Tag Archive: アイデンティティ

「主体的」な行動をつくりだす唯一のポイント-《他者》

カテゴリ:自分事

主体性、あるいは主体的であることが求められる時代。

しかし、言葉だけが独り歩きしている感を受けることも少なくありません。
たとえば、「それは積極性と何が違うの?」と突っ込みを入れたくなるような。

教育の現場においても、主体性を意識しない日はありません。
悪名高い「ゆとり教育」も、その一つの目的は「生徒の主体性の獲得」にありました。
ところが、「ゆとり」という言葉はむしろ主体性の欠いている若者をイメージさせます。

「ゆとり」の矛盾は、「主体性とは何か」というそもそもが議論されていないために生じています。
「他者」を発見する国語の授業」にそのヒントを求めてみたいと思います。

※そもそも論になるため、長文です。

で、主体性って何よ?

そもそも「主体的である」状態はどうやってつくられるのでしょうか。

真に「主体的」とは、人間の新しいよみがえりの過程において、きびしく自己批判・自己変革する主体のあり方のことであろう。(略)
それを可能にするのが、自己相対化の目である。私は、そのような目を獲得するためにもっとも重要かつ有効な働きをするのが、他者理解の行為だと考えている。
では、他者理解とは何か。それは他者の文脈に沿って、自己の視座を転換し、そこに展開する論理を正確に受け止めたり、イメージを豊かに思いえがいたりすることによって、成り立つものである。(略)
主体とは、ア=プリオリに存在するものではなく、他者とのかかわりの中で、常に生成・変革するものである。
(以上、田近洵一『言語行動主体の形成』より引用)

このように、「主体」とは、他者との関わりにおいてはじめて存立可能なものであり、したがって「主体性」もまた「他者性」との関わりにおいてはじめて確保しうるものと考えるべきであろう。

「他者」を発見する国語の授業

「主体」とは「他者理解」、つまり「他者」を「私」の理解の仕方、慣習ではなく、「他者」その人の様式で以って「他者」を理解しようとすることの繰り返しで形成されるものです。
「他者」とは「私」によって”都合よく”理解されるものではなく、むしろ「私」とは備わっている文脈が全く異なるものを指します。
ここでは単なる「会話の相手」と「他者」が用語として区別されていることに注意が必要です。

「主体性」は「他者性」によって形作られるものである。では「主体性」とはどのようなあり方を指すのでしょうか。

自然発生性そのものは、まだ対象変革の主体成立を約束するものではないのであって、状況によって強いられる絶望、その絶望を生み出す世界と自分との関連を根底的に対象化する認識は、その端初の形態としてはその状況の直接的制約の外にあるもの、そうした直接性に対して一定の距離設定が可能な視点に成立する。(略)自然発生性そのものは、どんな段階にあろうと、階級的主体性を成立させる意識性ではない。それは依然として主観性にとどまる。
(以上、梅本克己「主体性の問題」『岩波講座哲学Ⅲ 人間の哲学』より引用)

つまり、「主体性」とは、世界と自分との間に形作られる状況を、「一定の距離設定」をして「対象化」する「意識」に支えられている。これに対し、「自然発生」的で状況との距離設定がなされない「直接性」のもとでは、行為は「主観的」なものにとどまる、というわけである。

「他者」を発見する国語の授業

この「主体性」/「主観性」の定義に従えば、「積極性」と「主体性」が必ずしもイコールでないことがわかります。
たとえば「だめなものはだめ」と言い張るような人たち。これでは「一定の距離設定」がうまくいっているとは言えません。
「やらざるをえないからやる」という「自然発生的」な行為もまた「主観的」な行為の範疇になります。

「一定の距離設定」のもとに状況を「対象化」する「意識」と「主体性」はどう関係するのでしょうか。

それは具体的には、社会学者の大澤真幸が指摘する「二重の水準」における「選択」を可能にする意識と同質のものであろうと思われる。氏によれば、ある行為が「主体的」だと感じられるのは、次のような場合であると言う。すなわち、ある行為を遂行しようとする場合、まず「何のために」という価値や目的のレベルにおいて「選択」が行われ、次いでその実現のための具体的な手段・方法のレベルにおいて「選択」が行われる。そしてこの「二重の水準」における「選択」がその行為者個人に帰せられるというような場合、その行為は「主体的」だと見なされる。簡単に言えば、目的と手段の「選択」が行為者主体の判断に基づく場合、それは「主体的」な行為と見なされる、というのである。
これを先の梅本の論と重ね合わせるならば、状況と「一定の距離」をとって、それを「対象化」しえたとき、主体は「意識的」に目的と手段とを「選択」することが可能になる。そういう状態を「主体的」と呼称し、もし、状況との距離がとれず「直接的」である場合、主体には「意識的」な「選択」は不可能で、そういう状態を「主観的」と呼ぶ。

