその結果としての自己責任論。
構造を変える、システムを変えるという発想を遮っているのは、僕らの中に組み込まれた論理なのかもしれません。

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