Tag Archive: 社会貢献

若者をレールから外させようとする無責任な大人たち

カテゴリ:世の中の事

茂木健一郎に騙されて通信制高校からAO入試受けた結果wwww

東大生をバカ呼ばわりして煽った茂木健一郎氏の被害者がここにも。

僕は丁度、テレビを見ていた。すると、僕と同じ高校生なのに、学校とは別に団体を作ってボランティア活動に従事したり、あるいはビジネスで大人の人と渡り合い、あるいは海外で外国の経営者や政治家と直接話し合っている高校生が特集されていた。いわゆる「意識の高い学生」である。
今ではどうやらこの言葉は大学生を主として使われているらしいが、僕の場合この意識の高い高校生を見て衝撃を受けたのである。そして、「これこそ今僕がやるべきことだ」と「気づいて」しまったのであった。

やっぱり高校生は今のうちにしっかり勉強しとけ(前半)

本当の意味で「突き抜けている」学生は、たいていの場合自分が突き抜けていることにさえ気がついていない天才肌なのだ。確かに、「これこれこうで、こうしたいから自分はこうする」と、自らの情熱を制御して結果的に周りから見て突き抜けている学生も、いるにはいる。片手で数えられるほどには。
それ以外は、「気がついたら自分は周りから持ち上げられていて、テレビや雑誌からも取材を受けて、なんか大学にも推薦で合格していた」ってタイプだ。
これは起業とかにもいえるだろうが、どちらにしろ、本気で高校生時代に才能を開花させ、抜きん出ることのできる学生はほんの一握りだということを肝に銘じておいたほうがいい。あくまで僕の予測だが、そんな人は興味を示し集まってきた中で一万、いや十万人に一人いるかいないかだろう。

やっぱり高校生は今のうちにしっかり勉強しとけ(後半)

身近に近い事例があったので、他人事として流すことのできない切実さがありました。

大学生や若者を社会貢献や起業に駆り立てる言説は数多くあります。
若者たちも自分の評価が”括弧付き”のものであることになかなか気づけません。

高校生や大学生が故郷への思いを語ったり、将来の夢を表現したりすると、たいていは「いい」反応がかえってきます。

「すごいね」「よく考えているね」

これに気をよくしてはいけません。

「(高校生の割に)すごいね」「(大学生にしては)よく考えているね」

こう枕詞がついていることに自覚的でないと、社会に出てから(或いは一定の時期を過ぎると)痛い目を見ることになります。

「で、考えているだけで何もしていないんでしょ?」「そんなの、社会で通用しないよ」

今までずっと誉めそやされてきたのに、突然カウンターパンチを喰らうかもしれません。
これは特に「プレゼンがうまい」人によく見られる傾向であるように思います。

若いというだけで評価されていることに気づかないといけない | 秋田で幸せな暮らしを考える

高校に入学し、大学に入学し、新卒で就職して3年間働く、いわゆる「ストレーター」が4割程度と言われる時代
終身雇用制が半ば崩壊し、レールに乗りつづけることが難しくなっているのは事実です。

そうした時代背景から、若者に対して「レールから外れろ」「学歴なんて無駄だ」と主張する人が増えています。
茂木健一郎氏はその典型例ですね。果ては「海外に行け」、「起業しろ」なんて言い出すわけです。

「レールから外れろ」と言うこと自体には反対しません。
わずか1年半で会社を辞めて離島に移住した僕も「レールから外れた」側です。

僕が言いたいのは、「レールから外れろ」という言葉に責任を持て、ということです。
「レールに乗る」ことは、レール自体の信頼性が落ちた現在もなお、リスクの低い選択肢です。
同じ道を通る人が多いからこそ、可能な選択肢の幅を広くとることができるのも大きなメリットです。
逆に言えば、「レールから外れる」とはリスクをすべて自分で引き受け、自ら道を拓け、ということ。
若者にリスクの高い選択をさせることに対して、大人たちはどこまで責任を持てるのか?
無責任な大人たちばかりの世の中に辟易している僕が言いたいのは、その一点です。

