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一生学び続けなければいけない時代におけるフィンランドの教育

カテゴリ:読書の記録

ヘイノネン: どうすれば新しいことを学ぶモチベーションをもちつづけることができるのか。子どもはみな学ぶことに興味を示しています。その関心をどうやって一生の間、持続させるか。これはとても重要な出発点です。
つまり、新しいことを学習するのは人生のある時期だけ、というのではないのです。生涯を通じて学ぶのです。

オッリペッカ・ヘイノネン―「学力世界一」がもたらすもの

オッリペッカ・ヘイノネン氏は失業率20%に達する不況に直面していたフィンランドにおいて若干29歳で教育大臣に就任し、フィンランドの教育改革を推進してきた人物です。
この教育改革の結果、国際的な学習到達度調査であるPISAにおいて、2000年、2003年の調査でいずれも学力総合1位となり、フィンランドの教育の取り組みへの注目が一挙に集まったのでした。
「学びあい」などで有名な佐藤学・東大教授とヘイノネン氏とのインタビューをベースに、フィンランドの(主に学校)教育の特徴を紹介しているのが本書です。

フィンランドの学校教育におこった改革とは

ヘイノネン氏の学校教育改革について、本書では大きく次の2つが紹介されています。

・自治体、学校、教員の裁量を拡大すること
・国内のどの地域においても公教育の水準を同等にすること

一連の改革に至る以前に積み上げられた教育の資本というべきものがあったことも見逃せません。

ヘイノネン氏はインタビューを通じて、(日本の現行教育制度と同様の)中央集権的な教育制度が出来上がりつつあったこと、すでに質の高い教材が出回っていたことなどを上げています。
また、その根底には「教育機会の平等」というフィンランド人の伝統的な価値観があるようです。

中央政府が築き上げつつあった土台をベースにしつつ 、最低限の基準を残して国の指導要領を削減し、教育現場がそれぞれのニーズに合わせて自由に指導内容を決定できる仕組みをつくる。
教科書の検定も廃止し、教材の選定についても同様に現場の裁量を拡大する。

中央集権的な教育制度の限界が克服され、学び方の異なる生徒一人ひとりに対し現場の裁量で質の高い教育を行い、結果的に学力氏水準が押し上げられ、経済状況も好転しだした。

これがフィンランドの教育改革の大きなストーリーのようです。

学校教育だけに注目するのはフィンランドに申し訳ないと思いつつ

ここで、記事の冒頭の言葉をもう一度見直してみましょう。

「生涯を通じて学ぶ」

我々は学校を出ても一生学び続けなければならないとは、日本で働いている多くの人が実感しているところでしょう。
ヘイノネン氏の信念は、フィンランドの生涯教育制度に垣間見ることができます。

フィンランドの生涯教育は主に職業教育に該当する「Adult Education」と、日本の「生涯教育」に類似する、語学や趣味など教養を高める意図の強い「Liberal Adult Education」の二つに大きく分類することができます。
(参考※PDF:https://helda.helsinki.fi/bitstream/handle/10138/24211/gencho_10330.pdf?sequence=2
本書においてはヘイノネン氏が教育における図書館の重要性に言及していますが、詳細については大きく取り上げられていません。
また、成人教育についてもさらりと触れられる程度であり、フィンランドの成人教育の真髄に接近するには本書は十分ではありません。

その点で本書は片手落ちである、と僕は感じています。
「生涯を通じて学ぶ」を単なる格言で終わらせることなく、実現させようとするフィンランドの努力を伝えきれていないことが残念でなりません。

※ヘイノネン氏が成人教育分野で実施した具体的な政策については日本語の文献が見当たらないため、ヘイノネン氏の改革は学校教育が中心であったかもしれません。
本書はヘイノネン氏へのインタビューがメインであるため、致し方ない事情があったのかも。

※フィンランドの成人教育について書かれている本については、おそらくこれが最も幅広く、かつ詳細なものと思われます。
デザインもステキで、写真もふんだんに使用されており、文章量も十分です。
フィンランドの教育に興味のある方は、ぜひご一読を。

参考:「フィンランドで見つけた「学びのデザイン」」から学ぶために

まとめに代えて-印象に残った点

最後に、本書を読みながら印象に残った箇所を引用してこの記事は終わりとします。

フィンランドでは子どもの居住地から5キロ以内に学校を建設することを法律で定めている。3キロ以内の子どもはスクールバス、3キロ以上5キロ以内の子どもはタクシー(公費負担)で通学している。

