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「生活保障-排除しない社会へ」に見る、これからの日本のヒント

カテゴリ:読書の記録

一年以上前に購入したものの、なんとなく消化不良のままだった本書。
最近改めて読み直してみたので、ここにまとめてみたいと思います。

生活保障=雇用+社会保障

まずはじめに、「生活保障」とは「生活保護」とイコールではありません。
著者の宮本太郎氏は、生活保障を「雇用」と「社会保障」の組合せの上に成立するものとしています。

本書の中では、雇用をロープ、社会保障をセーフティネットとして綱渡りのように例えていましたね。
基本的にはみなロープをたどって先を行くわけですが、時にはロープが切れたり、誤って落ちてしまうこともありえます。
そんなときは、(もう一度ロープに戻るためにも)セーフティネットに一旦受け止めてもらう必要がある、というわけですね。

これだけだと何のことかあまりよく分からないかもですね。
概念的なところを理解するために、このたとえを用いて各国の生活保障を表現すると次のようになるかなと。

・日本:「一本のロープで全部まかなえばいいじゃん!

日本の雇用慣行として、一つの企業にずっと雇われる終身雇用がベースとしてあります。
また、その対象となるのは基本的に男性で、女性は被扶養者として家族ごと男性の収入に支えられるモデルとなっていました。
つまり、「しっかりしたロープを一本用意すれば家族も含めてみんなゴールまで行けるでしょ?」という発想だったわけです。

ところが、ご存知の通り「しっかりしたロープ」自体が稀有になりつつあります。
ロープが突然切れたり、もともとロープの長さが決まっていたり、渡り切るには細すぎたり。
そんなロープが増えると当然ながらアクシデントでロープから落ちる人も出てくるわけです。

しかしながら、これまでの日本の発想においてはロープから落ちる(あるいは降りる)人のことは想定していません。
(つまり以前からシングルマザーの存在は日本の制度設計の構想外だったわけです)
当然ですよね。しっかりしたロープを張っていれば大丈夫と思っていたわけですから。

・スウェーデン:「古いロープはすぐ切れるから、新しいロープをどんどん張ってこうぜ。

対してスウェーデンはどうなっているかというと、スウェーデンは雇用保護法制が強い。
つまり、簡単には辞めさせられない仕組みになっていますが、一方で労組は個別の労使関係を保護するよりも積極的労働市場政策の下で雇用を流動化させながら完全雇用の実現を目指しています。

この考え方のベースになっているのは「就労原則」という言葉。
スウェーデンでは「皆が働くべき」という価値観が非常に強い。
じゃあどうやってその思想を実現しているかというと、「ハイロードアプローチ」という戦略がその答えです。
つまり、生産性の低い斜陽産業を守ることで雇用を保護するのでなく、失業者も高付加価値産業にどんどんシフトさせ、同時に労働市場外で職業訓練等スキルアップの機会を用意するわけです。

古いロープを修繕するのではなく、新しいロープをどんどん張っていく。
そして新しいロープをみなが掴めるようにセーフティネットのトランポリン(失業者を労働者に戻す)機能を強化する。
日本とはずいぶん異なるアプローチであることがお分かりかと思います。

ところが、高付加価値産業はそもそも雇用収容性が低い(たくさんの人を雇う必要がない)。
それによって徐々に新しいロープにありつけない失業者が増えてきているという問題も出てきています。

デンマーク:「とにかくみんなロープを渡ろうぜ。たとえロープから落ちたとしても何とかするぜ。

デンマークといえば「フレキシキュリティ」という言葉で知られるとおり、労働市場の柔軟性を担保しつつ社会保障を組み合わせた体制によって失業の抑制を試みています。
デンマークは同じ北欧であるスウェーデンと異なり、雇用保護法制は弱い。
その分労働市場が柔軟であり、かつ積極的労働市場政策に基づいて職業訓練プログラムが多数用意され、しかも長期にわたる失業手当がある。
デンマークの労働市場は辞めやすい(し辞めさせやすい)、流動的な環境になっています。
そのため、転職率も非常に高い(年間に労働者の3分の1が転職)。日本とは世界が違う感じがしますね。

