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言語化の台頭と日本のコミュニティの変遷

カテゴリ:世の中の事

そもそも僕がこんな話をしだすのは、率直に言って、言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、という印象を持っているからです。

言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト | 秋田で幸せな暮らしを考える

「言語化」や「コミュニティ」というキーワードについて把握しようとする僕のモチベーションの源泉は、ほとんどここにあるといっていいです。
「言語化」の能力を持っていること、あるいは「都市型コミュニティ」の中で生きることができること。
これこそが「個人化」が進む21世紀において、幸せな暮らしを送る条件になっているように思います。

仕事、そして生活面における他者(家族や自分が暮らす地域・社会)との関係性の両方を充実させること。
その秘訣を探りたい、というのが、僕の原動力になっています。

農村型コミュニティと都市型コミュニティ

農村型コミュニティと都市型コミュニティという言葉は、例えばアキタ朝大学さんへ寄稿した記事でも紹介しました。
僕が「コミュニティ」というものを考えるときの大きなベースとなっており、広井良典著「コミュニティを問いなおすで出会いました。
(ちなみに、この本はおすすめです。僕も折に触れて読み返しています)

ここで改めて両者の違いについて整理したいと思います。
誤解を生みやすいので先に書いておきますが、この「農村」と「都市」という区別は、それぞれ字面そのものの農村と都市を指すものではありません。
農村(あるいは地方、田舎)では農村型コミュニティが形成され、都市(あるいは都会、東京)では都市型コミュニティが形成されるというわけではない、ということです。

農村型と都市型は形成原理で区別する

この二つのコミュニティを分類する基準となるのは、その形成原理にあります。端的には「個人」のとらえ方に差異があります。
農村型コミュニティは「共同体と同質化・一体化する個人」によって、都市型コミュニティは「独立した個人と個人のつながり」の結果として、それぞれ構成されます。
前者は同心円状にその勢力を拡大することで大きくなり、その暗黙的な同質性が前提としてあります。
一方、後者は個人の異質性を前提としており、明示された一定のルールや規約をベースに、個人と個人の関係性がつくられていきます。

二つのコミュニティの形成原理の違いについてもう少し細かく見ていきましょう。
両者の違いは、コミュニテイからの要求が先に来るか後に来るか、という点に現れるのではないかと僕は考えています。

農村型コミュニティは所属するかどうかが決まるや否やいろいろな条件を満たすように要求します。
例えば海士町は14の地区に分かれておりますが、区費を支払う必要があったり、ぢげ掃除など各種行事に参加しなければならなかったり、地区ごとにルールがあります。
そしてそのルールはIターンも遵守する必要があります。
移住した途端にルールを守る必要が生じ、それを遵守しなければ地区の住民としての立場がなくなります。
海士町に移住するということは、多かれ少なかれ自動的に提示される条件を受け入れる必要があるということです。
「所属したからには条件を飲め」 と迫るのが農村型コミュニティです。

反対に、都市型コミュニティは参加する前に条件の要求が先に来ます。
僕が所属するWE LOVE AKITAは基本的に誰でも参加可能であり、参加を強制するものではありません。
ところが、実際には参加条件があります。
秋田が好きとか、秋田に関する活動に自分も参加したいという動機がなければなりません。
逆に言えば、秋田が嫌いな人は加わらないし、島根が好きな人は島根を応援する活動に参加すればいい。
参加する側からすれば都市型コミュニティは条件に応じて主体的に選択可能であり、その意味では「契約的」と言えます。
「条件を飲むことに同意する(契約書にサインする)なら参加を許可する」と構えているのが都市型コミュニティです。

コミュニティに参加するより先に条件を吟味できるということは、参加条件が明示的であるということです。
一方、農村型コミュニティは暗黙のルールが支配的であると考えられます。

以上のような分類に基づけば、実際にコミュニティの形成される場が農村であるか都市であるかにかかわらず、いずれのコミュニティも形成される可能性があることが分かります。
古くから農村/都市がどのように形成されてきたか、その原理に注目してさまざまなコミュニティを分類しているというわけです。

農村型コミュニティのハイコンテクスト性

さて、農村型コミュニティの同質性を前提とした同心円状に広がる形成原理に今一度注目しつつ、農村型コミュニティにおいて「個人」の発見が阻害されるメカニズムを考えてみたいと思います。

このコミュニティの構成員は暗黙的に同質であることが了解されています。
暗黙的とは、「言わなくても分かる」ということ。同質であるということは、コミュニティ内における知識や経験の共有度が高いということです。
従って、構成員間のコミュニケーションにおいてもその特徴を指摘することができます。