オッリペッカ・ヘイノネン―「学力世界一」がもたらすもの

面白いのは、「子ども」が始点であるということ。
フィンランドは人口は530万人ほどですが、国土は日本と同程度であるため、必然的に学校の規模は小さくなります。

PISA2003の「数学リテラシー」の調査結果を見ても、6段階の学力レベルで(フィンランドの)最低レベルの生徒は1.5%であり、調査対象国の平均11.0%より著しく少ない割合を示していた(日本は4.7%)。

オッリペッカ・ヘイノネン―「学力世界一」がもたらすもの

フィンランドの”落ちこぼれ”の少なさに驚きますが、意外と日本も検討していますね。
PISAのランクを実際に見ればわかりますが、日本の学力は国際的には上位に入ります。

スクール・カウンセラーの主な仕事は、日本のような臨床心理のカウンセリングではなく、カリキュラムの履修の助言と学びの支援に当てられている。

オッリペッカ・ヘイノネン―「学力世界一」がもたらすもの

フィンランドの中学校、高校にはスクール・カウンセラーが配置されています。
位置づけや資格、求められる役割について、もう少し詳しく見てみたいところです。

ヘイノネン: 実際、全国レベルでスローダウンすることは競争力を高めるいちばんよい方法なのです。これまでわれわれはより速く走り、ほかのものよりも速く走ればいちばんになれると考えてきたからです。
わたしは、われわれはあまりに速く走りすぎたために競争力を失いつつある状況にあると思っています。現実的にどうすべきかはわかりませんが、わたしはこのことは、これからの教育制度が責任を負っていくべきことだと強く感じています。

オッリペッカ・ヘイノネン―「学力世界一」がもたらすもの

この言葉は”成長痛”に悲鳴を上げている日本人にとって、いいヒントになりそうな予感がします。
視点を逆転させてみることで、もう少し冷静に教育について語れる日本になれるかもしれません。

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「就職がこわい」という現象

カテゴリ:読書の記録

勝間和代を敬遠している僕としてはなんとなく避けていた著者の本ですが、とりあえずタイトル買い。

若者の就職難についてはいろいろ本が出ていて、それぞれ切り口が違っていて、興味深いです。
その中で本書は実際に著者が教員として関わってきた大学生を観察した結果に基づいて、議論が進められていきます。

若者は「不安」に覆われている

あえて言うならば「『不安』がやってきたらどうしよう、という漠然とした気分」のことを、彼らは「不安」と名づけているのだろう。
ここで、若者が「不安なんです」と訴えるときの「不安」を、「はっきりしない、不確定であることに対する漠然とした否定的な気分」と定義しなおしてみよう。つまり、先が見えないことはすべて「不安」なのだ。

就職がこわい (講談社プラスアルファ文庫)

著者は、就職に積極的でない若者が抱えている「不安」に一貫して注目しています。
就職について拒絶とも言える反応を見せる学生も何人か見てきた中で、著者はこのように若者の不安を捉えようとしているようです。

“先が見えないことはすべて「不安」なのだ。”

さらりとこう書かれていますが、若者の不安の深刻さが感じられるようでいて、一方でこれってある意味誰しもそうだよな?と思える記述です。

就職を遠ざける五つの病理

若者が就職を敬遠する要因について、著者は以下の5要因にまとめています。

1.就職と解離
2.就職と短絡
3.就職と自己愛
4.就職と万能
5.就職と”自分探し” 

ここでは1.就職と解離について、本書から引用してみます。

とはいえ、「そのときにならないとわからない」というのでは、人間は社会生活を営むことはできない。だから、ほとんどの人は「現在の自分」が連続的な存在であり、二年後や一〇年後も基本的にはいまの価値観、性格、体力や健康、趣味嗜好などが大きく変わることはないだろう、という前提のもと、さらにそこに「こうなりたい」という希望も加えて、先々の計画を立てたり夢を描いたりする。

ところが、いまの若者の中には、そもそも「自分は連続的な存在。未来の自分も基本的には自分の延長」という自己に関する連続的なとらえ方ができない人も少なくない。

(中略)

精神医学のことばでは、このように自己の連続性や統合がさまざまな程度で失われている状態を「解離」と呼ぶ。

就職がこわい (講談社プラスアルファ文庫)

