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日本人が本当に語り継ぐべき「美談」を考える

カテゴリ:自分事

日本人は、誰でも無条件に成功できる、という話を面白がらない、ということを先日ブログに書きました。

ありとあらゆることに、「美談」の持つ「条件付き」という要素を求めずにはいられないのです。
突っ込んで言えば、成果を出すためには何らかの条件を(各個人が)満たさなければならない、という心理が背景にあるのではないか、ということです。

(中略)

こんなことを書き出したのは、「自己責任」という言葉や思想に敏感なことが理由として挙げられると思います。
条件を個人に求めてしまう傾向は根深いもののように感じてしまうのですが、それによって、その問題を生み出しているより大きな構造を捉える視点や、事実ベースで仕組みや枠組みを評価する視点が損なわれてしまっている、というところに、僕の問題意識があります。

日本人は「自分で何とかする」美談が大好き?

以前に記したように、そのような発想の裏には「自己責任」が病原として日本社会に潜んでいる、と思っています。

実際、「自己責任社会」は、グローバル社会の到来により増幅された人々の不安を基礎に成立してきました。

経営者や成功者の著書が氾濫し、「自己啓発」が世を謳歌する現代日本をずばり言い当てているような指摘がなされています。
「私はこうやって成功した」という”伝記”は、「だからあなたも成功できる」と鼓舞するかのように囁きかけてきますが、その裏では「つまり、あなたが失敗するのは、あなたのせいだ」という冷ややかな視線を浴びせられるかのように感じる人もいるでしょう。
あたかも「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことに」するかのように。

「コミュニティ 安全と自由の戦場」前編:自己責任社会の到来

一人ひとりが個別に不安と戦わなければいけない時代においては、自己啓発的なメッセージが大量に流通します。
そこにおいて「誰もが成功できる」という言葉は、現状にそぐわないように見えるばかりか、成功者にとってはむしろ不都合ですらあります。
個人個人の才能や努力で何とかする必要のある時代だという認識があってはじめて、成功者が周囲から「成功者」として認められるからです。

この流れと関連して、日本では座学の研修や職業訓練の効果は軽視される面があり、むしろOJT至上主義になりがち、という指摘もしました。
しかし、日本と先進諸国を比較すれば、高校における専門科の数やOff-JTの研修に対する認識には差が出てくると思われます。
「面白いかどうか」と「効果があるかどうか」が、日本では混同されがちなのかなという印象すらあります。

「誰もが成功できる」ことって、本当にありえないの?

ところで、「誰もが成功できる」話ってないのでしょうか。

僕がはたと思いついたのは、小中学校の「部活」でした。

僕は中学のときにソフトテニス部に入っていましたが、(自分の実力と真面目さを棚に挙げれば)各校のレベルを左右する最も大きな要因は、何よりも「指導者」の存在だと思います。
実際、中2のときに女子の顧問となった先生はそりゃあもうバリバリの人で、相当過激な指導の下、僕の同期は1ペアが東北大会にでるほどの実力を身につけ、うち1名は私立高校へのスポーツ推薦を果たしたのでした。

僕が教育実習で中学に戻ったときにも、女子は郡内では有数の指導者に恵まれ、僕の目の前で見事郡総体優勝を遂げました。
一方、男子は指導者に恵まれなかったようで、僕らのときと同等の成績に留まっていました…。

このソフトテニスという競技は基本的に個人戦で、かつ小学校で部活があるところはあんまりない、という特徴があります。
つまり、中学の指導者で結構上を目指すことができる、もっと言うと、多くは中学の指導者次第、ということになります。
(もちろん、個人の能力や努力も重要な要素ではありますが)

優れた指導は、指導される側に依存せず効果を生む

優れた指導者は、指導される側の性格や意欲、能力の差があったとしてもそこに責任転嫁せず、どの相手にも効果が出るような指導をします。
これは部活指導に関わらず、教科教育にも企業研修にも求められることです。

「美談」は常に個人に対して努力や才能と言った「条件」を要求します。
したがって、例えば教員が「美談」 を語りだしたときには、生徒は非常に注意深くならなければいけません。

オレの指導が悪いのではない。お前らが悪いのだ

「美談」の甘い響きの中に、教員のふざけた態度が隠れているかもしれません。
「自己責任」の論理を他責の論理に擦り変える指導者は、今の時代が生んだ害悪であると言えます。

優秀な指導者が優秀たる由縁とは、相手が誰であっても効果を出す指導ができる、という点に尽きるでしょう。
本当に語るべき「美談」は、「面白いかどうか」ではなく、「効果が出るかどうか」にフォーカスすべきではないか、そんなことを考えてしまいます。