スウェーデンと異なるのは、労働力を生産性の高い部門へ誘導していないこと。
労働力の動向は市場に委ねられているのです。

セーフティネット(失業手当と職業訓練)の充実によってロープから落ちることが怖くないという状態を作れれば、確かにロープを渡る恐怖は和らぐでしょう。
雇用のみでなく、社会保障も含めて生活の保障を図るので高負担・高福祉型の社会にならざるを得ませんが、中小企業の多いデンマークにおいては雇用に頼ることの限界が早くから認識されていたのかもしれません。

 

このような比較の仕方ではどうしても日本が見劣りしてしまいますね。
著者も、これまでの日本の「殻の保障(雇用自体を保障)」から北欧型の「翼の保障(労働市場の流動化を前提に新しい雇用への道を切り開く)」への転換を主張しています。

重要なのは、雇用だけで生活を保障することの限界が指摘されている点です。
社会全体でセーフティネットの充実を図らなければ、失業者どころか、被雇用者すらも安心して働くことができない社会がじわじわと到来していることを認識するべきでしょう。

新しい生活保障の4つの観点

 本書の第4章にて、著者は新しい生活保障には以下の4つの視点が必要だと述べています。

柔軟性
男性が稼ぐという従来の日本型雇用は限界を迎えています。
家族構成を見ても核家族化が進み、ひとり親世帯数も昔の比ではありません。
ライフスタイルが多様化する中、一通りのレールを用意するのではなく、各自の状況に柔軟に対応した制度が求められます。

就労を軸とした社会参加の拡大
ここが著者の面白いところで、人は雇用によって「生きる糧」を得るだけでは生きていけない。
他の人とつながり、承認される「生きる場」 もまた必要である、という立場をとっています。
当然ながら、働くことを通じて人は社会参加を果たすことができます。
そのためにも働けない人をサポートする職業訓練や職業紹介、さらには保育サービスなどといった制度の充実が求められます。
また、仕事の人間関係だけで閉じないためにも、地域の自治活動やNPO,ボランティア活動への参加を促す方向も意識するべきでしょう。
実際、このような考え方はソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)と呼ばれ、ヨーロッパでは広く注目されています。

補完的保障
雇用の二極化が進み、すべての人が仕事を通じて大きな見返り(つまり、所得)を期待することが難しくなっています。
その問題は例えば日本においても「ワーキングプア」という形で露呈しています。
最低賃金の引き上げや均等待遇の徹底は当然のことながら、勤労所得以外にも公的な保障を組み合わせることで生活を維持できる状況をつくるが求められるでしょう。

合意可能性
生活保障は広く国民の合意を得られるものでなければなりません。
というのは非常に当たり前のことに聞こえますが、個人化・流動化が進み、人々が個別具体的な課題を抱えている昨今においては、大多数による合意形成は非常に難しくなっています
実際、「格差」問題が叫ばれる中でも、日本の社会保障改革は一向に進まず、むしろ社会保障の引き下げを望む声も大きくなっています。
これは、「格差」の問題が我が事でない人たちが大多数を占めているからです。
(おいおいは自分たちの問題になりうることには気づかずに)

このような状況では政治もポピュリズムに陥りやすくなります。
公務員は日本人の共通の敵としやすく、そのため国家公務員の給与が引き下げられました。
それによって一体誰がハッピーになるのか、浮いたお金でどうするかはさほど問題でなく、敵を引き摺り下ろすことが第一というわけです。

こんな状況で合意形成は非常に難しい。だからこそ合意可能性が問題に挙がるわけです。
そのためにも公正で透明度の高い制度設計が求められるでしょう。

アクティベーションという考え方

 上記4条件を満たすものとして、本書では「アクティベーション」という考え方が紹介されています。

社会保障の目的として、人々の就労や社会参加を実現し継続させることを前面に掲げ、また、就労および積極的な求職活動を、社会保障給付の条件としていこうとする発想である。スウェーデン型生活保障や、イギリス労働党が掲げた「第三の道」がこの議論の系譜に属する。

※太字は引用者による

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

「就労及び積極的な求職活動を、社会保障給付の条件としていこうとする」とはどういうことでしょうか。
具体的には、失業者に対して無条件にではなく、職業訓練を受けることを条件として失業給付による所得保障がなされる、といった具合です。

