Tag Archive: まちづくり

Code for Akitaのキックオフイベントに参加してみて

カテゴリ:世の中の事

昨日、Code for Akitaのキックオフイベントに参加してきました。

オープンデータ活用しようぜ! というお題目はぼんやりと分かったつもり。でも、「じゃあ具体的にこの秋田においてどういう場面で活用できるのだろう?」ということもイメージできない状態での参加。会場である秋田市役所に向かう直前は「まあ、仕事の一環だから」というくらいのモチベーションだったというのが正直なところですが、とりあえず行くだけ行ってみたのでした。

しかし、結論から言えば、あの場にいれて良かったなあと思っています。備忘録がてら、ここに(あくまで僕が)何をお土産に持ち帰ったのかを書いてみようと思います。

何のためのオープンデータ?

一言で言うならば、「オープンデータの活用」というのは目的ではなく手段であるという視点を得られたのが、当日の大きな収穫でした。では、その目的とは何か? 僕は、「日本社会のOSのアップデート」ということなのかな、と受け取っています。

僕が住んでいる五城目町では、みんなが好き勝手に町というフィールドで遊ぶように仕事したり、企てたり、仕掛けたりしています。そこには行政の明確な「計画」がありません。トップダウンの強いリーダーもいませんし、スローガンとかあったっけ? というレベル。あえて言えば、(一部の人たちで)「世界一子どもが育つまち」というゆるいテーマ設定があるくらい(「世界一子どもが育つまちをつくろう!」でもないところからしてゆるい)。

人口減少とか少子高齢化ってとりあえず「課題だ」って言われがちなんですよね。ところが、五城目に住んでみると、単なる「現象」でしかないよね、という認識を共有する人たちと出会いました。こういう大きな言葉を「課題」に設定すると、経験則ですが、検討された「解決策」も大味になる印象があります。そうすると、そのお題目に集まる人たちの思惑もばらばらになり、課題解決は進まないし、結果、疲弊する。そういうパターン、見たことありませんか?

五城目で起きていることは、「課題解決」というより「一人ひとりがやりたいことを必要に応じて協働しながらやっている」という表現が近いように思います。やりたいことをやっているから継続する。やりたいことを互いに支え合う文化もゆるやかにある。だから、秩序立っていないけど、何かが起きる。それが「良いもの」だったら、結果的に町のため、地域の人のためになる。

いきなり五城目の話になってしまいましたが、何を言いたいかというと、オープンデータの活用は、こうした「勝手な企て」を促進するものである、ということです。この文脈から総務省が掲げる「オープンデータの意義・目的」を読んでみると、なんとなく、捉えやすくなるような気がします。

まちづくりをアップデートする

“まちづくり”という言葉はいろんな人がそれぞれにイメージするものが違うと思いますが、五城目のそれは「まちづくらないまちづくり」と言えるかもしれません。なにせ、町に関わる人が好き勝手に朝市を盛り上げたり、ラーメン二郎をみんなでつくったり、パーリーしたり、空き家をリノベしたりしているわけですから。そうした点の一つ一つが集積して線になり、面になる。10か年の都市計画がなくても、ぽつぽつとそうした動きが生まれている。

ここにおいて、行政は、住民にとって一つのリソースであり、必要に応じて活用するものとなります。もちろん、行政が主体となり、予算をつけて取り組む事業もありますが、その守備範囲を超えたところを、住民側が勝手にカバーしていると見ることもできる。しかも、当事者である住民が自ら着手するものだから、場合によっては具体的な課題に対して効果的な解決策が施されるケースも出てくる。

こうした民間主導の企てがぽこぽこと生まれてくるのが21世紀の”まちづくり”の在り方なのだろうな、というのが直感的に思うところです。やりたい人がやりたいことをやりたいようにやる。これを促す手段の一つとして、オープンデータと、それに伴うテクノロジーの活用があるのではないでしょうか。