抽象的な表現をとると、このような状況下では会話の中で使われる言葉は「定型化」されます。
言いたいことはコミュニティ内の文脈の中にストックされた”定型文”を活用する形でコミュニケーションは成り立ちます。
つまり、自分の言いたいことは自分で一から構築する必要が無い。当然、表現の自由度・ユニーク性は落ちますね。

このような文脈依存的な文化は「ハイコンテクスト文化」と呼ばれているものと一致する、と考えられます。
(ハイコンテクスト文化については過去記事でも触れておりますので、こちらをご参照ください)

一方、文脈に依存せず、積極的に言語等によってコミュニケーションを交わすような文化は、「ローコンテクスト文化」と呼ばれています。
これは、都市型コミュニティの特徴である、形式化された規則やルールや論理的な言語による表現を重視する傾向と重なります。

農村型コミュニティは、ハイコンテクスト文化の特徴を有しており、一方、都市型コミュニティはローコンテクスト文化であると指摘できる、というのが僕の考えているところです。

ハイコンテクスト文化における「個人」の不在

ハイコンテクスト文化におけるコミュニケーションをもう少し細かく見てみます。

ハイコンテクストな社会においては、コミュニティ内で共有されている”既存の”(あるいは既知の)文脈が支配的な位置を占めます。
文脈によって推測できることで満足するコミュニケーションによる理解があらゆるところで推奨されます。

その結果として、”既存の”文脈で説明できないものは価値を認められないということが起こり得ます。
既存の文脈外にあるものは積極的なコミュニケーションがなされる土台を持たないために、ハイコンテクスト文化において理解される機会を喪失しているのです。
僕は、このコミュニケーションの慣習が、農村型コミュニティの「個人」の発見を大きく阻害している、と考えます。

ハイコンテクスト文化においては「個人」は近似値としての「集団」によって把握されます。
逆にローコンテクスト文化においては「個人」は唯一無二の値として扱われます。
農村型コミュニティは「円周率は3.14とする」で満足してしまいますが、都市型コミュニティは円周率が無限小数である(終わりがない)ことを認めながらも、正確な値を追求するために演算を絶やすことがありません。

ハイコンテクスト文化の”既存”の文脈は、先述したとおり”定型文”的であるという言い方ができるかもしれません。
「AであればB」という認識が予め共有されていることで、はじめてAという”定型文”はコミュニケーションの中に活用されます。
逆に、コミュニティ内でこのような共通の認識が存在しない新しい文脈を導入することは困難を伴う、というわけです。

このように農村型コミュニティにおいては”定型文”的に、限定的な枠組みの中で「個人」を理解することとなるため、「個人」は均質化する傾向にあります。
ここでは、「あなたという人間は何者なのか?」という問いが明示的に発せられることはありません。
「個人」は暗黙的に、コミュニティ内の”既存”の文脈に基づいて相手に理解されるのが普通であって、「私は何者か」を言語によって積極的に説明するシチュエーションに出くわすことは、実はほとんどないのです。

日本は世界的に見ても極めてハイコンテクストな社会であるとされています。
もともと日本語に「Self-Identity」に該当する日本語が存在しなかったという話も、うなずけます。


批判的な書き方になりましたが、ハイコンテクストな社会でなければ出現しなかった文化もあります。俳句や短歌はそのひとつでしょう。
また、「あなたは何者か」を問わない農村型コミュニティは寛容である、と捉えることもできます。

グローバリゼーションが歪ませる農村型コミュニティ

こうしてみることで、農村型コミュニティでは「個人」という概念が希薄であるということの一定の説明が可能になったように思います。
日本語では「自己同一性」と訳される「アイデンティティ(Self-Identity)」という概念について言えば、同質性が前提としてある農村型コミュニティにおいては自己と他者の区別も明確ではなく、他の何者でもない自分を自覚することは困難な作業だったのではないでしょうか。

これを踏まえれば、グローバル社会において進行する「個人化」という社会構造と農村型コミュニティの形成原理との間に齟齬があることが分かります。
そもそも農村型コミュニティにおいては「個人」という概念が希薄なのですから、コミュニティが解体され「個人」という単位がむき出しになった社会の中で、農村型コミュニティの元構成員たちが適切に振舞えるのか、という問題が生じるだろうとは容易に想像できます。

その結果として良く槍玉に挙げられるのが「孤独死」という事象ですが、コミュニティの解体により表面化した”社会の膿”は、より複雑な側面を持っているように思います。
例えば、(学識ある方からの指摘も多いところですが)「秋葉原通り魔事件」もまた、所属するコミュニティを失った一人の男性の悲劇として捉えることができます。
僕が現代社会の構造の歪みを強烈に意識するきっかけとなった「大阪市・2幼児遺棄事件」も、コミュニティの喪失による孤独なシングルマザーという加害者像をイメージさせます。

