Tag Archive: アイデンティティ

いじめの構造(内藤朝雄):コミュニティの光と影【書評】(前編)

カテゴリ:読書の記録

大津市の中学校でのいじめが騒がれていますね。

個人的には、いじめの問題を「コミュニティ」の働きとして捉えることができないかと考えています。
参考のために、Amazonでも評判の良かった『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか』内藤朝雄著を読んでみました。

「コミュニティ」の問題としていじめを捉えていた僕にとっては当たりの一冊。
全7章ですが、特に後半の5~7章を中心に引用しながら、著者の主張を「コミュニティ」の面から整理してみます。

が、まとめると長くなったので、とりあえず1章~4章をまとめた前編をば。

いじめと秩序

人権派のジャーナリスト青木悦は、地元の中学校で浮浪者襲撃事件について講演した。大人たちが「人を殺したという現実感が希薄になっている」といったことを話しているとき、中学生たちは反感でいっぱいになった。ほとんどの生徒たちは挑発的な表情で、上目づかいににらんでいる。
突然女生徒が立ち上がり「遊んだだけよ」と強く、はっきり言った。まわりの中学生たちもうなずく。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

人を殺めてはいけないという普遍的な論理に対し、異常とも言える生徒の反応。
著者はこの異常性を、市民社会を取り巻く普遍的な秩序と、学校社会にはこびる秩序を区別することで説明を試みます。
いじめを引き起こし、人間を怪物にさせる力を持つ秩序を、本書では「群生秩序」としています。

“「いま・ここ」のノリをみんなで共に生きるかたちが、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠店になるタイプの秩序”

これが群生秩序です。
群生秩序が普遍的な秩序よりも優先される ことにより、過剰な暴力や残虐な行為を伴ういじめが引き起こされるのです。

群生秩序が優勢となる有様を、著者は「寄生虫」の例えで説明しています。
群生秩序がはこびる社会が生徒の内面に侵入し、生徒が市民社会の秩序の下に振舞うことを許さず、群れの論理に従わせる。
このようなとらえ方から、著者のスタンスが見え隠れしますね。
いじめは人間自身が深く内面に持ち合わせた残虐性によるものではなく、一定の環境下で群生秩序に毒され、普遍的なルールが一切優先されない状態に陥ることで引き起こされるものであるわけです。
つまり、いじめは人間そのものの問題ではなく、人間を取り巻く環境(と秩序)に左右される、ということです。

なぜいじめるのか

さて、いじめる側は何を求めているのでしょうか。
言い換えれば、何がいじめる側の”メリット”なのでしょうか。

著者はこれは「全能感」という言葉で説明しています。
「むかつく」という不全感を「何でもできる」全能感で埋める。この終わりなきサイクルがいじめの原動力になっています。
また、権力もまた全能感につながります。集団の上位に立ち、群れをコントロールすることで得られる全能感から、群生秩序においてはスクールカーストのような権力の図式がよく登場し増す。

しかしながら、いじめる側も無闇に全能感を得ようとするわけではありません。
自分に不利な状況(これ以上やると警察に捕まる等)と判断した途端、いじめは一旦は止みます。
狡猾に利害計算をしているわけですね。

つまり、いじめる側が全能感を得ようとする行為(暴力、いたずら等)を制限するものがなければ、無限に全能感を得られるわけですから、いじめは際限なく(最悪、相手が死ぬまで)続きます。
また、この利害計算を骨格とし、自分がいじめる側に回り、いじめられる側にならないように振舞うべく、権力が形作られます。

後編に向けて

本当はいっしょにいたくない迫害的な「友だち」や「先生」と終日ベタベタしながら共同生活をおくらなければならないという条件に、さまざまな強制的学校行事が重なる。さらに暴力に対して司直の手が入らぬ無法状態であるということが、(中略)集団心理-利害闘争の政治空間がはびこる好条件を提供している。
逆に、このような観点から群生秩序を衰退させようと計画された制度改革は、若い人々の生活の質(Quolity of Life)を著しく向上させるだろう。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

これまでに述べた、「群生秩序」に基づいたいじめを促進するのが現行の学校制度である、と著者は続けます。
第5章~第7章では、学校制度の及ぼす影響を洗い出しつつ、学校制度、そして社会そのもののあるべき姿を描き出します。

重要なのは、「群生秩序」は特定の環境下でもたらされるものであり、その環境を変えればいじめは減らせる、という点です。
これについては後編で「コミュニティ」についても絡めながらまとめていく予定です。