リスクを引き受けない「無謀」な若者を、これ以上増やさないために。

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今、ここを真剣に生きていますか?-元気になりたい方に

カテゴリ:読書の記録

「自分と最高に、付き合っている? 自分の世話を最高にしている?」

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

SFCで教鞭をとる長谷部先生のご著書。

一言で言えば、「元気をもらえる」一冊です。
道に迷った。立ち止まってしまった。そんな自分に焦りを感じるようなときに読むべき本、かもしれません。

滲み出す人柄

この研究室で、わたしが一番はじめに取り組んだこと。それは「共食」の習慣化、つまり、食事をみんなでつくって、みんなで食べることでした。
人が健全に生きるために一番大切な「食」という作業を、人とともに真剣に取り組むこと。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

冒頭からこれです。すごいなと。
著者の信念の太さというものが、そしてまた、このような教員を抱えられるSFCの底力が垣間見えるエピソードですね。

著者はSFCの教員になる前、東京で私塾を経営していたそうです。
そのときのエピソードがまた面白い。少し長いですが引用してみます。

この塾生のなかに、国語が苦手な小学校高学年の女の子がいました。彼女は空欄を埋めるような問題は得意でしたが、作文がとても苦手です。
ご両親の車で送られてくる彼女は、毎回、お母様お手製のきれいなお弁当をもたされていました。それを授業の前に食べるのですが、いつだってつまらなそうに食べるのです。
ある日、お弁当を食べ終わったときに、「今日お弁当の中身、何だった?」と聞いてみました。ところが彼女は、色とりどりのおかずが詰まったお弁当を、すごくいい匂いをまき散らして食べていたのに、しばらく空っぽのお弁当箱を見つめたあと、「わからない」と言うのです。
「いま食べたばかりよね?『わからない』って、お腹いっぱいになったんでしょ?それはお弁当を全部食べたからよね?何食べたの?」
「なんか。お肉・・・・・・」
「なんかお肉っていうお肉はないわよ。鶏だったの?豚だったの?何?」
「なんか・・・・・・揚げたヤツ」
「うん、だから何の肉?それから、つけあわせは?」
「・・・・・・なんか」
彼女の答えは、すべてが「なんか」でした。

それからわたしは、毎回、彼女のお弁当の中身を聞くようになりました。
彼女は一生懸命お弁当を見て食べて、内容を説明してくれます。
たったそれだけのことです。
それを続けただけで、彼女の国語力はメキメキ伸びて、学校で作文の章をとり、なんと全校生徒の前で読み上げるまでになったのです。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

日常会話でたまたまこのようなやり取りがあったとして、「毎回、彼女のお弁当の中身を聞くように」発想できるものでしょうか。
思わずため息が出ました。

本書に刻まれた言葉は真新しいものではないかもしれません。
しかし、著者の人柄がにじむようなエピソードに、きっと元気をもらえると思います。

”社会貢献という隠れ家”

「社会貢献」という言葉をファッションにしないでください。幻想を捨ててください。目の前で困っている人を、自己成長の種だと思わないこと。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

本書の第五章のタイトルは「社会貢献という隠れ家」。
僕が日ごろ思っていることがずばり書いていて、実にタイムリーな話題でした。

「こんなところまで来て、どうして水汲みなんかしなくちゃいけないんですか!」

「ボランティアをやりに来ました!何でもやりますから、やらせてください!」

「草取り、もう飽きましたから、別のことをしたいんです」

「あの・・・・・・高校で映像を見たんです。バングラデシュの貧困問題について」
「それって、あなたが問題意識を持ったっていうよりも、誰かの問題意識を見せてもらっただけよね?貧困に対する問題意識をもったのだとしたら、日本のそういう地区でボランティアをしてみたりもできるわけだけど。身近な実感があって言っているのかしら?」
「日本にそういうところって、あるんですか?」

「だいたい教育の先生が何しに来たの?その先生が、ニ~三日網なんかやって何になるの。どうせ漁師にならないんでしょ。ちょっとやって、何がわかって帰るの。で、またその次に新しい子が来るんでしょ。何になるわけ、そういうの。意味ないよ。どうせ来るなら一ヶ月くらい腰を落ち着けて来なさいよ」

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

「支援」や「社会貢献」という言葉を、完全無欠の「善」と信じきってしまう。
そんな傾向が、特に若い人の中で見受けられるように感じることがしばしばあります。
(教育にも同様の傾向が見られますね)

あなたが良いと思ったことを相手が良いと思う保障がどこにあるのか?