これまでの農村型コミュニティと「個人化」する社会の齟齬が”歪み”を生じさせている中、そこここで発生している悲しい事件は、社会の傷口である”歪み”から垂れ流されている”膿”のイメージを想起させます。
しかし、上に挙げた二つの事件の加害者は、「個人の倫理観の欠如」や「異常性」ばかりが指摘される結果となりました。
僕らは、「こちら」と「あちら」というように自分たちと加害者を容易に区別するだけで、言うなれば加害者たちを”膿”と見て、それを洗い流すことだけで事なきを得ようとしているのではないでしょうか。
僕らは社会構造の”歪み”の修復に着手することはなく、未だ発見されぬまま放置された”歪み”からは静かに、しかし淡々と”膿”が流れ続けている。
残念ながら、そんな状況のように思えてなりません。

コミュニケーションはどう変わるのか

グローバリゼーションの到来が、社会の「個人化」を推し進める働きをしたと書きました。
この点は既にメディアでも取り上げられており、多くの社会理論でも指摘されているところです。

「個人化」が進んだ結果、”既存”の文脈はますます共有の難しいものになりつつあります。
併せて、シングルペアレント世帯の増加などライフサイクルも多様化し、一人一人をまとめてラベリングし、集団的に理解するという行為がますます成立しにくくなっています。
そのため、最大公約数的なモデルケースをベースにするという発想に基づいた社会的な支援では、個人の抱える問題を処理できなくなり、結局個々人が自らの課題を自ら解決する必要が生じてきます。
この構造は「自己責任」の論調に拍車をかけており、就職できないことも結婚できないことも貧困に陥ることもすべて個人の自己責任として片付けられる傾向があることも見逃せません。

「個人」が強調されたために、お互いを理解できる共通の文脈は失われつつあります。
ここにおいて人と人との間のコミュニケーションを成立させる方法を改めて考えるべきでしょう。

農村型コミュニティが用いていたような共有可能な文脈を新しく創り出すか、「個人化」を徹底的に推進するか。
いずれにせよ、これまで用いられてきた文脈の活用は期待できず、言語等をベースとした積極的なコミュニケーションが求められることが予想されます。

伝えるべきことを一から言葉にすること。
「わたし」と「あなた」の間を隔てる差異を飛び越えるだけの表現力と説得力を持つこと。
これを僕は「言語化」と呼び、 「個人化」の時代において必要なのは「言語化」の能力である、と考えるわけです。

「言語化」とは、「差異とは何か」を暗黙的でない形で(明確に近くできる形で)表現/理解すること。
繰り返しになりますが、「わたし」と「あなた」はすでに明確な差異を持つことは前提とされています。
(実際、「みんなちがって、みんないい」という言葉があるのですから!)
これこそが「個人化」時代のルールであり、「言語化」の能力が求められる背景なのです。

まとめに代えて

ここまで、「言語化」の台頭した経緯を僕なりに整理しました。
長くなりましたが、これまでブログで書いてきた内容をここにまとめられた感があります。

では「言語化」の能力はどうやって鍛えられるのか。
まだ僕の中で課題として残っていますが、「他者」の認識が重要になるだろうという仮説を持っています。
そのあたり、「「他者」を発見する国語の授業 」などを参考にしながらまとめていきたいと思います。

関連する記事

伝統・文化の副次的な意味が多く語られる傾向について

カテゴリ:自分事

「伝統や文化を残す意味は?」と問われると

伝統工芸や地域の祭りが廃れていくのを見ると、
やはり寂しさを覚えます。

伝統や文化を残そう、という動きは
最近になってますます活発になっており、
「伝統や文化を残すこと」を大事と思う人は少なくありません。

さて、「伝統や文化を残す意味は?」と問われたとき、
どのような答えが返ってくることが期待されるでしょうか。
例えば祭りを守る意味について問うと、
このような回答が寄せられる傾向にあります。

・祭りを通じて地域コミュニティのつながりが醸成される。
・祭りに関わることで人々が役割を得ることができる。
・まちに活気が溢れることで、明日への活力となる。
・人が集まることで経済効果が期待できる。

これらは同様の質問に対する高校生の意見を参考にしています。
「祭りを通じて地域に良い影響が生まれるらしい」
ということは容易に想像できることです。

文化そのものの意味が軽視されていないか?