アクティベーションは、人々がその生涯でさまざまなタイミングで働き始めたり退職したりすることを前提に、就労と社会参加の支援をする。その限りで柔軟な、つまり多様なライフスタイルに対応した生活保障である。また、就労を軸とした参加の拡大については、これこそがアクティベーションの目的であり、職業訓練や教育などに政策の重点が置かれる。
(中略)
さらにアクティベーションは、就労を奨励するために、労働市場の見返りを高める所得保障改革も重視する。たとえば、スウェーデンの社会保険給付が現行所得に強く比例するかたちになっているのはその一例で、所得比例給付は就労意欲を高め た。
(中略)
さらにアクティベーションは、合意可能性の高い生活保障であると言える。なぜならば、「ただ乗り」の可能性があるベーシックインカム型の生活保障に賛同しない人々も、「自助の公助」という観点から就労を支援することには支持をよせるからである。

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

著者はアクティベーションについて4条件に照らし合わせてこのような評価をしています。
では、雇用と社会保障をより密接に連携させた「生活保障」のモデルを見てみましょう。
本書では雇用と直接関わる政策領域に限定し、機能別に4領域にまとめています。

Ⅰ.参加支援…生涯教育、高等教育、職業訓練、保育サービスなど
Ⅱ.働く見返り強化…最低賃金制度、均等待遇、給付付き税額控除など
Ⅲ.持続可能な雇用創出…新産業分野・「第6次産業」、公共事業改革など
Ⅳ.雇用労働の時間短縮・一次休職…ワークシェアリング、ワークライフバランスなど

さらにこのⅠ.参加支援については労働市場のライフステージが、教育、家族、失業、体とこころのよわまり・退職の4つのライフステージとそれぞれ接続され、状況に応じて行き来できるべき、と著者は主張します。

実際のところ、日本の現状は労働市場から他のライフステージに移るのが一方通行になっています。
教育過程が終われば就職するのが当たり前で、卒業後スキルアップのために大学に入り直すにも基本的に本人の努力次第です。
女性の場合は結婚・出産によって労働市場から一旦外れると、ブランクを経て正社員として戻るのは難しい。

この提案にこそ日本の構造的欠陥が見え隠れしています。
日本の雇用と社会保障の課題は、個人化・流動化する現代と既存の社会構造との歪みがもたらしたものです。
成長ではなく、目まぐるしい変化を前提にした「生活保障」を考えるためには、これまでの常識を一新しなければなりません。
「アクティベーション」はそのための手がかりとなるはずです。

まとめ

日本の労働市場は硬直化しており、結婚や出産、あるいは病気などで仕事から一旦離れてしまうと、その後もう一度仕事に就くということが難しくなっている。
日本社会自体も個人化・流動化が進み、これまでの男性稼ぎ主モデルの成立条件が整わず、さらにはそのモデルに当てはまらないひとり親世帯の貧困率はOECD諸国の中でも高い。
様々なライフスタイルに対応するためには、労働市場を流動化し、辞めやすく、かつ再就職しやすい環境整備が求められる。
そのためにも「辞めても安心」な法制度が必要で、失業給付や職業訓練などがそれに当たる。

同時に、今現在働いている人自身の所得もまた保障される必要がある。
ワーキングプアの問題は企業努力のみならず、均等待遇や最低賃金向上といった法制度によるアプローチも必要だ。

今働く人たちはそれなりの見返りを保障され、「辞めても安心」で、働く意思のある人にはきちんと手を差し伸べる。
当たり前のことなのかもしれませんが、それができていないのが今の日本です。
個人でも、企業でも、自治体でも、労組でも、国でも、どんな単位でも良い。
できることをそれぞれが探していかなければならない時代がすでに到来していることを改めて感じた次第です。

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グローバル人材の要件-大企業ではなく日本社会が求めるモノ

カテゴリ:世の中の事

Facebookにポストしたら、意外とリアクションが良かったので。

Twitterでグローバル人材の定義の奥行きのなさを嘆く声があって、なるほどなあと思った。

社会が望んでいる「グローバル」とは、戦うフィールドの広さではなく、守るべき対象の範囲の広さなのだと思う。

世界で戦っても、それが会社のため、自分の生活のためなのであれば、20世紀の延長でしかない。

隣人のため、地元のため、地域のため、日本のため。背負うものが大きくなる方が、よっぽど大変なんだよね。でも、それこそが今、世の中に、21世紀に必要なこと。

大企業に求められる「グローバル人材」なんていらない

激しく同意。 RT @: グローバル化。日本から外に出ていく、田舎から都会に出ていく事だけが外向きで、若者が故郷に留まったり戻ってくることを内向きなんていう人がいるが、自分の田舎が廃れて行くのをほっぽっといてグローバルな感覚なんて安っぽすぎる。
@muneo_yamazaki
山崎宗雄

