カテゴリ:読書の記録
2015/10/10
借り物なので、気になったところをここに簡潔にまとめる。
支援の提供者から利用者に近づいていくこと、どうすればその人たちに直接会えるか、頭を柔軟にして真剣に考えること、これがトロントで成功している支援に共通したポイントだったと思います。
社会で子どもを育てる―子育て支援都市トロントの発想
トロントの子育て支援の充実ぶりもさることながら、
やはり気になるのは「どうすれば充実させられるのか」だ。
端的にさらりと書かれているのが、かえって目を引く。
著者が訳した「実践コミュニティワーク」が
まさに具現化されていると言っていい。
現場へ足を運び、そこにいる人たちの声を聴く。
いや、声を聴くだけじゃダメで、その人たちと関わり、
信頼を一つ一つ積み上げていくという先にしか、
地に足の着いた実践は為しえないということなのだろう。
この一文に出会えただけでも、本書を手に取る価値はあった。
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カテゴリ:世の中の事
2015/07/26
『学び合い』との出会い
最近、文科省がアクティブラーニングを喧伝している。
直訳すれば「能動的な学習」であり、要は学習の形態として
伝統的なチョーク&トークは受動的であり、
もっと生徒が能動的に取り組めるようにするべきだ、ということ。
具体的な方法は幾らでもある。
先に「伝統的な」という枕詞を付けたが、
「調べ学習」や話し合い活動は少しくらい経験するはずだ。
最近はより抜本的に授業形態を変える手法が増えているらしい。
『学び合い』というのもその一つだ。
実践者に話を聞いてみると、これが面白い。
授業形態の話だったはずが、最終的には「人間観」の議論になる。
端的に言えば、「性善説」か「性悪説」か。
『学び合い』は「性善説」の信念の具現化を試みるものであり、
世に言うアクティブラーニングもきっとそうであるはずだ。
逆に言えば、「人間観」の転換なくして
アクティブラーニングは成功しない、と僕は思っている。
それがアクティブラーニングの最も難しい点だろう。
誰か一人で何とかする時代などではない
ここまで「教育」について述べてきたが、
別に「まちづくり」や「政治」の分野でも同様のことが言える。
田舎はもちろん日本全体で見ても
今後確実に人は減っていく。
効率を重視し、分業を推し進めてきた結果、
専門化・資格化した分野から特権化が始まり、
「中央集権」とか「官僚制」なんてものが生まれた。
この説明が正しいかどうかはわからないけど、
言いたいことは「みんなでやらないと回らないんだ」ってこと。
「授業」も「まちづくり」もたった一人が責任を負って
成功裡に導かなければならないなんて時代は終わる。
スーパーな人材なんて幾らもいないのに、
そうした人材が必要な現場は増える一方なのだから。
『学び合い』は教師だけでなく全生徒が
「一人も見捨てない」を合言葉に授業をつくっていく。
なんだ、これこそまちづくりじゃないか。
手法とか授業形態とかそんなんじゃなくて、
結局コミュニティづくりの問題なんだ。
アクティブラーニングを推進する流れは
大学入試改革と連動して今や待ったなしの状況。
過疎に苦しむ離島中山間地域は勿論のこと、
地方都市レベルでも土砂崩れの予兆が出ている。
きっと、問われているのだ。「人間観の転換」を。
今更こんなことに気づいてしまった。まだ遅くないと願いたい。
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2014/09/25
Twitterで割と反応がよかったのでブログでまとめてみることにした。
海士町に住んでいるとそれなりにワークショップに参加する機会があるが、
海士町内で体験したものは大きく3種類しかなかったことに気づく。
1.給与をもらう仕事とは異なる趣味や興味・関心に基づく場でのアイデア出し
2.内省や対話、関係性構築の契機となるような仕掛けのワークショップ
3.実際に物を作ったり体を動かすようなワークショップ
職場で合意形成のためにワークショップをした記憶がない。
海士町の暮らしの中でも”まちづくり”の文脈で合意形成の方法として
ワークショップを選ぶということはほとんどなかったと思う。
逆に言えば何かを決めるときにワークショップをするという発想がなかった。
合意形成ワークショップが必要なかった、ということだ。
それでも世の中は合意形成ワークショップを求める
一方、「合意形成ワークショップ」で検索すれば、
いろんな地域でそれが行われていることがすぐわかる。
ぱっと見た限りでは、行政主導のものが多そうだ。
合意形成は目的でなく手段であって、
みんなでやろうと決めたことをちゃんとやれるかどうかが大事。
それがわかっていればわざわざワークショップでなくても良い気はする。
成果が上がるかどうかはやるかやらないかだけ。
そのために何かをみんなで決める必然性もない。
”まちづくり”をしている”つもり”で終わらないために
仲間内でワークショップをやる虚しさがここにある。
気の知れた仲で合意形成できたことが即”まちづくり”につながるわけではない。
繰り返しになるが、”まちづくり”のためにワークショップをしないといけない理由はない。
「仲間内でやる」が目的なら、それを”まちづくり”と混同してはいけない。
何か特別なことをしないと”まちづくり”と言えないというのもおかしい。
これは裏を返せば当たり前に暮らす人に対する敬意を欠いているということだ。
それよりは(抽象的な誰かのためにではなく)自分たちの暮らしを楽しくするために、
とはっきり自覚してわいわいがやがややってる方がよっぽど健全なのではないか。
上澄みを掬い取って”まちづくり”とか言っている場合じゃない、と思う。
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