しかし、高校生の回答に気になるところがあります。
そもそも祭り自体の意義への言及が見当たらないのです。

では「祭り」自体を残す意義とはなんなのでしょうか。

昔からやっているから

残すべき理由がこれだけというのは難しいものがあります。
祭りは何らかの起源と目的や意義があってはじめて成立し、
そうして現在に至るまで継承されてきたもののはずです。
しかし、今残っている祭りという伝統には
そもそもの意味合いを喪失しているものが少なくありません。
実際、すでに観光資源としての位置づけが全面化してしまい、
元々の信仰や歴史的意義からかけ離れて、
学術的な価値が見出されないと指摘されるものもあるくらいです。

文化の副次的な価値に注目せざるを得ない事情

とはいうものの、そもそもの起こりを大事にしたところで、
昔と今とではその価値が移り変わることもあるわけです。
農業技術が発達した現代において、
豊作祈願の”切迫さ”は弱まるのは至極当然のこと。
元来の目的をその祭りの価値として据え続けることは
時代を追うごとにその目的が失われるリスクに晒されるということです。

結果的に、経済効果やコミュニティの維持といった理由が
伝統や文化を残す意味の中心となっている傾向が見られます。
もちろん、文化そのものの本来の目的や意味とは異なる
副次的な効果も”価値”ではあるのですが。

そこばかり目を向けてしまうときに僕が危惧するのは、
伝統や文化が形骸化し、本来の意味が損なわれることです。
伝統が本来の意味を失うとき、蓄積された地域のアイデンティティもまた喪失される。

これが例えばキリスト教徒の宗教上の行事になると、
多少状況が違うように思えるんですよね。
彼らは副次的な効果もさることながら、
行事そのものの(宗教上の)意味を忠実に守っているように見えます。
(あくまで「見える」というだけですが)

「文化を守れ!」という掛け声は大きくなるばかりです。

なぜ守るのか、何を守るのか、どう守るのか。
(あるいは何を変えていくのか)

慎重な検討ができる素養を身に付け、地元に帰りたいものです。

関連する記事

いじめの構造(内藤朝雄):コミュニティの光と影【書評】(後編)

カテゴリ:読書の記録

前編はこちら

前編ではいじめのメカニズムについて整理しました。
これを踏まえつつ、後編ではいじめをどう排除するかをコミュニティの視点も加えながらまとめていきたいと思います。

学校という場に働く力学

まずは日夜(?)いじめが繰り広げられる日本の学校という環境に注目してみましょう。

日本は、学校が児童生徒の全生活を囲い込んで、いわば頭のてっぺんから爪先まで学校の色に染め上げようとする、学校共同体主義イデオロギーを採用している。
(中略)
若い人たちは、一日中ベタベタと共同生活することを強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ、さまざまな「かかわりあい」 を強制的に運命づけられる。これが自動車教習所とは異なる「学校らしさ」である。

※太字は引用者による

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

学校は我々にとってみれば当たり前の存在ですが、著者はその「学校らしさ」の正体を暴いていきます。
確かに、学校というものは子どもたちを同年代というだけで同じ施設の中で集団生活をせざるを得ない状況にいきなり追い込んでいます。
入学試験や面接などの選抜はありません。当然、生徒も誰と同じ学校に行くかは基本的に選択できません。

いわばランダムに集められた子どもたちが、突如として集団生活を強いられ、「仲良くする」ことを要求されるわけです。
学校内でのあらゆる生活活動は集団化されているため、”自分の運命がいつも「友だち」や「先生」の気分や政治的思惑によって左右される状態をもたらす”と著者は指摘します。

加えて、教員を中心に学校が聖域化しているのも問題です。
実社会では法の下に罰せられるような暴力があっても、司法の手が学校内に入ることを極端に嫌がり、身内だけで処理しようとする学校の体制も、いじめにとっては好都合というわけです。

群生秩序を衰退させる方法

周囲の影響を受けざるを得ない環境では、各自が身を守るために集団の論理が加速され、群生秩序が前面化し、ついには市民社会のジョーシキは通用しなくなる。
逆に言えば、周囲から受ける影響を個人の選択で回避できる状況をつくれば、群生秩序が育まれるリスクは下がる、ということ。

また、前編でも解説しましたが、いじめる側は利害関係に非常に敏感です。
自分たちが明らかな不利益を被ると分かれば、いじめは一旦は治まります。
特に暴力については司法に訴える姿勢を見せることで見事に止みます。

これらを踏まえて、著者は短期的な方策として以下の二点を提案しています。

1<学校の法化>
加害者が生徒である場合も教員である場合も等しく、暴力系のいじめに対しては学校内治外法権(聖域としての無法特権)を廃し、通常の市民社会と同じ基準で、法にゆだねる。そのうえで、加害者のメンバーシップを停止する。