このつぶやきを見て、すぐさまとあるブログ記事を思い出したのでした。

子守さんが今朝の新聞記事から、ユニクロの柳井会長兼社長の「グローバル人材論」を選んだので、それについてコメントする。
柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」
ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。
だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。
「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」
「3-5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」

『百年目』のトリクルダウン (内田樹の研究室)

内田樹氏のブログに、ユニクロの柳井会長兼社長のコメントが引用されています。
ユニクロといえば、いまや日本を代表するグローバル企業。
なるほど、今の企業が求めるグローバル人材のエッセンスが見え隠れしていますね。

しかし、同じ記事で内田樹氏はこのグローバル人材要件に対して難を示しています。

私は読んで厭な気分になった。

(中略)

この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。
端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。
老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。
そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。

※太字は引用者による。

『百年目』のトリクルダウン (内田樹の研究室)

国民が、日本社会がエリートに期待しているのは、内田樹氏のいうところの「国民経済」なのです。
しかし、そのエリートが押し寄せる大企業には「国民経済」の観点が抜け落ちています。

自由化を進め、競争を促進し、競争に勝つものに資源を集中させ、それ以外の部分に再分配するという「トリクルダウン」という発想は、資本主義の100年間が示したように、現実としてはほとんど機能しませんでした。
この競争の時代の結果残るのは、逃げ切りを図り肥大化したグローバル企業と、搾取され疲弊した人々でしょう。
企業が求めるグローバル人材育成に注力したところで、それが日本社会にとって効果的な投資なのかどうか、疑問を抱かずにはいられません。

「グローバル人材」の要件を再検討する

大企業が世界で闘うのは、なんのためでしょうか。
飽和しつつある日本の消費市場に依存していては、企業の持続的な成長、引いては企業の存続の可能性が狭まるからです。
ほとんどの場合、グローバル企業は自分たちのために海外の市場に手を伸ばしているのです。

世の中はグローバル化していますが、これは21世紀のあるべき姿というよりは、20世紀の資本主義の当然の帰結と言えます。
あれだけ反省の声が絶えない20世紀の延長線上で闘うことで、「国民経済」は改善されるのでしょうか。

ユニクロの柳井会長が掲げる「グローバル人材」の要件は、限界を露呈した資本主義の生み出した概念に過ぎません。
この20世紀型の要件を満たす人材は、「国民経済」に寄与することなく、相変わらず格差を野放しにし、疲弊する人々を減らすどころか増やす方向へ事を進めていくように思えてなりません。
21世紀に生きる僕らが本当に求めている人材要件とは何かを考える必要があります。

ヒントは、前述の「国民経済」という観点にあります。
そのエッセンスは、
>老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計すること
という点にあります。

これは国レベルで言えば、社会保障の枠組みの話、再分配の議論です。
自治体単位になると、公共サービスや制度設計の問題になるでしょう。
これを個人レベルで考えると、どうなるでしょうか。その先に、あるべきグローバル人材の姿が見えてくるように思います。

「国民経済」を実現する人材像とは

一面的な見方をすれば、「国民経済」を追求し、実現に結びつける人材とは、他の国民が「食える」ようなくらい稼げる人材のことです。
この解釈では経済性のみに注目がいくので、もう少し柔軟な見方が必要でしょう。

21世紀のグローバル人材がもたらすべき効果について具体的に検討する前に、まず概念的なところから。
冒頭にあるように、僕としては「グローバル」とは闘うフィールドでなく、守ろうとする対象の範囲と捉えています。
守るべきものが自分や組織だけであった20世紀の資本主義を反省すれば、そう考えるのが僕にとっては自然なことでした。