 一旦著者のとらえ方を受け止めてみると、「自己の連続性や統合」が失われていることで、未来を過去・現在の自分から想像することができず、結果的に”先が見えない「不安」”に苛まれている若者の像が浮かび上がってきます。
関わる人、世の中の価値観、社会情勢がめまぐるしく変わる中で、一貫性を保とうとするのではなく、部分的に対応するという適応することを処世術として身に付けてしまったがために、気付けばバラバラの自分がそこにいるだけ、ありのままの私って何?と呆然としている若者像をついついイメージしてしまいます。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法」の中でも、「統合」というキーワードは何度か登場していました。
自己イメージ(自分が思っていること)と経験 (実際に体験したり、感じたこと)のずれを統合することで、ありのままの自分を肯定することができるようになる、と。
逆に、コミュニケーションの相手や場によって引き出しを開けるように対応することが当たり前になると、自己イメージと経験のずれが大きくなっていくとも指摘されています(もちろん、それだけが要因ではありませんが)。

他の”病理”について一つ一つ言及するとさすがに長くなるため、以下、ざっくりとしたまとめです。

1.就職と解離
→統合されていない、一貫性のない自己

2.就職と短絡
→将来と目の前の就職をつなぐ理解しがたい、遠回りなロジック

3.就職と自己愛
→自分が”その他大勢”であると自覚しながらも「あなたは特別」という啓示を待つ姿勢

4.就職と万能
→純粋性、完璧主義と現実世界とのギャップ

5.就職と”自分探し” 
→「就職の意味」「自分の存在意義」の答えがでないと踏み出せない真面目さ

諸問題の背景については本書の第5章で言及されていますが、若者がこのような”病理”に陥る構造については個別に検討されている程度という印象でした。
とはいえ、この分類を無駄にせず、若者の就職の諸問題についてもう少し幅広いアプローチが可能になるように感じます。

文末に寄せられた著者のメッセージは、大きく二つ。

・あなたは人生のエキストラでは絶対にない
・仕事はすべてを解決してくれない 

実際に就職活動から逃避する学生たちの対処に苦慮した著者が自信を持って搾り出せたのは、せいぜいこれだけ、ということなのでしょう。
著者の能力不足というよりも、それだけ、 就職活動にまつわる諸問題が複雑で、厄介で、解決しがたいものであるということを物語っているように思います。

感想など

「しかし、本当にこれで若者の「不安」を説明できているのだろうか?

読後の違和感がこの記事をまとめながら明確になりました。
もちろん、ミクロで見れば一人ひとりの抱えている問題が全く同じということはないですが、もう一歩踏み込んだ考察を読みたかったと個人的には思います。

そもそも、本書が見つめる「若者」像が絞られていないところに問題があるのかもしれません。
冒頭に、高校卒業時の選択肢として「就職 > 大学」となっていることを著者は述べています。
就職できなかった/したくなかったから大学に行く、という構造。まさに大学の予備校化です。

しかし、当の僕自身にとってはそれは正確な記述ではありません。
「就職できなかった/したくなかったから大学に行く」ことを選んだのは、一体誰なのでしょうか?
この議論を曖昧にしたまま本章に突入した感があり、少し置き去りにされてしまいました。

著者の眼差しは「就職活動からリタイアする」学生に注がれています。
それはいったい誰なのか?彼らの「像」をもう少し読者に共有してくれたら、本書の価値はもっと上がったのではないでしょうか。
むしろ、著者の手元にあるサンプルだけで一般論を展開しようとしているようにすら見えてしまうのは、残念なところでした。

とはいえ、著者が描くような大学生には僕自身も実際に出会ったことがなく、いままで何冊か本を読んできましたがそのどれもが見逃している若者の不安がここに記録されており、いろいろ考えさせられるきっかけを得ることができました。
2004年に刊行されたという事実は今になってはマイナス材料かもしれませんが、それでもこの議論が遅れているようにはあまり思えません。
(それはそれで問題なのかもしれませんが…)

軽い気持ちで読み進めた割に、胸の奥に重たいものが残るこの読後感。
僕としては、多くの(とくに仕事と自己実現を切り離せない)方が目を通すのも悪くないかなと思います。

関連する記事

大量生産/大量消費される価値観と若者の不安

カテゴリ:世の中の事

この記事を読んでから、ちょくちょく考えていたこと。

うまく表現できないのですが(この数日、そのうまい表現を探っているのですが、いまだに見つかりません)、今回の震災で失われたのは、何も人の命や物理的な財産だけでなく、これまで僕らが当たり前だと感じていた価値観、考え方そのものではないかと感じています。 そうであれば、これまで同様の使い古しの価値観によって「上皮だけの愚にもつかない」復興を目指すのではなく、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければ」本当の復興はあり得ないのではないか、という気がするのです。 そのためにも僕らはいま、安易に身近なものにしがみつくことなく、堕ちなくてはいけないのではないでしょうか?