昨日のイベントで紹介された事例として、「保育園マップ」というアプリがあります。北海道のとある女性が「保育園マップが欲しい」という一言から開発されたこのアプリは、保育園の位置情報だけでなく待機児童数などの情報が閲覧できるものです。現在も電話したりネットで調べたりすれば探せないこともないものですが、データとして活用するには「HTMLから引っこ抜く」といった(活用する側からすれば)無駄な手間がかかる場合も多い。子育て中のパパママがそれぞれ情報を取得しているなんて考えているだけで……実に効率化したくなる案件です。実際、リリースされてからの反響は大きく、今や各地で「保育園マップ」がつくられているそうです。

もちろん、行政等が持つ情報を、誰でも入手できて活用しやすい形式でオープンデータ化するというだけで、何かしらの解決策が出てくるとは限りません。しかし、活用可能なデータがあることで、誰かがそれを勝手にハックしていい感じに実装してくれる可能性が生まれるわけです。その可能性に賭ける。なんなら、ハッカソン・アイデアソンという場で(タウンミーティングでもいい)、住民のニーズを引き出し、しまいにはプレイヤーを集めてしまえばいい。「住民主体」とか「官民連携」という言葉の想起させる未来っぽい雰囲気、ありますよね。

Code for Akitaの意義

一人一台スマホを持つ時代ですから、情報をデジタル化し、共有可能なものにすれば、みんなが利用できるようになります。ガラケー時代は、山中で不法投棄された車を見つけ役場に電話しても、口頭で位置を伝えるのが難しかった。しかし今や、写真を撮って位置情報を送れば、手間なく的確に通報できます。

「こうしたら、もうちょっと便利になるのに」

オープンデータは、こうした個人の思いつきがテクノロジーによって実現しやすい時代の要請とも言えます。とはいえ、一般人がすぐにアプリ開発できるわけでもないし、そもそもデータがあってもそれをどう活用できるかをイメージするのも難しい。だからこそ、Code for Akitaのように、専門性を持ち、かつその専門性によってより住みやすい地域づくりを一般の人たちの手元に引き寄せようとする人たちの存在が大きくなります。

五城目の人々が手掛けるような、好き勝手な「まちづくらないまちづくり」は、オープンデータの存在によってそのカバレッジを一層拡大できるでしょう。一方、「データがあるから活用してみる」という思考では、いまいちつまらないものばかり出てくる予感もあります。(たぶん)オープンデータは、それを扱える専門家だけでなく、その当事者や現場のプレイヤーがいてはじめて生き生きと活用されるもの。その点で、中途半端にエンジニア経験があり、一方そうした現場にも片足を突っ込みつつある僕自身も関われる部分があるように思います。

今回のキックオフイベントの多くはIT関係者と行政関係者で構成されているようでした。そりゃあ、「IT」とか「オープンデータ」とか言われても、一般の人は寄り付きがたいわけで。この隔たりをどうブリッジできるか。

大枠として、自分なりに「オープンデータ」を把握できたかなと思います。今後はもう少し事例を調べつつ、例えば五城目だったらどんな可能性がありそうか、具体的なイメージができるようになりたいと思っています。

「ITとかよくわからんけど、なんか面白そう」って方、ぜひ一緒に勉強しましょう!

関連する記事

あるものを生かす。これまでも、これからも~「都市をたたむ」という作法~

カテゴリ:自分事

この本を読み終わった後で、
自分の中に残ったものが2つある。

1つは、「計画」の捉え方について。

この本では、その意味を「内的な力による変化を、整えて捌くもの」と定義して考えていきたい。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

変化は、それを生み出すエネルギーがあって起こるものであり、
計画はエネルギーを持った変化があることで初めて意味を持つ。

テスト勉強が計画通り進まないのは計画が悪いからではなく、
計画されただけの量を勉強する気が起こらないところにある。
勉強への意欲が一定量期待できてようやく計画の質を問う段になる。

言われてみればその通りだ。嘘みたいにシンプルな論理。


もう1つは、「スポンジ化」という縮小のあり方に対して。

都市は都合よく縮小しない。そこに住む個々人の意志により、
”大いなる意志”などないことを証明するが如く振る舞う。

高度経済成長期には、たまたま「成長」という単一軸があった。
それが、粗っぽく見れば全体として秩序立てて見えたかもしれない。
それこそ、計画通りに思えるほどの拡大っぷりだったのではないか。