資本主義の進展と共に生じる予測不可能なリスクを、個人が自分自身や家族といった単位を守ることで対応する社会こそがグローバル社会の結果だったとは、ジグムント・バウマンも指摘するところでした。
一層の個人化が進む流れを認めるその一方で、それに抗するように、徐々にではありますが「コミュニティ」というものが確実に見直されてきています。
個人の「自由」が拡大した結果、「安全」が失われた時代において、個人や家族を超えた「コミュニティ」という単位によって「安全」を取り戻そうという動きは、日本各地で起こっています。

これらを踏まえたうえで、これからのグローバル人材に求められる「グローバル」性とは何か?
僕は、”国境を超える”という元々の意味からもう少し踏み込んで、個人や家族といった単位―ローカル―の対比としてのグローバルというとらえ方をするべきだと考えています(ちょっと無理矢理?)。
守るべき対象を、知人、隣人、地域、国…というローカルな単位の枠組みを超えるように設定する。
これが21世紀型で求められるグローバル人材の条件の基本的な考え方となるのではないでしょうか。

これまで:「どこで闘うのか」 ⇒ これから:「何のために闘うのか

生産性を向上させるためには、闘うフィールドが重要になります。
しかし、生産性向上は「国民経済」をむしろ脅かす雇用のシュリンクを招くことも忘れてはいけないでしょう。
生産性の追求は一定程度必要とは思いますが、常に守るべきもののことを念頭に置かなければなりません。

守るべき対象(=ステークホルダー)は少ない方が楽なのは当たり前です。そっちの方が生産性は上がります。
一方、個人や組織というローカルな単位を超えて守るべき範囲を拡大させるのは非常に難しい。
ビジネスモデルの構築にしても、検討すべき変数が増えるわけですから、一筋縄ではいけません。
この困難にあえてチャレンジする人材が、日本中で(そしておそらくは世界中で)求められているはずです。

概念的な話題に終始してしまいました。
21世紀における「仕事」とか「働く」という価値観の変化する予兆を感じながら、今後徐々にこの議論を深めることができたらと思っています。

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「就職がこわい」という現象

カテゴリ:読書の記録

勝間和代を敬遠している僕としてはなんとなく避けていた著者の本ですが、とりあえずタイトル買い。

若者の就職難についてはいろいろ本が出ていて、それぞれ切り口が違っていて、興味深いです。
その中で本書は実際に著者が教員として関わってきた大学生を観察した結果に基づいて、議論が進められていきます。

若者は「不安」に覆われている

あえて言うならば「『不安』がやってきたらどうしよう、という漠然とした気分」のことを、彼らは「不安」と名づけているのだろう。
ここで、若者が「不安なんです」と訴えるときの「不安」を、「はっきりしない、不確定であることに対する漠然とした否定的な気分」と定義しなおしてみよう。つまり、先が見えないことはすべて「不安」なのだ。

就職がこわい (講談社プラスアルファ文庫)

著者は、就職に積極的でない若者が抱えている「不安」に一貫して注目しています。
就職について拒絶とも言える反応を見せる学生も何人か見てきた中で、著者はこのように若者の不安を捉えようとしているようです。

“先が見えないことはすべて「不安」なのだ。”

さらりとこう書かれていますが、若者の不安の深刻さが感じられるようでいて、一方でこれってある意味誰しもそうだよな?と思える記述です。

就職を遠ざける五つの病理

若者が就職を敬遠する要因について、著者は以下の5要因にまとめています。

1.就職と解離
2.就職と短絡
3.就職と自己愛
4.就職と万能
5.就職と”自分探し” 

ここでは1.就職と解離について、本書から引用してみます。

とはいえ、「そのときにならないとわからない」というのでは、人間は社会生活を営むことはできない。だから、ほとんどの人は「現在の自分」が連続的な存在であり、二年後や一〇年後も基本的にはいまの価値観、性格、体力や健康、趣味嗜好などが大きく変わることはないだろう、という前提のもと、さらにそこに「こうなりたい」という希望も加えて、先々の計画を立てたり夢を描いたりする。

ところが、いまの若者の中には、そもそも「自分は連続的な存在。未来の自分も基本的には自分の延長」という自己に関する連続的なとらえ方ができない人も少なくない。

(中略)

精神医学のことばでは、このように自己の連続性や統合がさまざまな程度で失われている状態を「解離」と呼ぶ。

就職がこわい (講談社プラスアルファ文庫)