堕落論/坂口安吾:DESIGN IT! w/LOVE

あの震災直後から、Twitterの中で”良しとされる価値観”があれこれと変わる様を見てきたように思います。
そのせわしない変化は、「堕ちる」ことを恐れる僕ら自身の必死さの表れかもしれません。

堕落する/しない

「堕落する」とは、どういうことでしょうか。
僕は、これまでの価値観やこれまで自分が積み上げてきた考え方が揺さぶられ、壊された後で、 過去の瓦礫や現在から調達した資材を用いて新たな価値観という足場を構築する作業ではないかと考えます(構築の作業までは含まないかもしれませんが)。
一方「堕落しない」とは、これまでの価値観という足場が壊された後で、 堕ちないようにすぐさま別の”既存の”価値観に飛び移る行為に似ています(マリオが、ひとたび乗ると落ちてしまう飛び飛びの足場を次々とジャンプしていくようなイメージ)。
これらの表現は矮小化されたものかもしれませんが、恐れずこのまま進めます。

Twitterなんか見てると感じることだけど、価値観とかマジョリティが即座に変わる中で、自身の変化の中に自分なりの連続性を保つことは難しいし、辛いことだと思う。その作業を怠るなというのが「堕落論 http://amzn.to/eXbUbc」に書いてあることじゃないか。未読だけど。
@kamioka
Yushi Akimoto

「堕落する」ことは、難しい。というか辛い。
これまでの価値観という足場がなくなる不安に耐え、 資材を調達し、新しい足場を構築するまで堕ち続ける恐怖に耐えなければいけません。
これらの不安、恐怖を抑え、たった一人で構築作業に勤しまねばなりません。

Twitterの怖さ

震災直後からのTwitterを巡る「多数派」の移り変わりの目まぐるしさといったら。
あまり一般的ではなかった公式RTの奨励運動や「不謹慎」、「自粛」を巡る言説。
3/23の夕方ごろには「検出」がバズっていたが、震災直後ではありえなかった光景でした。

一連の移り変わりに、Twitterの伝播力が寄与していることはたぶん間違いありません。
「いい意見」はあっという間にRTされ、震災中のツイートはある程度自治的に制限がされていました。
安易に正義感ぶる人たちが湧いてきたのにはうんざりすることもありましたが(だったら普段からそういう発言しろよと率直に思います)。

価値観や言説の移り変わりのメカニズム自体にはあまり興味はありません。
しかし、僕を含め多くの人がTwitterの大きな流れの中で自分のポジションを適宜調整していたように思います。
一方、その裏側で、誰もがこの震災によって何らかの精神的な揺さぶりを被っています。
実際の震度以上に激しい揺れにより、多くの人が一旦足場を壊されてしまったのではないでしょうか。

これまでの価値観を瞬時に破壊された僕らに新しい足場を提供してくれたのが、Twitterでした。
Twitterの言説の移り変わりは、新しい足場に次々飛び移る僕らの姿を想起させます。
僕らは、ソーシャルウェブが張り巡らす糸のおかげで「堕落しない」ことを選択できた、ということです。
TwitterやFacebookに感謝し、日本への祈りに新たな時代の到来を感じた人も少なくないかもしれません。

それこそがTwitterの怖さではないか、と最近思うようになりました。

「不謹慎」とか「自粛」とか各自が言いたい放題なTLに少し幻滅したところで、 僕は地震に関連する情報をTwitterで集めることを一旦やめました。
そろそろ、自分のスタンスを確認する頃合いではないか、と感じたから。

“価値観”が大量生産・大量消費される時代

先日、2週間の短期インターンで島を訪れていた6名の学生が実習を終え、島を離れました。
彼らのうち何人かは、「もやもやしている」と言い残したのが印象的です。

それは、研修が失敗だった、ということではもちろんありません。
彼らも特に後悔しているというわけではないのです。そこに気付きがあったからこそでしょう。

島に来た学生さんとの対話の中で、彼らが既存の価値観に囚われ、「なぜそれを選んだのか」を言語化できていないように感じたし、本人たちもそう口にしていた。今、若者はそういう時代に生きているのだと思う。僕自身もそう。
@kamioka
Yushi Akimoto

