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「引き出す」に代わる言葉が欲しいという話

カテゴリ:自分事

やる気を「引き出す」。心の奥底に秘められた思いを「引き出す」。高校生たちの本音を「引き出す」。

高校生や大学生と接する仕事をしていると「引き出す」という表現に良く出会う。しかし、僕はあまりこの言い方があまり好きではない。できれば違う言葉を用いたい、と思うのだけれど、会話を成立させるために仕方なく「引き出す」という言葉を使わざるを得ない場面もある。代替する語彙が僕に欠けている。

「引き出す」という言葉には、その本人ではなく他者の働きかけに主要な関心を向けている印象を受ける。「引き出」されるのはもともとその人の中にある何かだ。本音を「引き出」そうとしても、他者が”本音”と呼びたい何かを本人が持っていなければ、その行為の目的が叶うことはない。

「引き出す」側ではなく、「引き出」される何かを持っている本人にフォーカスするとすれば。

彼/彼女は、その何かを他者に提示することをしていない状態にある。それは、本人が意識的(あるいは無意識)に表に出すことを妨げているのかもしれないし、単に表出させられるだけの定まった輪郭を持っていないのかもしれない。いずれにせよ、それを外側に出すかどうかはあくまで本人の仕事だ。他者が働きかけられることと言えば、本人の望むところに基づき、言語化を手助けしたり、表に出しやすい関係性を構築したりすることくらいしかできないのではないか。

コミュニケーションのプロセスの中で関係性が育まれ、言語化が進むことで、コップから水が溢れるがごとく、自然と言葉として伝達したくなってしまう。これが僕のイメージするところだ。結果的には外部からの「引き出す」働きかけと言えなくもないが、ここで述べたいのは、主体をどこに置くのかによって状況の見え方が異なる、という点にある。

「引き出す」はまだいい方かもしれない。「やる気を出させる」「意識を植え付ける」といった、より暴力的な表現も目立つ。やる気を出すのも、意識するのも、本人のマターだ。他者を変えたい、他者に作用したい、という欲求が人類共通の感性として備わっているのではないかとすら思えてしまう。

自然と言葉が溢れるような状況を、当事者と共につくっていく。そういう関わりを、「引き出す」という言葉で言い表せないであろう行為を、どう記述するか。高校生、大学生と接する中で、自分なりの回答を持ちたい、と思う。

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検討中のインタビュー企画について

カテゴリ:自分事

秋田に帰ってからおかげさまで大学生と接する機会が増えている。海士町ではずっと高校生と接していたわけで、その延長線上に彼らとの交流がごく自然に生まれたという印象を受けている。それでも、そうして交流を持つのは、一般的な学生と比較すれば行動力があり、自分が属するコミュニティの外にいる人たちとの交流を楽しむようなタイプ相手がほとんどだ。それだけでもありがたいが、しかし、そこに留まっていては学生の全体像は見えてこないだろう、という”もやもや”がここ半年ほどで溜まってきている。

そこで、秋田県内の学生(中高生、大学生、短大生、専門学校生、高専生等もろもろ)にインタビューをして回るのはどうか、ということを先月あたりから考え始めている。これまで具体的に3人に試験的なインタビューを実施させてもらっている。インタビューをし、それを記事として公開し、アーカイブ化する。そこで秋田にいる大学生の等身大の姿を表現していけたら、というのがざっくりとした趣旨だ。目的は以下の3つにまとめられる。

(1)自分自身や関わる人のスキルアップのため
現金な話だが、僕自身が、インタビューをし、それを記事として書き上げるという経験を積みたい、という個人的な期待がある。今まで、インタビューすることと文章を書くことにはそれなりの投資をしてきたので、それらをしっかり研ぎ澄ませて投資を回収したいという思惑だ。さらに、この企画には(興味がある人がいれば)学生にも運営側(つまりインタビューする側)としてかかわってもらいたいと思っており、彼らのスキルアップにもつながれば、という想いもある。Whatばかりに目が行って、Howがおざなりになりがちな風潮への警鐘、というわけでもないが、ほんのりとでも一助になれば。

(2)ありのままの秋田の学生の姿を伝えるため
単に僕が学生像を把握するのではもったいないと思っている。むしろ、素朴に学生の考えに興味を持っている人は少なくないだろうし、そういう人たちにもせっかくなので共有したい。それが、学生の背中を後押ししようとする動きにもつながるのかな、という淡い期待がある。インタビューを経て、学生自身が自分を振り返るよい機会となると、なお嬉しい。自己分析というやり方はなかなか効率が悪いのではないかと思っているので(なにせ人にかかわってもらった方が効率が良いに決まっている)。