 一旦著者のとらえ方を受け止めてみると、「自己の連続性や統合」が失われていることで、未来を過去・現在の自分から想像することができず、結果的に”先が見えない「不安」”に苛まれている若者の像が浮かび上がってきます。
関わる人、世の中の価値観、社会情勢がめまぐるしく変わる中で、一貫性を保とうとするのではなく、部分的に対応するという適応することを処世術として身に付けてしまったがために、気付けばバラバラの自分がそこにいるだけ、ありのままの私って何?と呆然としている若者像をついついイメージしてしまいます。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法」の中でも、「統合」というキーワードは何度か登場していました。
自己イメージ(自分が思っていること)と経験 (実際に体験したり、感じたこと)のずれを統合することで、ありのままの自分を肯定することができるようになる、と。
逆に、コミュニケーションの相手や場によって引き出しを開けるように対応することが当たり前になると、自己イメージと経験のずれが大きくなっていくとも指摘されています(もちろん、それだけが要因ではありませんが)。

他の”病理”について一つ一つ言及するとさすがに長くなるため、以下、ざっくりとしたまとめです。

1.就職と解離
→統合されていない、一貫性のない自己

2.就職と短絡
→将来と目の前の就職をつなぐ理解しがたい、遠回りなロジック

3.就職と自己愛
→自分が”その他大勢”であると自覚しながらも「あなたは特別」という啓示を待つ姿勢

4.就職と万能
→純粋性、完璧主義と現実世界とのギャップ

5.就職と”自分探し” 
→「就職の意味」「自分の存在意義」の答えがでないと踏み出せない真面目さ

諸問題の背景については本書の第5章で言及されていますが、若者がこのような”病理”に陥る構造については個別に検討されている程度という印象でした。
とはいえ、この分類を無駄にせず、若者の就職の諸問題についてもう少し幅広いアプローチが可能になるように感じます。

文末に寄せられた著者のメッセージは、大きく二つ。

・あなたは人生のエキストラでは絶対にない
・仕事はすべてを解決してくれない 

実際に就職活動から逃避する学生たちの対処に苦慮した著者が自信を持って搾り出せたのは、せいぜいこれだけ、ということなのでしょう。
著者の能力不足というよりも、それだけ、 就職活動にまつわる諸問題が複雑で、厄介で、解決しがたいものであるということを物語っているように思います。

感想など

「しかし、本当にこれで若者の「不安」を説明できているのだろうか?

読後の違和感がこの記事をまとめながら明確になりました。
もちろん、ミクロで見れば一人ひとりの抱えている問題が全く同じということはないですが、もう一歩踏み込んだ考察を読みたかったと個人的には思います。

そもそも、本書が見つめる「若者」像が絞られていないところに問題があるのかもしれません。
冒頭に、高校卒業時の選択肢として「就職 > 大学」となっていることを著者は述べています。
就職できなかった/したくなかったから大学に行く、という構造。まさに大学の予備校化です。

しかし、当の僕自身にとってはそれは正確な記述ではありません。
「就職できなかった/したくなかったから大学に行く」ことを選んだのは、一体誰なのでしょうか?
この議論を曖昧にしたまま本章に突入した感があり、少し置き去りにされてしまいました。

著者の眼差しは「就職活動からリタイアする」学生に注がれています。
それはいったい誰なのか?彼らの「像」をもう少し読者に共有してくれたら、本書の価値はもっと上がったのではないでしょうか。
むしろ、著者の手元にあるサンプルだけで一般論を展開しようとしているようにすら見えてしまうのは、残念なところでした。

とはいえ、著者が描くような大学生には僕自身も実際に出会ったことがなく、いままで何冊か本を読んできましたがそのどれもが見逃している若者の不安がここに記録されており、いろいろ考えさせられるきっかけを得ることができました。
2004年に刊行されたという事実は今になってはマイナス材料かもしれませんが、それでもこの議論が遅れているようにはあまり思えません。
(それはそれで問題なのかもしれませんが…)

軽い気持ちで読み進めた割に、胸の奥に重たいものが残るこの読後感。
僕としては、多くの(とくに仕事と自己実現を切り離せない)方が目を通すのも悪くないかなと思います。

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