関連する記事

地域のアイデンティティを問うことの可能性-地域のこれからを考えるために

カテゴリ:自分事

21世紀に地域の歴史を振り返るということ

先日のエントリーでは地元・神宮寺の歴史について触りの部分をまとめてみました。

そもそものモチベーションは、僕自身が地元のことをろくに知らなかった点にあります。
この世に生を受けてからの18年間を神宮寺で過ごし、それなのに僕が地元について知っているのはほんのわずかばかり。

神宮寺という地にどのように人が集い、自然と関わりながら暮らしをつくりあげ、歴史を積み重ねていったのか。

蓄積された人の営みと時間とを基礎として神宮寺という町は存在しています。
神宮寺という町が今、あの場所に存在するということそれ自体に、長い時間をかけて醸成されてきた意味がある、そう思うのです。

地域を20世紀の指標で評価する限界

一方で、現在の神宮寺を見つめるだけでは地域のアイデンティティに迫りきれないという事情もあります。
今一般的に地域を評価する基準と言うのは、観光地や特産品だったり、何らかの話題性があったり、コンビニがあるとか利便性の問題だったり。
残念ながら、既存の視点では(他の多くの田舎がそうであるように)神宮寺は必ずしも良い評価を得ることはできないでしょう。
地域の歴史もまた評価の対象となりえますが、それは観光客向けに分かりやすくまとめられているなど、表にでているものに限られます。
(僕も、先日のエントリーをまとめながらようやく神宮寺という地域に刻まれた歴史に触れられた感があります)

神宮寺をはじめ、日本の地方・地域を見つめなおす作業を進める際に立ちはだかるのが、この評価基準ではないでしょうか。
経済性を重視することは今にはじまったことではないですが、地域資源の有無といった目に見える指標が支配的になったのは、20世紀に入ってからではないかと感じます。
実際、日本の多くの田舎に住む人たちは「おらほの町には何もない」と嘆いています。
そこに町が存在するということは、それだけで歴史の蓄積の賜物であるはずなのに。

経済合理性の名の下に役割を強いられた20世紀の地方

20世紀、地域はそれまで培ってきたアイデンティティによってではなく、経済的機能のみによって役割分担を強いられてきたと思います。

それによって地方は都市への人材や資源の供給源としての機能が強化されました。
一定期間そのシステムは順調に回っていましたが、現在は限界を迎えつつあり、都市/地方の格差が問題化するようになった、というのが多くの人の共通認識としてあります。

20世紀のシステムの限界を克服し、21世紀以降のあるべき姿を描くことが今まさに要求されていることです。
しかしながら現在中心的な位置を占める「地域活性化」の文脈は、都市/地方の対比から、つまり20世紀になってこしらえられた評価基準から、脱却できずにいるように見受けられます。

歴史の蓄積すらも単純な経済性で評価した20世紀のあり方は、これ以上日本の地方を幸せにする方向へ作用することはないでしょう。
ましてや、その指標を用いてこれからの地域のあり方を考える自体、無理があると言わざるを得ません。

「じゃあ、どうすればあるべき姿を描けるの?」
僕は、事を急ぐ前に、もう少しこの問いに向き合う時間が欲しい。

地域の流れ着いた姿に、そのアイデンティティを問う

先ほど、「現在の神宮寺を見つめるだけでは地域のアイデンティティに迫りきれない」と書きました。
今僕らの目の前にあるものの多くは20世紀(あるいは21世紀初頭)に秩序なく半ば機械的につくられたものであり、評価に値しなかった地方の負の遺産がどうしても鼻につきます。

ネガティブな情報に捉われず、これからの地域のあり方を問うために、どのような可能性があるでしょうか。

一つは、僕が先日のエントリーで示したように、時間とともに醸成された地域のアイデンティティを掘り起こすという作業です。

僕の地元・神宮寺はある日突然町として機能するようになったわけではもちろんありません。
仙北平野への入り口に位置したこと、保呂羽山への通過点となっていたこと、雄物川と玉川の合流地点であること、そこに神宮寺嶽があったこと。
神宮寺が、今あの場所にあるということの必然は、これでもまだ語りつくせないでしょう。

人が根付き、信仰が生まれ、暮らしを営み、町がつくられる。
歴史の堆積に委ねられ形作られたものは、目には見えずとも、町のアイデンティティとして埋め込まれているのではないでしょうか。

ちょうど川の流れによって少しずつ川原の石が丸く削られていくように、町も時間の流れによって”自然に”その土地に合った形を持つようになったとしたら。
積み重ねられた時間を無視してきた20世紀以前の町の歴史を振り返ることで、その土地にぴったりとフィットする、地域のあるべき姿のヒントを見出すことができるのではないでしょうか。