「他者」を発見する国語の授業

「主体的」とはある主体が「意識的」に目的と手段とを「選択」できている状態を指します。
つまり、主体的な行為者の前には、目的と手段のニ領域において常に選択肢(オルタナティブ)があるということです。
盲目的に「脱原発」「反原発」を主張する方々はこの意味において「主観的」であり、彼らには見えていないものがあるのです。

すなわち、ある主体が「主体的」にある行為を「選択」するということは、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が可能性として「意識」されていなければならない。

「他者」を発見する国語の授業

ここにおいて「主体性」と「他者性」の関わりが露になります。
“「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」”を「意識」するためには、先に引用した「他者理解」の行為が不可欠だということです。

よくよく考えてみると、これは当たり前の話です。
世界が「私」の中で閉じている限りは、行為の際に「別の選択肢」を考慮することは実現しえません。
「私」の外側にある異質なものを認識できない「主体」が、「他者」のとりうる「選択」を想像できるわけがないからです。

主体的に行動するために:「他者」と関わろう

さて、これまでの話を整理すると、

・「主体的」な行為とは、目的と手段の両方の「選択」が行為者主体である場合を指す
・目的と手段を「選択」するためには、自身が置かれた状況と「一定の距離設定」をする必要がある
・状況と「距離設定」ができるためには、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が「意識」されなければならない
・「他者」による「別の選択肢」を「意識」するためには、他者との関わりが不可欠である

ということになります。

したがって、「主体性」を獲得するためには「他者」との関わりの中で自己を相対化する「目」を養うことが第一です。
それには「他者」とは何か、単なる会話の相手とはどう異なるのかを整理する必要があります。

柄谷は、ウィトゲンシュタイン後期の「言語ゲーム」論とクリプキによるウィトゲンシュタインの読みに触発されながら、「他者」についてこう論じている。
「《他者》とは、言語ゲーム(規則)を異にする者のこと」である。あるいは、他者とは「共同体」を異にする者と言うこともできる。この共同体という言葉を「共同性」と見なせば、「共同体は、いたるところに、多種多様になり、《他者》もまたいたるところに出現する」ことになる。一方、「私」をベースにして想定しうるような存在は「他者」ではない。それは「自己の『自己移入』であり『自我の変様態』なのであって、他者性を持っていない」。そしてこの他者性と向かい合うとき、「共同の規則なるものの危うさが露出する」。そういう「他者との対話だけが、対話と呼ばれるべきである」。

「他者」を発見する国語の授業

「他者性」とは、「私」が属している何らかのルールや規則に基づいて理解しようとしても理解できない(排除される)ものだと言うことができます。

高校生と接していると、彼らの友人関係は非常に固定的であることに気づかされます。
これは例え話ですが、高校でいじられキャラが定着している生徒は、同じ友人たちと関わっている限り、どこに行ってもいじられキャラです。
どうも、彼らの中では「A君=いじられキャラ」、あるいは「○○するやつはいじられるべきだ」という”ルール”が暗黙の了解になっているようです。
このルールに縛られた「共同体」の中では、「A君=いじられキャラ」以外の図式は基本的に無視される運命にあります。
そのため、友人たちの前でA君が何をしても、彼はいじられる対象として理解され、彼の異質な(意外性のある)キャラクターに注目が集まることはありません。
この意外性との遭遇こそが、《他者》との出会いであるのに。

受け手を「他者」と考えるとき、そこでは、「私」とは異質な受け手の知識や欲求、あるいは彼が生を営む文脈などを様々に推し量ることを避けて通れなくなる。したがってまた「対話」ということにおいても、その形ではなく、中身こそが問われるようになるはずである。このように「他者」という認識は、私たちに言葉の使用をより自覚的な行為へと高める効果をもたらす。

「他者」を発見する国語の授業

《他者》を認識できないのは、固定的なものの見方に捉われているからです。
もっと言えば、「私」に縛られている、と言うべきでしょうか。
あらゆる他人を(そして自分までをも)「私」の知りうる言語ルールだけで理解しようとする限り、《他者》との出会いが訪れることはありません。
「私」が理解できないものにこそ《他者》が潜む。
これを認めない限り、「主体的」にはなれないのです。

本書ではさらに、《他者》という存在の価値の射程を「創造性」にまで広げて議論しています。
「私」の「主体性」を生成・変容させる《他者》、これを認識することの重要性は無視できるものではないでしょう。

まとめ

「主体性」の獲得に求められるのは、「私」の中に収まる限りでなく、むしろ「私」の範疇を超えていく必要があることをここまで述べてきました。

「主体的」に行為していくためには?

