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「Spontaneous」という用語とそれを取り巻く世界観について

カテゴリ:自分事


「Spontaneous」という言葉でイメージするもの

Spontaneous Entrepreneurship|野生的起業論|ドチャベン2018 秋田県

「ドチャベン2018」で掲げられているキーワードは「野性的起業論」。また、「Spontaneous Entrepreneurship」という表現が英語表記として用いられている。この「Spontaneous」という英単語は、「自発的, 自然発生的」といった意味合いがある。ライターとして記事を書く以上、その意味するところを自分なりに落とし込む必要がある。仮説を持ちながら記事を書き、記事を書きながら仮説をブラッシュアップする。何回かの反復の結果として、ここに言語化を試みてみたい。

「Spontaneous」という言葉が取り上げているものとして大きく2つあると思っている。第一に、「個人」の自発性に対する注目がある。個人の内側から自ずと溢れ出てくる想い、ビジョン、そういったものがここでは重視される。イシュードリブンではなく、ビジョンドリブン。過去志向ではなく未来志向。ニーズではなくウォンツ。誰に頼まれたわけでもなく、自らの望むものを自らつくる態度。

第二に、あるシステム全体を捉える視点がある。ここでは「A ⇒ B」という線形の因果関係ではなく、もっと複雑な、いわば生態系のようなものをイメージしてもらえばよい。「Spontaneous」とは、そのシステムの本来的な循環を促進することで自然と生まれてくるものを信頼する態度と言えばよいだろうか。システムが他と比べて劣っている部分や不足する機能を付与しようとするのではなく、あるいは限定的な意図で以てシステムをコントロールしようとするのでもなく、そのシステムのポテンシャルに目を向ける。微生物の性質に従って環境を整え、彼らの活動に委ねる発酵のプロセスに近い(現代の酒造りは発酵をほぼコントロールできているともいうが)。そのため、「待つ」ことが求められ、かつ想定外をも許容する必要が生じる。何か面白いものが出てくるはず、しかし何が出てくるかは分からない。それを楽しむくらいの構え方が要求される。

「Spontaneous」という言葉が用いられる背景

ここまでをまとめると、「Spontaneous」は個人やシステムそれ自体の内発性、ポテンシャルといったものを重視する。では、なぜ「ドチャベン2018」においてこの用語が用いられたのだろうか。

僕はこの仕事を通じて初めて「Spontaneous」という言葉を知ったわけだが、そのときにすっと脳裏に浮かんだのが五城目のまちづくりについてだった。五城目にいる人たちは、ボトムアップでそれぞれが勝手に自分のやりたい事をやっている。その結果が線になり面になり、気づいたら「五城目って盛り上がっているよね」と一目置かれるようになった。そこにはいろんな要素が絡んでいて、強いリーダーがいたわけではないし、移住者の存在は何らかのきっかけにはなっているが因果関係で語れるほど単純ではない。はっきりと言えるのは、個人の自発性を奨励し合い、支援し合うコミュニティがあるということ。その結果として、誰に言われるともなく自発的にやりたいことをやる人が現れ、それが時に有機的につながるという状況をつくっている。

これまで教育の仕事をしていた中で、人が新しく何かを始めるというシーンを何度か見てきた。うまくいかないパターンの多くは、課題解決やニーズが先行していたように感じている。たとえプロジェクトとして理に適っていたとしても、それを推進する個人のモチベーションが持続せずに、断念される。あるいは、個人のコミットメントがそのままソリューションの質に反映され、そもそもプロジェクトとして微妙ということもままあった。そこから、僕の立場として、まずは個人の自発性が発揮されている状態をつくることを第一の働きかけとしよう、と心に決めたのだった。

この帰結は至極当たり前のように思えるが、実際のところ、この考え方は(少なくとも)日本社会ではほとんど受け入れられていない。「自分のやりたいことをやろう」と言われても、まず、家庭や学校でそれが真に推奨されているケースが少ない。自分が何を求めているのかがわからないという人の方が多数派と感じるほどだ。また、秩序を重んじる環境に身を置く時間が長いため、「自分のやりたいことをやる」=「周囲に迷惑がかかる」と捉えている人が少なくない。さらに、社会規範に沿って選択することが当然視されているため、「自分のやりたいことをやる」=「リスクが高い」という認識も根強い。そして、これが最も根深いと思うが、そうした状況下にあって、「自分のやりたいこと」「本音で思っていること」を周囲にきちんと受け止めてもらった経験にそもそも乏しい。だから、自分の考えや意見を表明しないし、そんなことよりもコミュニティや組織の中で空気を読むことがむしろ優先される。

だから、自発的に事を起こすという事態がそもそも成立しない。一見、「これをやりたい」と自ら主張しているようで、実のところ周りが喜んでくれるからそれをやると言っているだけというケースも散見される。この状況に対応するには、とにかく周囲に気兼ねなく自分の思っていることを表に出す経験を積むしかなく、そのためには、個人の話をきちんと受け止める環境づくりが必要になる。これが、仕事を通して僕がやりたいことの概略にもなっている。

「Spontaneous」とは、だから、わざわざここで口にしなければならない言葉なのだ。自発的であることの稀少性が実は高いゆえに、自明であるようなことを強調しなければならない事態にある。そして、それでもなお、「ドチャベン2018」で紹介された人々のように、自発的に、伸び伸びと生きる姿の美しさを無視できない。だからこそ、「Spontaneous」という言葉が登場した。僕は、そのように理解している。

誤解されたくないのだが、「Spontaneous Entrepreneurship」とは、「人に迷惑をかけてでも」「高いリスクをとって」「やりたいことをやれ」というメッセージでは決してない。むしろ、やりたいようにやり、ありたいようにあることで、結果的に自他が満足し、かつリスクを見極め取るべきところは取り回避すべきところを回避できるという信念に基づいている。つまり、日本社会を取り巻く常識や固定観念とは異なる世界観が、ここには横たわっている。

それゆえに、この「ドチャベン2018」が放つメッセージの分かりづらさがある、と思っている。そもそも、世の中一般に共有されている考え方とは異なる価値観、もっと言えば異なる言語に則っている。しかし、これもまた一つの確かな兆候であるということは言っておきたい。被災地の復興支援の現場で多発した「燃え尽き」、デザイン思考の反省により形づくられつつあるアート思考、海の向こうから日本に伝来しつつある「Authentic」という単語。あるいは、プロジェクト学習という手法がある種の限界に直面していることも、「Spontaneous」という用語の存在感を一層高めているように思える。

 


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