そんなささやかな可能性にわくわくしている、今日この頃です。

関連する記事

大量生産/大量消費される価値観と若者の不安

カテゴリ:世の中の事

この記事を読んでから、ちょくちょく考えていたこと。

うまく表現できないのですが(この数日、そのうまい表現を探っているのですが、いまだに見つかりません)、今回の震災で失われたのは、何も人の命や物理的な財産だけでなく、これまで僕らが当たり前だと感じていた価値観、考え方そのものではないかと感じています。 そうであれば、これまで同様の使い古しの価値観によって「上皮だけの愚にもつかない」復興を目指すのではなく、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければ」本当の復興はあり得ないのではないか、という気がするのです。 そのためにも僕らはいま、安易に身近なものにしがみつくことなく、堕ちなくてはいけないのではないでしょうか?

堕落論/坂口安吾:DESIGN IT! w/LOVE

あの震災直後から、Twitterの中で”良しとされる価値観”があれこれと変わる様を見てきたように思います。
そのせわしない変化は、「堕ちる」ことを恐れる僕ら自身の必死さの表れかもしれません。

堕落する/しない

「堕落する」とは、どういうことでしょうか。
僕は、これまでの価値観やこれまで自分が積み上げてきた考え方が揺さぶられ、壊された後で、 過去の瓦礫や現在から調達した資材を用いて新たな価値観という足場を構築する作業ではないかと考えます(構築の作業までは含まないかもしれませんが)。
一方「堕落しない」とは、これまでの価値観という足場が壊された後で、 堕ちないようにすぐさま別の”既存の”価値観に飛び移る行為に似ています(マリオが、ひとたび乗ると落ちてしまう飛び飛びの足場を次々とジャンプしていくようなイメージ)。
これらの表現は矮小化されたものかもしれませんが、恐れずこのまま進めます。

Twitterなんか見てると感じることだけど、価値観とかマジョリティが即座に変わる中で、自身の変化の中に自分なりの連続性を保つことは難しいし、辛いことだと思う。その作業を怠るなというのが「堕落論 http://amzn.to/eXbUbc」に書いてあることじゃないか。未読だけど。
@kamioka
Yushi Akimoto

「堕落する」ことは、難しい。というか辛い。
これまでの価値観という足場がなくなる不安に耐え、 資材を調達し、新しい足場を構築するまで堕ち続ける恐怖に耐えなければいけません。
これらの不安、恐怖を抑え、たった一人で構築作業に勤しまねばなりません。

Twitterの怖さ

震災直後からのTwitterを巡る「多数派」の移り変わりの目まぐるしさといったら。
あまり一般的ではなかった公式RTの奨励運動や「不謹慎」、「自粛」を巡る言説。
3/23の夕方ごろには「検出」がバズっていたが、震災直後ではありえなかった光景でした。

一連の移り変わりに、Twitterの伝播力が寄与していることはたぶん間違いありません。
「いい意見」はあっという間にRTされ、震災中のツイートはある程度自治的に制限がされていました。
安易に正義感ぶる人たちが湧いてきたのにはうんざりすることもありましたが(だったら普段からそういう発言しろよと率直に思います)。

価値観や言説の移り変わりのメカニズム自体にはあまり興味はありません。
しかし、僕を含め多くの人がTwitterの大きな流れの中で自分のポジションを適宜調整していたように思います。
一方、その裏側で、誰もがこの震災によって何らかの精神的な揺さぶりを被っています。
実際の震度以上に激しい揺れにより、多くの人が一旦足場を壊されてしまったのではないでしょうか。

これまでの価値観を瞬時に破壊された僕らに新しい足場を提供してくれたのが、Twitterでした。
Twitterの言説の移り変わりは、新しい足場に次々飛び移る僕らの姿を想起させます。
僕らは、ソーシャルウェブが張り巡らす糸のおかげで「堕落しない」ことを選択できた、ということです。
TwitterやFacebookに感謝し、日本への祈りに新たな時代の到来を感じた人も少なくないかもしれません。

それこそがTwitterの怖さではないか、と最近思うようになりました。

「不謹慎」とか「自粛」とか各自が言いたい放題なTLに少し幻滅したところで、 僕は地震に関連する情報をTwitterで集めることを一旦やめました。
そろそろ、自分のスタンスを確認する頃合いではないか、と感じたから。