この答えは、ただ一つ。《他者》-「私」の中のルールが排除しようとする者-を意識すること。
自らの枠組みでは捉えようのないものに目を向け、《他者》の文脈に沿って理解しようとする姿勢が求められるのです。

したがって「主体性」はある時点で完成するものでなく、「他者理解」の積み重ねで蓄積され、あるいは大きく変容させられうるものと言えます。
それは計画性とは無縁で、ときには「私」の意志に反する場合すらありえます。
《他者》との出会いの体験がどう自分をつくりあげていくのか。
私たちは、その終わりなき過程を楽しむべきなのかもしれません。

関連する記事

2012年 読んでおいてよかった本のまとめ

カテゴリ:読書の記録

2011年に比べ、2012年の読書量はだいぶ減ってしまいました。
Amazonの購入履歴やWeb本棚を見る限りでは、今年読んだ本の数は20冊ちょっと。

それでも、数少ない中で気に入った本がいろいろありましたので、5冊ほど時系列でまとめてみます。
堅い本が多いですが、じっくり読むだけ印象に残っているようです。

来年はもう少し読書量を増やしたいところですね。

1.現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

日本の社会学者では高名と聞く著者による一冊。
年末年始の帰省の際に実家の本棚を漁っていたところ発見しました。
どうも兄が購入していたもののようですね。

これが非常に面白い。
小室直樹氏の書籍を読んで市場原理というものに興味を持つようになりましたが、本書も社会学のアプローチで「情報化/消費化社会」を切り取ろうとするものであり、似たような興奮を覚えながら読むことができました。

まだ内容を咀嚼できていませんが、21世紀のあるべき姿を考える上で「資本主義からの脱却」という言葉の安易さに怪しみを覚えていた身として、本書の指摘にこそ希望があるように思えます。
どう見ても大きな流れとしてグローバル化と資本主義が浸透しているのですから、そこから目を背けるわけにはいきません。
資本主義は欠陥のある不完全なものなのか、それとも何らかの妨害があって未だ完全に機能していないものなのか。
まずはその点を整理することで、大きな方針が見えてくるのではないでしょうか。

2.ヤノマミ

ヤノマミ、それは人間という意味だ。ヤノマミはアマゾン最深部で独自の文化と風習を一万年以上守り続ける民族。シャーマンの祈祷、放埓な性、狩りへの帯同、衝撃的な出産シーン。150日に及んだ同居生活は、正に打ちのめされる体験の連続。「人間」とは何か、「文明」とは何か。我々の価値観を揺るがす剥き出しの生と死を綴ったルポルタージュ。

Amazon.co.jp: ヤノマミ: 国分 拓: 本

実際にアマゾンの奥地で暮らす民族「ヤノマミ」を追ったノンフィクション。

グローバル化が進み、「地球人としての倫理」と呼ぶべきものまでが少しずつ僕たちの生活になじんできている昨今。
僕たちが「理性的」と思っている価値観とは、全く異なる”倫理”に従う人たちの暮らしが問いかけるもの。

ヤノマミの営みを通して、僕らの当たり前をもう一度疑う。
正しい・正しくないの一元論に区別できない混沌の中に身を投じることで、「何か」が確実に僕たちの心に刻まれる。
これまで生きてきた中でも相当に不思議な読書体験となりました。

なお、著者はもともとNHKのドキュメンタリーの取材・撮影が目的でした。
その映像作品もDVDとして販売されていますが、こちらも非常におすすめです。
書籍の方も、映像では表現できない部分がまざまざと記述されています。

表現力が乏しくて恐縮ですが、とにかくすごい!の一言です。

3.日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

地元の歴史を調べるにつけ、日本史自体を学びたいと感じ、手に取った一冊。
Amazonの評価も相当高いものでしたが、高校で日本史をろくに学ばなかった私でも非常に面白く読めました。

表題に「よみなおす」とあるとおり、「日本史のジョーシキ」をひとつひとつ丁寧に整理しているのが本書です。
日本は古くから本当に農民が大多数を占めていたのか。船を用いた交流がどれだけ行われていたのか。
「士農工商」とあるように、商工業者の社会的地位が低いのはなぜか。
目からウロコとはまさにこのことで、本書を読むだけで日本史の捉え方が変わってくるように思います。