(3)秋田での学生を対象とした中間支援のニーズを探るため
これまで、県内の学生から「秋田には学生を地域や企業とつなげる組織・仕組みが必要だ」という声を3回聞いている。一方、そうした声の中には、「自分は独力でなんとかしたが、後輩たちのために環境を整えたい」という意図も含まれている。それは、したがって学生の純粋なるニーズではない(その後輩たちの声を直接聞いたわけではない)。なんとなく、僕もそういう支援の枠組みはあったほうがいいな、と思いつつ、本当に必要とされているのだろうか、必要とされているとしたらどういった支援なのだろうか、ということを考えるためにも、このインタビューで素朴な学生像に触れていくことが有効なのではないか、ということをぼんやり思っている。

最大の課題は、インタビュイーを見つけること、だと思っている。この辺りは飛び込み営業的な度胸の世界になるかもしれない。あと、報酬は出せないけど、インタビュー(とライティング)の経験を積みたい学生がいたら、ぜひ手伝ってほしいと思っている。もしかしたら、そういう学生を3,4名ほど組織し、僕の乏しいノウハウ的なものを伝達してしまい、彼らが主体で進めてもらってもよいかもしれない。というか、その方が結果的に良いものになりそうな気もする。

今月中からぼちぼち着手していきます。気になる方はFacebookでもTwitterでもいいのでぜひご連絡を。

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「嫌われる勇気」の簡潔なまとめと感想

カテゴリ:自分事

「アドラー心理学」について書かれた以前から評判の本書。
知人から強く勧められたので借りて読んでみた。
「哲人」と「青年」の対話篇という珍しい形式をとっている。

せっかくなのでメモを取りながら読み進めてみたのだが、
特にメモを読み返して自分の中に響いた部分をまとめてみたいと思う。

このまとめはあくまで個人的な関心に基づいて書かれている。
本書の要点はここにまとめられた限りではないということは一応書いておく。

「嫌われる勇気」とは何か

「嫌われる勇気」というタイトルが示すものは何か。
もしかしたら「7つの習慣-成功には原則があった!」など
著名な自己啓発書を読んだことがある人なら何となく予想がつくかもしれない。

本書では「他者の承認を求めてはいけない」とはっきりと書かれている。
個人的に興味を持ったのはこのあたりだった。

哲人 たしかに、他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。自分の人生を、他人任せにしているのですから。たとえば親の敷いたレールの上を走る。ここには大小さまざまな不満はあるにせよ、レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。「いかに生きるべきか」という壁に直面するわけです。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

先行きへの不安、リスクを回避するために「他者の承認」を必要とする。
周囲の目を気にする背景にはこういう態度があるかもしれない、と確かに思う。

哲人 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

言われてみれば当たり前のことだが、行動には常にリスクが伴う。
そのリスクをコストとして支払う”勇気”がなければ自ら行動を選ぶことはできない。

青年 裏切るかどうかは他者の課題であり、自分にはどうにもできないことだと?肯定的にあきらめろと?先生の議論は、いつも感情を置き去りにしています!裏切られた時の怒りや悲しみはどうするのです?
哲人 悲しいときには、思いっきり悲しめばいいのです。痛みや悲しみを避けようとするからこそ、身動きが取れず、誰とも深い関係が築けなくなるのですから。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

人と人との関係の中で痛みや悲しみをなくすことはできない。
だからこそ、他者と深い関係を築くためにコストを支払う勇気が必要となる。

うまくいくかどうか、だけで考えればコストは支払えない。
結果はいつでも、コストを支払う前ではなく後にわかる。

貨幣経済のおかげで、一定の金銭を支払えば特定の価値を得られるようになった。
それはあたかもコストを支払う前に結果は判明している、とも言える。
(金額が価値に見合わないことが判明すればクレームをつければいい)

コストを支払わなければなんのフィードバックも生まれない
言ってみれば自然界の常識であるこの事実に対して
リスクを最小限に抑える試みで満たされた現代社会の仕組みのために、
当たり前に生きるということが不自由になっている、と言えるかもしれない。

僕は、これが「嫌われる勇気」なのだと解釈した。

感想など

・アドラー心理学を求める現代社会という見方

アドラー心理学には芦田宏直氏の「機能主義」批判を想起させる何かがある、気がする。
そこを掘り下げればなぜ本書が多くの読者を獲得したのかが分かるのではないか。

振り返ると、幾つかの過去記事には通底する問題意識があるように思う。

大量生産/大量消費される価値観と若者の不安

社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

書き出すと長くなりそうなのでまた別の機会に改めて整理したいと思う。

・個人的な評価と感想

さすがに広く読まれているだけあって読みやすいような工夫がある。
それゆえに、世に溢れている自己啓発書との差別化は難しいのかもしれない。

僕も読後の感想を本書を貸してくれた知人とシェアする中で
本の中身を越えて「この本が世に受け入れられたわけ」に思い至ることができた。
自分の内だけで閉じずに気になったところを言い合うだけでも、
人によって注目する点に違いが出てくるという当たり前のことに気づける。
それが本書の主張を実践する第一歩になるのかもしれない。


※Kindle版

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