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「コミュニティ 安全と自由の戦場」前編:自己責任社会の到来

カテゴリ:読書の記録

今年の1月末に購入したものの途中で挫折して放置していた本書。
久々に手にとって見たら、独特の文体は相変わらずなものの、読み応えを感じながら読破できました。

「コミュニティ」という言葉は至るところで耳にしますが、他の多くのものがそうであるように、その背景には「コミュニティ」自身が崩壊しつつある、ということと、「コミュニティ」の効用が求められている、という現代社会の二つの側面が潜んでいます。
本書は、「グローバル化」―資本主義の浸透―と社会の変化を振り返りつつ、現代社会で表面化する幾つかの問題について「コミュニティ」を中心に据えながらその構造にメスを入れる、というような構成になっています。

ここで告白しますが、(恥ずかしながら)僕は再読するまで「グローバル化」が本書のキーワードであることをはっきり認識していませんでした。
そのためもあって、読後、本書に描かれている「グローバル化」とコミュニティの変遷の関係を反芻するにつけ、じわじわと感動が湧き上がってきています。

「コミュニティ」。ぼんやりと、方向性も特に定めずに、自分なりに探究していたテーマ。
僕がこれまでのブログで触れてきた要素が、本書にはちりばめられています。

この記事のまとめ

驚くほど長いので、先にまとめを書いておきます。
ちなみにこれで前編です…。

・コミュニティは、安全と等価であるが、代償として「自由」を支払わなければならない。
・人間は、安全と自由の両立を求めるが、実際にはそれは両立し得ない。

・近代は「個別化」という現象を呼び、人々に自由への欲求を喚起させたが、実際に自由のメリットを享受できるのは限られたエリートたちだった。
・安全なコミュニティが個別化の風潮に解体され、社会的な統制がつかなくなった(と一方的に考えられた)「大衆」は、労働者として監視、管理の元に置かれるようになった。
・権力者が大衆を積極的に監視、管理するコストは増大していった。

・資本主義が一層浸透するにつれ、経営者はダウンサイジングやアウトソーシングを取り入れ始める。変化は激しくなり、不確実性が社会を席巻するようになった。
・社会が確かなものを提供できなくなり、大衆は個々別々に不安と対峙し、自分の身の回りを守るために競争する必要が生じた。
・権利上の機会は一見平等に保障されているものの、結果については格差が一層強化されるようになっている。

コミュニティとは何か

(本書を読んでなお、コミュニティを定義することには気が引けてしまいますが、)著者の立場を端的に示す一文が、終章の冒頭に記されています。

わたしたちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティは「安全」と等価です。そして、無条件で得られるものではありません。

「コミュニティの一員である」という特権には、支払うべき対価がある。コミュニティが夢想にとどまっている限りは、対価は害にならないが、目につくこともない。対価は、自由という通貨で支払われる。この通貨は、「自律性」「自己主張の権利」「自然にふるまう権利」など、種々の表現で呼ぶことができる。どのような選択をするにせよ、得るものもあれば、失うものもある。コミュニティを失うことは、安心を失うことを意味する。コミュニティを得ることは―たまたまそんなことがあればだが―即座に自由を失うことを意味する。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「安全」と「自由」を取り巻くこのジレンマは、多くの現代人が抱えているものです。
多くの人は「安全」と「自由」の両立を”夢想”し、努力を重ね、そしてほとんどの場合、それは夢想のままで終わっています。

コミュニティを脅かしたもの―近代主義

コミュニティが「安全」を提供するもの、と認識されるということは、逆に言えばそれが客体化されるような歴史的背景がそこにある、ということでもあります。
人間がコミュニティの当事者でなくなり、コミュニティが求められる対象となる(認識されるものとなる)までの変遷を、著者は近代以前、近代、現代と時間軸に沿ってまとめています。

コミュニティは、家庭内手工業から工場制手工業へ徐々に移行してきた、あるいは貿易が盛んになってきたという時代において危機に直面しました。
「自由」を獲得し、謳歌するためには、直感的に理解できるように、十分な資産が必要となります。
徐々に富を持つ人が現れるようになった結果、条件をクリアできる一部の人たちから、自由への憧れが芽生え始めます。
(もしかしたら、そのモチベーションには「コミュニティからの撤退」も含まれていたかもしれませんね。)
著者は、ジャン=ポール=フィトゥーシとピエール=ロザンヴァロンの研究からの引用を紹介しています。