彼らはたぶん自分たちの足場が不連続であることに直面したんじゃないでしょうか。
島の人たちは、純粋な好奇心から「なんで海士に来たの?」と彼らに質問します。
海士町で受けた刺激、そこに生きる多種多様な人たちの多種多様な価値観に触れ、 徐々に揺さぶられた彼らの足場に対し、「なんで?」という言葉が追い討ちを掛けていきます。

“○○がしたい”って簡単に言っちゃいけないんですね。

あるインターン生は、こんなことを言っていました。
興味を持つことと、実際にそれに(特に仕事として)取り組むことの隔たりに気付いたのかもしれません。
その落差を埋めるのは自分自身であって、飛び飛びに存在する既成の価値観はその助けにはならないのです。
「将来の夢」「やりたいこと」がそんなインスタントなものであるとは、やっぱり思えません。

価値観は、連続性や複雑性なんかを固定した結果でしか存在しないと考えてみたら。価値観に共感できるということと、自分なりに価値観をつむぐこととの違いを考えないといけない。優れたデザインを生むことと、それを利用することとの間に、大きな隔たりがあるように。
@kamioka
Yushi Akimoto

デザインがそうであるように、価値観は「固定」することで生まれます。
時間の流れ、連続性、それが生み出されるまでに関わった大小さまざまな因子を削ぎ落として。

僕らはそのプロセスでなく、結果としての価値観と常に対峙することになります。
そのこと自体は、決して悪ではないでしょう。
僕らは優れたデザインの結果としてのiPhoneを用いています。
それだけで僕らは一定の効用を得られているのですから。

しかしiPhoneから何を学び、iPhoneをどれだけ使いこなすかは、一人一人に委ねられています。
優れたデザインですら大量に生産され、大量に消費されているのが現状です。
インターネットをはじめ情報の流通網が十分すぎるほど整備されたこの時代において、 価値観も大量生産される一方、受け取る側が消費することで精一杯になっているのではないでしょうか。

「価値観を消費する」から「価値観を使いこなす」へ

iPhoneを消費することと使いこなすこととの違いとはなんでしょうか。
iPhoneは持つだけで効果を発揮するものではないのは周知のとおりです。
ソーシャルメディアの活用、 デバイスを問わない仕事環境、スケジュール管理やメモの取り方へのこだわり。
iPhoneは、生活の中にiPhoneがはまる”隙間”があってはじめて恩恵に預かれるものです。
その”隙間”はたぶんあるものではなくて、見つけるもの。

使いこなす人はiPhoneの機能をよく知っているし、iPhoneの理念を理解しています。
それがどのようなシーンで使えるのか、どのようなものと代替できるのかを深く考えています。
一方、iPhoneを「メールが貧弱なケータイ」とか「通話できるゲーム機」に貶めている人もいます。
僕自身、iPhoneによって劇的に生産性を向上させられたかというと、そうとは言えません。

価値観を使いこなすということも、どこか似たようなことのように思えます。
独立して存在しているように見える価値観が生まれるまでの時間を遡るということ。
価値観が固定された過程で削ぎ落としてきた偶然や複雑なものを掘り起こすということ。
それはまるで「堕落する」作業に似ている。 正解もなく、孤独で、不安を伴う作業。

選択肢(=価値観)が無数にある時代がもたらす不安

余談として。

「既存の価値観から別の価値観へ移行する」過程にも問題が生じているように思えてなりません。
価値観が無数にあるということは、選ぶという行為が際限なく発生することを意味します。

現代においては、選ぶ行為の中に「自己」や「主体性」が問われている現状があります。
あらゆる場面で僕らは「自分とは何者か」「何を良しとしているのか」を監視されているのです。

そんな時代に生きるワカモノを、芦田宏直氏は「オンライン自己」として捉えました。
不安定な足場を転々と飛びつぎ、できるだけ安定している足場を探しまわっている世代。

次の価値観に移った後で、本当にその次を見つけられるだろうか、という不安。
必死に適切な足場を見つけようとしている様子は、就職活動生の焦燥にも似ています。
僕らは、そこに不連続な足跡と底の深い闇しかないことに速やかに気付くべきなのかもしれません。

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