なお、著者はこれとは別に「日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)」をはじめとする「日本社会の歴史」シリーズを上中下巻で発表しており、こちらは時系列で日本史を追うことができます。
私は古代に特に関心を持っていたので中巻の途中で挫折していますが、日本史を一度学んだことがあるなら苦もなく読み薦められると思います。
こちらも併せておすすめです。

4.「他者」を発見する国語の授業 (大修館国語教育ライブラリー)

池袋のジュンク堂書店で購入。
国語の関連本は、近年話題になっている論理的思考力とかPISA型学力とか、そういった流行を追っている書籍が多かった中、異彩を放っていたのが本書でした。

個人的にも「言語化」という切り口で、あるいは「農村型/都市型コミュニティ」という切り口で、個人が自立し、個人と個人とで関係性を築く方法を模索しているところで、大当たりの本でした。

そもそも本というのは読み方が人それぞれ異なるものです。
そこに「他者」に触れる機会を見出すというのは至極真っ当な発想でしょう。
ところが、国語の授業の現場ではその点は軽視されている印象があります。

入試においては採点の問題から唯一の解が設定されますが、これは客観的な読みを前提として成り立っています。
これはこれで論理的に詰める力を問うものとして一定の意義がありますが、授業としての国語はもう少し可能性があっていいかもしれません。

「私」を意識するのは「私でない人たち」との出会いがその契機になるように思います。
「私」と「他者」が触れ合うことで順次境界線が引かれ、ある部分では交わったり、ある部分では対極をなす。
この繰り返しで「個人」が自覚されるというのは、「言語化」の力を鍛える上で僕自身が重要視している点と一致します。

もっと深く読み込んだ上で、来年の早いうちに書評記事を掲載できればと思っております。

5.日本文化の形成 (講談社学術文庫)

「蝦夷」とは何かを自分なりに調べる上で、一番に手にとったのが本書。
ここには宮本常一氏の真摯さと幅広い知識とが凝縮されているように感じました。

蝦夷の話についてはすでに書いた記事を見ていただくとして

僕が個人的に感銘を受けたのは、この論を書き上げた著者の力量です。
僕自身、さまざまな本を通して知識がつながり、よりいっそう理解が深められ、自分の問題意識が明確されるという経験がよくあります。
宮本常一氏のすごさはその膨大な知識量と積み重ねられたフィールドワークの知見にあります。
知識を持つだけでなく、かといって知識を軽視しない。
前提知識があるからこそ現場で得る情報量は尋常ではなく、さらにそこからアブダクションにつなげることができる。
僕自身も地元の歴史を探究していく上でも、日ごろの読書活動においても、このスタンスをとっていきたいと感じました。

「知識の蓄積はデータベースがしてくれる、人間は検索できればよい」
そんな風潮もありますが、知識と知識をつなげる根本は人間が担うものです。
それすらもコンピュータに取って代わられるのかもしれませんが、僕は人間だからできること、その能力をもっと伸ばしていきたい。
本書はそんな僕の背中を押してくれたように思います。

 

関連する記事

セルフブランディング(笑)でメッキを借りる痛い人たち

カテゴリ:世の中の事

「面白い人に会いたい」と言う人が増えるのは「良いこと」

面白い人に会いたいと言っている人は、あなたがバカにしている“合コンで出会いを求めて参加する男女”と同レベルである。

 

そして、「面白い人に会いたい」とか言って会われているうちは、自分はその程度の人間にしか会いたいと言ってもらえないほどにコンテンツの不足した、面白みのない人間だということを肝に命じなければいけない。自分に寄ってくる人は、自分の鏡だから。

もしくは「そんな理由で会われて喜ぶ、なんか可愛い女の子」だと思われて、見くびられている証拠だ。

「面白い人に会いたい」と言って会いに来る人には「死ね、クズ」と思っている | None.

盛り上がっているこの記事ですが、こういう話題が出てくること自体は個人的に”いい傾向“だと思います。

まず、「面白い人に会いたい」という発想は、既存の人間関係の外を向いている人たちからしか出てこないものです。
“相手の話を引き出す「問い」がなんにもない”(質の低い)人が紛れてくるということは、外向きの志向を持つ人が増えた=裾野が広がったということ。
“ウィークタイ”など興味・関心をベースにした弱いつながりの”強さ”に注目が集まっていることなどを考慮すれば、この傾向自体は歓迎すべきものと言えるでしょう。

ですからこういう輩を排除することを急ぐべきではない、と考えます。今はまだ過渡期なのです。
一線で活躍している人たちの貴重な時間と精神の安定を確保するためにも、今後少しずつ修正を入れていく、くらいが適切なスタンスでしょう。

「会われ」る側が悪い、とはあんまり思いませんが。

「面白い人に会いたい」のはなぜか

面白い人や変な人に会いたい、とか言っている人に限って

「自分も変人だ」

と思っていて、

「自分はあなたの魅力が分かる人間だ(だからオレは偉い)」

と、自分を肯定して安心したいがため、「オレってイケてる」を確認するために来ている。

「面白い人に会いたい」と言って会いに来る人には「死ね、クズ」と思っている | None.