近代的個人主義は、人々の解放の動因であり、自律性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、だれもが未来に責任をもち、人生に意味を与えなければならなくなる。人生の意味は、もはや外側の何かがあらかじめ与えてくれはしないのである。

コミュニティ 安全と自由の戦場

この表現は、現代を生きる私たちにも、ストンと腹に落ちてくるものではないでしょうか。
「近代性のトレードマークと言うにふさわしい個別化」という潮流が、安心と自由が取引される土壌を生み出したのです。
こうしてコミュニティの束縛は、資本主義の浸透と、自由への憧れという時代の流れとともに、解放の道を歩むこととなりました。

しかし、先に述べたように、「自由」を獲得したとしても、その効用を最大限享受できるものは、一部の人間です。
そうでない人々―自由という大海で不安に溺れる人―を、フロイトは「大衆」という言葉で表現し、「怠惰で知能が低い」とばっさり切り伏せてしまいます。
こうして大きく二分された勢力にそれぞれ呼応する形で、近代社会は二つの顔を持つことになります。

ピコ・デッラ・ミランドラの仲間たち(※引用者注:著者の用いるレトリックで、富裕者や有力者を指す)にとっては、文明とは「自分を自らの望み通りのものにする」明るく澄んだ呼びかけであり、この自己主張の自由に制限を設けることは、おそらくは文化的秩序のための避けがたい、しかし悲しむべき義務であり、支払う価値のある代価に該当した。「怠惰で情念に支配されている大衆」にとって、文明は何よりもまず、かれらがもっているとされる不健全な傾向を抑制することを意味した。そのような傾向は、もし解放されたならば、規律正しい共同生活を破壊するものとされたのである。近代社会のこの二つの部分に属する人々にとって、提供される自己主張の機会と要求される規律のミックスの割合は、まったく異なっていた。
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

「コミュニティ」の慣習や決まりといった「古いルーティン」から解放された怠惰な大衆を、「産業革命」と呼ばれたムーブメントの中で「工場」に引っ張り出して「仕事」に縛り付けるためには、「新しいルーティン」が必要だったのです。
そうして、常に大衆を監視し、管理し、規律を強要する「パノプティコン(一望監視施設)的」な権力が形成されていったのでした。

一言で言えば、大転換の時代は、関与 engagement の時代であった。

コミュニティ 安全と自由の戦場

前世紀的な近代の特徴として、支配者と被支配者は共に依存する関係であったことが挙げられます。
労働者が働かねば、工場主はその富を増大させることができないわけですが、そのための方法として、権力を持つ人々は積極的な「関与」、つまり管理を強める方針をとったのが、産業革命初期の時代でした。

しかし、このパノプティコン型の権力は、コストがかかり、しかも膨れ上がる一方、という欠陥を持っていました。
(部下がきちんと仕事をしているか疑えば疑うほど、マネージャーの時間が管理にばかり費やされてしまうように)

「リキッド・モダニティ」と撤退、そしてエリートの離脱

積極的に被支配者に関与し、規制を強化する、といった状況は昨今ではそこまで見られません。
むしろ、「規制緩和」という言葉の方が、馴染みがあるのではないでしょうか。

今日巷で話題の「規制緩和」を、権力者のだれもが戦略的原則として称賛し、実際に採用している。「規制緩和」は、権力者が「規制」されること―選択の自由を制限されたり、移動の自由を抑制されたりすること―を望まないという理由で、人気がある。しかしまた(おそらく第一義的には)かれらが他者を規制する関心をもうなくしていることが、その理由である。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「大いなる関与 engagement」の時代から、「大いなる撤退 disengagement」の時代へ。
キーワードは、 変化、スピード、不関与、フレキシビリティ、ダウンサイジング、アウトソーシング。
ここには富のさらなる拡大の意図と同時に、強固な関与を前提とした「固定的近代」への反省―コストの増大―が見られます。

この時代において、権力者の支配の基盤は、「恒常的な不安定性」にシフトします。

わたしたちはみな不安に襲われる。流動的で予測できない世界、すなわち規制緩和が進み、弾力的で、競争的で、特有の不確実性をもつ世界に、わたしたちはみなすっかり浸っているのだが、それぞれ個々別々に己の不安にさいなまれている。つまりは私的な問題として、個々の失敗の結果や、自身の臨機応変の才あるいは機敏さへ挑みかかるものとして、不安に見舞われるのである
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