2<学級制度の廃止>
コミュニケーション操作系のいじめに対しては学級制度を廃止する。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

は唐突な気もしますが、著者の意図するところは、濃密な小集団の中に人を押し込めることで、いじめが発生する確率が増幅することを危惧したものです。
学級制度を廃止することで、親密な人間関係を選択する可能性を拡大しようというわけですね。

自由な社会と透明な社会

中長期的な政策を検討する上で理想とする社会構想として、「自由な社会」を掲げています。
一方、その対称的な位置にあり、いじめを引き起こすのが「透明な社会」の働きです。

透明な社会では、何がよい生であり、何がよいきずなであるかが、ひとりひとりの幸福追求をとびこえて決めつけられる。「われわれ」にとってのよい生は、すべての人にとってのよい生でなければならない。
(中略)
学校は、制服を着せ、靴下の色や髪の長さまで強制し、運動場で「気をつけ」「前へならえ」をさせたりすることで、生徒を「生徒らしく」しようとする。その生徒の「生徒らしい」隷属のかたちによって、単なる学習サポート・サービスを提供するための組織の敷地に、聖なる「学校らしい」学校が顕現する。なぜ生徒が茶髪にしてはいけないのかというと、それは聖なる「学校らしさ」が壊れるからである。

※太字は引用者による。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

透明というと聞こえはよいですね。
が、構成員が各々監視しあうガラス張りの環境下にいる、と想像してみてください。
このような状況では、個人に対する”周囲の目”の影響力は大きなものになります。
そこには個人の自由はなく、ただ集団の論理のみが残るのです。

学校は透明な社会である、と著者は主張し、この透明な社会を打破する必要を説きます。

もっとも重要な方針は、個人に特定の生のスタイルを無理強いせずにはおれないゆがんだ情熱と、利害図式(特に権力図式)が、構造的に一致するチャンスをなくしていくことだ。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

 そのための具体的な枠組みとして提示されているのが以下の二点です。

①現在、人々を狭い閉鎖的な空間に囲い込んでいるさまざまな条件を変える。生活圏の規模と流動(可能)性を拡大する。
②公私の区別をはっきりさせ、客観的で普遍的なルールが力を持つようにする。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

これが「透明な社会」を廃し、「自由な社会」を築くための基礎の枠組みとなります。

コミュニティとの紐付け

集団の論理を強いる「透明な社会」と、個人の自由が保証される「自由な社会」。
この両者はそれぞれ農村型コミュニティ都市型コミュニティの特徴と一致しています。

端的にいえば、ここで「農村型コミュニティ」とは、”共同体に一体化する(ないし吸収される)個人”ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性を言う。これに対し「都市型コミュニティ」とは”独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」の著者・広井氏は農村型コミュニティと都市型コミュニティの両立が望ましいと主張します。
いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか」では「透明な社会」を排除するべき存在としていますが、都市型コミュニティは個人と個人のつながりをベースにしている以上、関係性構築が個人に依拠するリスクがあります。
「透明な社会」を「自由な社会」で代替する上では、「自由な社会」では実現できないことについても論ずる必要がありそうです。

「透明な社会」は「農村型コミュニティ」と特徴を同じくするとは言いましたが、「透明な社会」の条件についてもう少し細かく見るべきですね。
情緒的・非言語的なつながりは、時には田舎のおっちゃん・おばちゃんとの会話のようにどこか安心感をもたらすものであり、「透明な社会」の負の面はここには見られません。
ここを詳しく区別することで、「農村型コミュニティ」が牙をむく条件を整理することができそうです。

コミュニティの光と影

「コミュニティ」という言葉を最近至るところで耳にしますが、いじめが発生するような「透明な社会」も広義にはコミュニティです。

人が集まるところには、必ず光と影があります。
田舎のコミュニティは都会の生活にはない親密さ、温かさを持ちうる一方で、閉鎖的であり、異物を排除しようとする力が働けば簡単に人を傷つけることができます。
日本でも「津山三十人殺し」という悲惨な事件が起こりました。これも家族、そして農村というコミュニティが牙をむいた結果の悲劇です。

人とのつながりがあることで僕らが生きていられる、というのもまた事実。
コミュニティというものをあらゆる角度から見つめなおすことで、21世紀以降の新しい社会を描くヒントを得られる、そう思います。

今回は「いじめ」という問題が主題でしたが、これは日本に限ったものではありません。
コミュニティが諸条件を満たすことで、人をモンスターに変える力を持つ。
その事実に目を向けることで、人とのよりよいつながりを築くことのできる環境作りにようやく着手できるのではないでしょうか。

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