この記事で言及されているような「面白い人に会いたい」人の目的は、 一言で言えば「自己満足」でしょう。
個人的な経験も踏まえると、この「自己満足」は「セルフブランディング」の欲求と強く結びついている、と感じています。

最近ではソーシャルメディアの普及も相まって、あるテーマや話題の中心(あるいは先端)にいる人物が容易に可視化されるようになりました。
そして、誰とつながるべきかがとても分かりやすくなっており、かつつながりたい人と容易にコンタクトをとれるようになってきています。
ある界隈の中心人物とつながることで、その界隈での自分の評価を押し上げるという効果を狙いやすい状況にある、と言うことです。

「あ、その人知ってるよ」「一度会ったことがある」

この事実が個人の内実をどれほど的確に表せるかというと疑問は当然ありますが、少なくともそう言えてしまうことで「顔が広い」とか「人脈がある」「そういう分野に関心がある」ということのアピール材料として使えます。

逆に言えば、自分の内実は棚に上げながらとりあえず人に会いまくれば、それだけでセルフブランディング(笑)になりえる、ということ。
会うことで何を学んだのか、相手からどう思われたのか、そんなことは無視してしまっても、「あの人に会った」ことを「自己満足」で終わらせることができるのです。

「あー、そういうやついるいる」と思っていただけると幸いです。
と同時に、僕自身そう見えていないか気をつけないといけないなと思います。自戒を込めて(死語)。

他所からメッキを拝借してしまう人たちのこと

「自分はこうしたい」というエゴが原点なのに、「地域の課題だから」「人々が求めていることだから」というすり替えが行われる。
どこか地に足の着かない印象を受けたら、まずここを疑うようにしていますが、結構当てはまっているように思います。

(中略)

中身は「こうしたい」だけなのに、社会の課題解決の話として体裁を整える。
個人的に、これは本当に止めて欲しい。
自分のエゴを社会貢献にすり替えるという態度がそもそも僕はキライだし、そうして求められていない「良さげなこと」が世に出ることで余計な不和が起こりえます。
主体の頭の中もすり替わっているので、きっと地域や現場を好き勝手にかき乱していることに気づくこともできません。

社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

「セルフブランディング(笑)」な人たちって、二言目には「社会貢献したい」と胸を張る大学生と似ているな、と思います。
他所からの借り物だけでポジショニングを試みる姿勢は、見ていて気持ちが良くないのは確かです。

海士町に住んでいるといつも思わされることですが、

お前は本気なのか?

問われているのはたったこれだけなんじゃないかと思います。
この問いに答えられないがために借り物競争に走る。これはひどく滑稽に見えるかもしれません。

とはいえ、これも過渡期ならではの現象であり、仕方の無いことと捉えるべき、とも思います。

“○○がしたい”って簡単に言っちゃいけないんですね。

ワカモノの不安と大量生産・大量消費される価値観 | 秋田で幸せな暮らしを考える

 「やりたいことがない」と嘆く若者はたくさんいますし、それに対して批判的な声も多い。
ところが世の中は変わってきました。「社会貢献」が注目されるようになって来たのです。
ここに「やりたいことがない」若者がたくさん飛びついた。僕は最近の”ブーム”をそんなふうに見ています。

これは間違いなく「良いこと」です。社会貢献にかかわる人が増えるわけですから。
しかし、単なる”ブーム”で終わらないかという不安もまたあります。
社会貢献は世の中的に「良いこと」とされています。この”世の中的に”が曲者です。
巷の若者の社会貢献への姿勢も、「メディアで話題になっているから」「みんな良いといっているから」という”みんな志向”と変わらないんじゃないか、そう思うときがあります。

とりあえずボランティアをやってみる。
「すごいね」「えらいね」とみんなが言ってくれる。
それで自分は正しい方向を向いていると安心できる。

内実を問われることに対する恐れが、メッキを他所から拝借する行為を生む
つまり、「自己防衛反応」と僕は捉えています。
なかなか根の深い問題だな、と感慨深くなる次第であります。

関連する記事