 

戦後、都市はどのような形であれ成長するしかなかった。
そのエネルギーが生む変化をうまく捌くために都市計画があった。
計画は、あくまでも成長へと向かう変化を前提としていた。

しかし、高度経済成長期への未練というか、
人口減少社会を前提とするOSへの切替の遅さを鑑みると、
この事実が、ある時点でねじ曲がってしまったのではないか、と思える。

つまり、日本人が戦後「内的な力による変化」を計画し、
その計画により成長が生じたのだ、という誤解に。

日本の成長を計画のおかげだと頭のどこかで思う人ならば、
少子高齢化でも計画的に人口は増やせるなんて考えていそうで怖い。

多くのエネルギーが束ねられることで、大きな変化が生じる。
エネルギーの総量が減り、向かう先の統一も図れないのならば、
これからの時代にもう一度変化を求めるのは酷なのだと思う。

 

「都市をたたむ」では、小さな単位で、
場合に応じて解決策を考えるという提案がなされていた。
それは、都市計画に限らず人口減少社会ならではの方向性のように思う。

ちょうど、とある学校への提案資料に、
これからは一人ひとりがますます大切になる社会だ、と書いた。

まちづくりであっても、教育であっても、
これからは一人ひとりのエネルギーの重要性が相対的に増す。
だから、それぞれの発生源を生かすこと、何か損なうものがあれば
個別に取り除きあるいは和らげることが求められる。

逆に、計画が先行すれば、どこかに無理が生じる。
グローバル人材は確かにこれからの日本に必要かもしれないが、
計画を実現しうるだけのエネルギーが賄えるかどうかは別の話だ。
(「エネルギーが賄えるか」なんて、酷い表現だ…)

 

「都市をたたむ」との出会いはとてもタイムリーだった。
それに、五城目への移住のタイミングに重なるというのも運が良い。
どうやったらその方向性を実現できるのかを考えていきたい。

関連する記事

「都市をたたむ」―これからのまちを見る眼鏡を手に入れる

カテゴリ:読書の記録

人口減少社会における都市計画のあり方を提言する本書。

「都市」という用語が当てられている通り、そもそも農村部、山間部についてほとんど言及はないが、今日の都市の成り立ちと、都市の中で進行する現象についてロジカルに説明がされており、理論武装にもってこい、と思う。

「都市をたたむ」という表現が指すもの

まずは本のタイトルでもある「都市をたたむ」という言い回しについて。

英訳は「shut down = 店をたたむ」ではなく、「fold up = 紙をたたむ、風呂敷をたたむ」である。つまり、この言葉にはいずれ「開く」かもしれないというニュアンスを含めている。日本全体で見ると人口は減少するが、空間内には一律に減少せず、特定の住み心地のいい都市に人口が集中する可能性もあるし、都市の内部でも人口の過疎と集中が発生する可能性がある。つまり、一方向的ではなく、一度は間引いて農地に戻すけれども、将来的に再び都市として使う可能性がある場所は存在する。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

本書では「計画」を「内的な力による変化を、整えて捌くもの」と定義している。

計画は、社会を動かしている様々な力を整えて捌くことによって、不都合な状態や危険な状態を乗り越え、望ましい方向に社会をドライブしていく役割を持つ。

(中略)

つまり、都市計画が捌く「力」は、都市を使う人たちが内的に持っている空間的な望み―広い家に住みたいとか、快適に通勤したいとか、立派な建物で仕事をしたいとか、遊ぶ場所が欲しいとか―こういった望みである。(中略)個人の「望み」は、人口流入の動きで加速され、それらの合計は大きな力を持つことになる。この大きな力を受け止め、その力の流れを整えて、適切な空間をつくる方向に捌くこと、これが都市計画の役割である。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

これまでの人口増社会はこんこんと湧き出る大量の水を捌く必要があった。しかし、これからはどんどん減っていく水をどう整えて捌くかが求められる時代。したがって、都市計画もこれまでと明らかに違うことをしなければならない、と筆者は指摘する。

