勉強に対するやる気の構造:誰のための勉強?
カテゴリ:自分事 2014/03/25
以前「勉強にやる気が出ない生徒の特徴」という記事を書きました。
ここでは勉強にやる気が出ない原因を環境に注目して整理してみました。
本記事ではより生徒の内部的な課題に注目しながら、
やる気のない生徒、勉強に集中できない子どもの原因を考えてみます。
その勉強は誰のためのもの?
生徒に教科指導する際には、やはり生徒の集中力に目がいきます。
その時間をいかに密度濃く過ごすかで学習の成果は大きく変わるからです。
集中しているかどうかは様子を見ればだいたい分かります。
落ち着きがなかったり、ぼーっとしていたり、隣に話しかけたり。
個人的に特に気になるのは、時計をちらちらと気にする生徒。
「この時間が早く終わってくれないものか…」という消極性が垣間見えます。
とはいえ「集中力がある/ない」の話で完結させるのはいかにも面白味がないですね。
僕がそういう生徒を見て感じることがあります。
「この子たちはいったい誰のために勉強しているのだろう?」
「自分のために決まっているだろう」と思う方もいるかもしれません。
しかし、それは本当にあらゆる子どもに当てはまるのでしょうか。
自分の未来に投資できない子どもたち
「誰のための勉強か?」
この問いはこう言い換えることができます。
「自分のために勉強していない生徒がいるのではないか?」
たとえば、カンニングをしてチェックテストに合格した生徒は、
テストには合格できたとしても、実力が伴っているわけではありません。
チェックテストは実力の確認と、勉強を促す関門を設ける目的で実施されるもの。
これはチェックテスト本来の意義を大きく損ねています。
彼/彼女は、チェックテストの時間を自ら生産性が一切ないものにしているのです。
何も生み出さないとしても、彼らはカンニングをする。
その理由は「怒られたくない」「悪い点数をとりたくない」と様々でしょうが、
本質的には「じゃあ勉強すればいい」というシンプルな結論に達します。
大学の教授の部屋を女子大生が訪れた。「先生、お願いです。今度の試験で私に合格を下さい」「その為なら・・なんでもします・・・」教授は彼女の瞳を見つめる。「何でも・・するのかい?」「・・はい・・・」彼女の耳元にそっと教授は囁いた「それじゃ・・・してくれるかな・・・勉強を」
— アメリカンジョークbot (@americanjokebot) 2012, 11月 7
生産性のない(=自分のためにならない)時間を過ごすことを選んでしまう。
彼/彼女にとって、勉強は自分のためのものではないと見るべきではないでしょうか。
与えられた時間の中で最大限の成果を出そうとすること。
たとえ心から望まないとしても、目の前のことに向き合い、自分のものにしようとすること。
勉強が未来への投資であることを自覚できなければ、そうした姿勢をとることはできません。
(ここにこそ「勉強」と「社会人基礎力」を結ぶヒントがあると思いますが、それはまた別の話)
自分のための勉強ができるようになるために
カンニング行為はなぜ行われるのでしょうか。
仙台市教育委員会のある調査結果の中にそれを考えるヒントを見つけました。
リンク先の平成22年度実績のPDFには以下のように記されています。
「内発的意欲(自ら進んで学ぶ意欲)」の高さは学力に反映しているが,「外発的意欲(強制や報償などによる学ぶ意欲)」が高くても,「内発的意欲」が低い場合は,どちらの意欲も低いパターンよりも学力が振るわない傾向が明らかとなった。
これを正とすれば、こう考えることができます。
すなわち、カンニング行為とは外発的動機付けだけが強化された結果である、と。
「内発的動機付けを伸ばすことが大事だ」
今では当たり前に耳にすることですが、その重みがこの調査結果から読み取れます。
周囲の大人からのメッセージが外発的意欲を刺激するばかりであるとすれば、
その子どもは目の前の勉強を自分が身に付けるべきものと捉えることができるのでしょうか。
「勉強は自分にとって必要なことだ、今やらねばならぬことだ」
そう思えるようになったら、話は早いのです。
だからこそ、周囲の大人のコミュニケーションが重要だと言われているのだと思います。
すべての子どもが「自分のために」勉強してくれることを願っています。