不安を個人がそれぞれの形で抱えざるを得ないこの社会を、ウルリッヒ・ベックは「リスク社会」と呼び、著者は「リキッド・モダニティ」と表現しました。
その不安に対峙するために、「大衆」と称された人々は自己に投資し、競争し、自分で自分の身の回りの安全を確保するように動かざるを得ません。
ここにおいて権力による積極的な統制は不要となります。

一方、エリートたちの振る舞いはどのように変化したのでしょうか。彼らの言い分はこうです。

他の人々がいまのかれらのようにふるまいさえすれば、かれらのようにならないはずはない、と思っている。

コミュニティ 安全と自由の戦場

経営者や成功者の著書が氾濫し、「自己啓発」が世を謳歌する現代日本をずばり言い当てているような指摘がなされています。
「私はこうやって成功した」という”伝記”は、「だからあなたも成功できる」と鼓舞するかのように囁きかけてきますが、その裏では「つまり、あなたが失敗するのは、あなたのせいだ」という冷ややかな視線を浴びせられるかのように感じる人もいるでしょう。
あたかも「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことに」するかのように。
そして彼らグローバルズは、自らを縛る関与を我慢してまでコミュニティの恩恵を預かる必要は、もはやなくなるのです。

自己啓発がはこびる風潮は、「権利上の個人(de jure)」と「事実上の個人(de fact0)」のギャップが激しい現代だからこそ起きうることです。
成功者が言うように、現代社会はあたかも「誰もが成功できる」状況にあります。
例えば、機会均等という言葉は、この状況を端的に表しています。
しかし、実際問題として、多くの人が成功にありつけるわけではない、という現状も多くの人が実感していることでしょう。
というよりむしろ、資本主義は競争を煽り、限られた成功者が自身の自由を維持するために格差を一層助長したり、再生産するという循環を作り出している、と言っていいかもしれません。

このギャップを、例えば苅谷剛彦は「自己実現アノミー」と呼びました。
キャリア教育の名の下に「社会人基礎力」なるものを身につけ、就職実績を出すことを被教育者に求められていますが、しかし実際にはすべての人間がその要求を叶えられるわけではありません。
社会に要求を突きつけられながら、しかし一方でその要求を実現するためのレールは提供されず、自分で何とかしなければいけないのです。

終わりに―前編を書き上げてみて

特に、「不確実な近代(リキッド・モダニティ)」の記述において、著者は、「自己責任社会」と指摘される日本の現状を的確に表現しているように思えます。
個人的に、「コミュニティ」や「自己責任」という言葉は僕がばらばらにしか考えることのできなかったテーマであり、本書を読んだことで一つの視点を得たことは有益でした。

こうまとめてみると、まるで「当たり前のこと」のようにも思えてしまいますが、僕にとってはだからこそ説明しがたい類のものであったように思います。
「当たり前」のこと、経験的に馴染んでしまったものを客体化し、議論の俎上に載せるというのは、実は大変骨の折れる作業です。

前編では、本書の記述に沿って主に時間軸でコミュニティやそれを取り巻く社会の変遷を追ってみました。
後編では、さらに現代の問題がコミュニティという切り口でいかに語られるかをまとめて行きたいと思います。

※あからさまにおかしいところはぜひご指摘いただけると喜びます。

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日本人は「自分で何とかする」美談が大好き?

カテゴリ:自分事

なんとなく書きたくなったので、スレタイの通りのひきこもり糞クズニートがボランティアにいった話を書いていこうと思う

ひきこもりのくせに被災地へボランティアにいってきた:ハムスター速報

週末にかけてTwitterやはてブで話題になった記事。
ネタバレすると、ひきこもり生活から一点被災地支援に加わり、活動を通じて温かい人のつながりに触れ、その縁によって新しい仕事を得るにまで至る、というお話。

こう書いてしまうと「よくある美談」に聞こえますが、本人が語っているためか知らないけれど、個人的には感動しました。
やっぱり、こういう話って、心温まるというか、励まされますよね。

日本人って、こういう美談が好きだよね。

そこでふと思ったこと。
テレビでもインターネットでも本でも、こういう話って至るところで好まれるものだよな、と。

「こういう」を一言でまとめると、「自分で何とかする」に尽きるように思います。
「自分の力」というのは、努力とか、その人自身の個性や性格によって引き寄せた人の縁や幸運とか、そういった類のものをひっくるめています。

残念ながら、 単なるラッキーや偶然に僕らは心を動かされることはありません。
せいぜい「こういう人がいるらしいよ」「へー、うらやましい」くらいの、話のネタにしかならないでしょう。