この定義に立つと、地方への人口流入を必死に考える最近の「地方創生」の方向性にも疑問符が付く。川の流れに逆らうどころの話ではない。水量がそもそも減り続けているのが現状だ。この当たり前の事実を念頭に置けるかどうかで、計画の実効性が大きく変わる。

人口減少社会の都市の姿と「コンパクトシティ」の限界

では、この人口減少期に都市はどのように縮小しているのか。

本書では、その前にまず都市の戦後の発展を振り返っている。それは「スプロール(虫食い)」という言葉で表現されており、農地改革により土地が細分化されていった結果、個々人による分散した土地利用の意向を計画が捌ききれず、土地利用の混在が連なりながら拡大したのが日本の都市だという。

こうして元々の状態に比べるとかなり細分化された土地は、引き続き土地利用者の個々の意志やライフステージに応じて姿を変えていく。

ある住宅地で、ある家は既に数年前から空き家になっているのに、その隣では、その同じ大きさの家を取り壊してさらに3分割したような小さな住宅が売られていたりする。つまり、縮小と拡大という全く異なる減少が隣り合わせで起きることになる。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

都市は周縁からじわじわと縮小していく素振りを見せるわけではない。大きさは変わらず、しかし見えないところでぽつぽつと小さな穴が不規則に出現する。この現象を筆者は「スポンジ化」と名付けている。

「スポンジ化」を前提とすると、「コンパクトシティ」という構想は揺らぐ。都市は周縁から中心に向かって一様に縮小するのではなく、都市の中心部も外縁部も全体としてランダムに空間変化を起こすのだから、中心の集約化、高密化を実現するには、結局、人の移動を伴わざるを得ない。しかし、実際問題として1軒1軒動かすコストを行政が負担できるだろうか。

「コンパクトシティ」という提案が魅力を失うとしたら、ますます「スポンジ化」する都市をどう再編成すればよいのだろうか。

成長が止まり空間に余裕が生まれる時代の都市計画

これまでの都市計画は「中心×ゾーニングモデル」と位置づけられるが、各々成長する商業、工業、農業、住宅が都市の中で対立しないことを目指しそのために都市空間をゾーンに分けたものだった。

これからは、成長が鈍化し、空間に余裕ができるため、その対立を回避するためにゾーンを区切る必要性は下がる。そこで提案されるのが「全体×レイヤーモデル」だ。

中心×ゾーニングモデルから全体×レイヤーモデルへの大きな変化は、都市拡大期の都市計画が行っていた、大きなゾーン、巨大な青い鳥、大きな開発の組み合わせに寄る粗っぽい制御ではなく、スポンジ化によって小さな単位でしか動かない空間に対して、そこに顕在化している複数のレイヤーの可能性を読み取り、それを組み合わせながら空間のデザインを丁寧に組み立てていく、というスタイルへの変化である。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

「用途純化」とは逆に、小さな空間単位で様々な用途を混在させる。都市施設及び都市開発事業を小規模化させる。それがこれからのマスタープランとなる。「スポンジ化」が生み出す小さな穴は、小さく埋めるしかないのだ。

そこで描けるのは、せいぜい「スポンジの穴があいたら、このあたりにこういう機能が欲しい」という、大きな領域に対する「欲しいものリスト」のようなものではないか。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

読書の振り返り

改めてブログにまとめてみると、非常に分かりやすくロジカルに記述されている印象を持つ。それは、本書後半に紹介された事例のおかげもあると思う。

高度経済成長期と人口減少期の都市計画が同じであるはずがない、というのはあまり深く考えなくてもわかることなのだけれど、本書を読んでようやくそれが当たり前のこととして意識できた。

一連の主張を批判的に読む力量はまだ持ち合わせていないが、ひとまずは都市を「たたむ」という視座と、「スポンジ化」というフレームを持ってまちを見るようにしたい。

これは都市に限ったことではなく、これまでの常識を客観視し、これからのあり方を考える上で広範囲に応用可能な気がしている。それについてはまた次の記事にまとめてみたい。

関連する記事