“価値観”が大量生産・大量消費される時代

先日、2週間の短期インターンで島を訪れていた6名の学生が実習を終え、島を離れました。
彼らのうち何人かは、「もやもやしている」と言い残したのが印象的です。

それは、研修が失敗だった、ということではもちろんありません。
彼らも特に後悔しているというわけではないのです。そこに気付きがあったからこそでしょう。

島に来た学生さんとの対話の中で、彼らが既存の価値観に囚われ、「なぜそれを選んだのか」を言語化できていないように感じたし、本人たちもそう口にしていた。今、若者はそういう時代に生きているのだと思う。僕自身もそう。
@kamioka
Yushi Akimoto

彼らはたぶん自分たちの足場が不連続であることに直面したんじゃないでしょうか。
島の人たちは、純粋な好奇心から「なんで海士に来たの?」と彼らに質問します。
海士町で受けた刺激、そこに生きる多種多様な人たちの多種多様な価値観に触れ、 徐々に揺さぶられた彼らの足場に対し、「なんで?」という言葉が追い討ちを掛けていきます。

“○○がしたい”って簡単に言っちゃいけないんですね。

あるインターン生は、こんなことを言っていました。
興味を持つことと、実際にそれに(特に仕事として)取り組むことの隔たりに気付いたのかもしれません。
その落差を埋めるのは自分自身であって、飛び飛びに存在する既成の価値観はその助けにはならないのです。
「将来の夢」「やりたいこと」がそんなインスタントなものであるとは、やっぱり思えません。

価値観は、連続性や複雑性なんかを固定した結果でしか存在しないと考えてみたら。価値観に共感できるということと、自分なりに価値観をつむぐこととの違いを考えないといけない。優れたデザインを生むことと、それを利用することとの間に、大きな隔たりがあるように。
@kamioka
Yushi Akimoto

デザインがそうであるように、価値観は「固定」することで生まれます。
時間の流れ、連続性、それが生み出されるまでに関わった大小さまざまな因子を削ぎ落として。

僕らはそのプロセスでなく、結果としての価値観と常に対峙することになります。
そのこと自体は、決して悪ではないでしょう。
僕らは優れたデザインの結果としてのiPhoneを用いています。
それだけで僕らは一定の効用を得られているのですから。

しかしiPhoneから何を学び、iPhoneをどれだけ使いこなすかは、一人一人に委ねられています。
優れたデザインですら大量に生産され、大量に消費されているのが現状です。
インターネットをはじめ情報の流通網が十分すぎるほど整備されたこの時代において、 価値観も大量生産される一方、受け取る側が消費することで精一杯になっているのではないでしょうか。

「価値観を消費する」から「価値観を使いこなす」へ

iPhoneを消費することと使いこなすこととの違いとはなんでしょうか。
iPhoneは持つだけで効果を発揮するものではないのは周知のとおりです。
ソーシャルメディアの活用、 デバイスを問わない仕事環境、スケジュール管理やメモの取り方へのこだわり。
iPhoneは、生活の中にiPhoneがはまる”隙間”があってはじめて恩恵に預かれるものです。
その”隙間”はたぶんあるものではなくて、見つけるもの。

使いこなす人はiPhoneの機能をよく知っているし、iPhoneの理念を理解しています。
それがどのようなシーンで使えるのか、どのようなものと代替できるのかを深く考えています。
一方、iPhoneを「メールが貧弱なケータイ」とか「通話できるゲーム機」に貶めている人もいます。
僕自身、iPhoneによって劇的に生産性を向上させられたかというと、そうとは言えません。

価値観を使いこなすということも、どこか似たようなことのように思えます。
独立して存在しているように見える価値観が生まれるまでの時間を遡るということ。
価値観が固定された過程で削ぎ落としてきた偶然や複雑なものを掘り起こすということ。
それはまるで「堕落する」作業に似ている。 正解もなく、孤独で、不安を伴う作業。

選択肢(=価値観)が無数にある時代がもたらす不安

余談として。

「既存の価値観から別の価値観へ移行する」過程にも問題が生じているように思えてなりません。
価値観が無数にあるということは、選ぶという行為が際限なく発生することを意味します。

現代においては、選ぶ行為の中に「自己」や「主体性」が問われている現状があります。
あらゆる場面で僕らは「自分とは何者か」「何を良しとしているのか」を監視されているのです。

そんな時代に生きるワカモノを、芦田宏直氏は「オンライン自己」として捉えました。
不安定な足場を転々と飛びつぎ、できるだけ安定している足場を探しまわっている世代。

次の価値観に移った後で、本当にその次を見つけられるだろうか、という不安。
必死に適切な足場を見つけようとしている様子は、就職活動生の焦燥にも似ています。
僕らは、そこに不連続な足跡と底の深い闇しかないことに速やかに気付くべきなのかもしれません。

関連する記事