それはたぶん、「美談」がその人に舞い降りた理由を欲しているからではないでしょうか。
そして、その欲求とは詰まるところ、「再現性」=「こうすればできる」という教訓を得たい、という思いに根ざしているのではないでしょうか。

長い余談―Off-JTや職業訓練が軽視される理由

「日本人がOff-JTや職業訓練を、現場経験やOJTよりも軽んじる」わけも、この心理の中に隠されているんじゃないか、ということをはたと思い立ちました。

集合研修や職業訓練、あるいは専門学校の授業で培った経験について、軽視する傾向はいたるところに見られます。
たとえば、このQ&A。

職業訓練校の訓練内容についてはほぼその内容です。
基礎的なことしかできない上に(その上教えている内容が古いこともある)
卒業した訓練生は、それで一人前だと思っているケースが多くかなり厄介な場所だったりします。

スキルアップという意味だけで言うのならば、半年間職業訓練所に通うよりも
半年間派遣として同じ業務に就いたほうが遥かに実力はつきます。
下手に職業訓練所に行き妙な癖や偏った知識をつけるくらいならば
その年齢ならば、未経験とはいえ実践の中で知識を増やした方が長い目で見たほうがプラスにはなるでしょう。

職業訓練の意義(転職希望者) | OKWave

たとえば、「若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来」の著者、城繁幸氏のこのブログ記事。

というのも、最大の問題は、こんなザル政策でも文句の一つも出ないほどに、そもそも職業訓練のニーズが日本社会に少ないという現実だ。

理由は、日本企業は職務ベースではなく、「新卒・正社員・総合職」といった出自に基づいた身分制なので、そもそも職務というものへのニーズが薄いためだ。 “博士”という最高の訓練を受けた人材でさえ敬遠される国。悲しいけど、それが日本の実情である。

ついでに言えば、こういった失業者のスキルアップというものは、現役正社員との自由競争状態において、はじめて一定の効果を持つ。 江戸時代の農民は勉強しても武士にはなれなかったし、そもそも勉強しようなどとは思わなかったろう。身分制度が崩れる明治維新までは。

職業訓練なんて誰も求めちゃいない – Joe’s Labo

城氏に関しては、職業訓練のニーズの薄さについてその制度的・文化的構造にも言及していますね。
僕は、心理的な側面というか、日本人の性質の理解として、上述の「美談」への関連付けが有効なのではないかと感じました。

「美談」の肝は「条件付き」、つまり「○○すれば」できる、という構造を持っている点にあります。
条件を満足させること、ハードルをクリアすること、それ自体が「美談」を彩っているということかもしれません。
また、条件があることで、(良し悪しは置いておくとして)「できなかったときの言い訳」も容易に準備できます。

翻って、Off-JTや職業訓練は「それを受ければ誰でも」知識や技能を習得できることを目的とします。 
もちろん結局は真面目に受講して内容を習得することは必要ですが、大前提として「誰でも」、つまり条件がない、ということがあるはずです。
それが、見ている側からすれば面白くない(「美談」足りえない)のです。

職業訓練が卑下される構造は、先に引用したQ&Aの回答者の言からも読み取ることができます。
回答者は職業訓練を受けても必ずしも成果が出るわけではないことを指摘し、職業訓練を暗に否定している印象を感じざるを得ません。 
ありとあらゆることに、「美談」の持つ「条件付き」という要素を求めずにはいられないのです。
突っ込んで言えば、成果を出すためには何らかの条件を(各個人が)満たさなければならない、という心理が背景にあるのではないか、ということです。

終わりに

こんなことを書き出したのは、「自己責任」という言葉や思想に敏感なことが理由として挙げられると思います。
条件を個人に求めてしまう傾向は根深いもののように感じてしまうのですが、それによって、その問題を生み出しているより大きな構造を捉える視点や、事実ベースで仕組みや枠組みを評価する視点が損なわれてしまっている、というところに、僕の問題意識があります。

日本企業は他の先進国に比べてOJTが圧倒的に多い、という指摘があります(たとえば―自分らしいキャリアのつくり方)。
逆に言えば、他の国では日本よりもOff-JTの効果を認識している、ということではないでしょうか。

軽視された施策は、必然的に改善のための投資も後回しにされがちなため、気づいたときには手遅れ、というパターンは結構ありがちです。
条件を求め、適応できる(=自己責任で何とかできる)人材だけを採用する、という日本の新卒採用の風潮にも一言添えたいところです。

※とはいえ冒頭の話は、本当に良い話だと思いますよ!

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