本気で支援したいと考える人がこの自問自答を避けられるはずがありません。
逆に言えば、そのような反省のない活動を”ボランティア”と称すべきではないでしょう。

この五章だけでも、多くの人に読んでもらえたらなあと思います。

 

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セルフブランディング(笑)でメッキを借りる痛い人たち

カテゴリ:世の中の事

「面白い人に会いたい」と言う人が増えるのは「良いこと」

面白い人に会いたいと言っている人は、あなたがバカにしている“合コンで出会いを求めて参加する男女”と同レベルである。

 

そして、「面白い人に会いたい」とか言って会われているうちは、自分はその程度の人間にしか会いたいと言ってもらえないほどにコンテンツの不足した、面白みのない人間だということを肝に命じなければいけない。自分に寄ってくる人は、自分の鏡だから。

もしくは「そんな理由で会われて喜ぶ、なんか可愛い女の子」だと思われて、見くびられている証拠だ。

「面白い人に会いたい」と言って会いに来る人には「死ね、クズ」と思っている | None.

盛り上がっているこの記事ですが、こういう話題が出てくること自体は個人的に”いい傾向“だと思います。

まず、「面白い人に会いたい」という発想は、既存の人間関係の外を向いている人たちからしか出てこないものです。
“相手の話を引き出す「問い」がなんにもない”(質の低い)人が紛れてくるということは、外向きの志向を持つ人が増えた=裾野が広がったということ。
“ウィークタイ”など興味・関心をベースにした弱いつながりの”強さ”に注目が集まっていることなどを考慮すれば、この傾向自体は歓迎すべきものと言えるでしょう。

ですからこういう輩を排除することを急ぐべきではない、と考えます。今はまだ過渡期なのです。
一線で活躍している人たちの貴重な時間と精神の安定を確保するためにも、今後少しずつ修正を入れていく、くらいが適切なスタンスでしょう。

「会われ」る側が悪い、とはあんまり思いませんが。

「面白い人に会いたい」のはなぜか

面白い人や変な人に会いたい、とか言っている人に限って

「自分も変人だ」

と思っていて、

「自分はあなたの魅力が分かる人間だ(だからオレは偉い)」

と、自分を肯定して安心したいがため、「オレってイケてる」を確認するために来ている。

「面白い人に会いたい」と言って会いに来る人には「死ね、クズ」と思っている | None.

この記事で言及されているような「面白い人に会いたい」人の目的は、 一言で言えば「自己満足」でしょう。
個人的な経験も踏まえると、この「自己満足」は「セルフブランディング」の欲求と強く結びついている、と感じています。

最近ではソーシャルメディアの普及も相まって、あるテーマや話題の中心(あるいは先端)にいる人物が容易に可視化されるようになりました。
そして、誰とつながるべきかがとても分かりやすくなっており、かつつながりたい人と容易にコンタクトをとれるようになってきています。
ある界隈の中心人物とつながることで、その界隈での自分の評価を押し上げるという効果を狙いやすい状況にある、と言うことです。

「あ、その人知ってるよ」「一度会ったことがある」

この事実が個人の内実をどれほど的確に表せるかというと疑問は当然ありますが、少なくともそう言えてしまうことで「顔が広い」とか「人脈がある」「そういう分野に関心がある」ということのアピール材料として使えます。

逆に言えば、自分の内実は棚に上げながらとりあえず人に会いまくれば、それだけでセルフブランディング(笑)になりえる、ということ。
会うことで何を学んだのか、相手からどう思われたのか、そんなことは無視してしまっても、「あの人に会った」ことを「自己満足」で終わらせることができるのです。

「あー、そういうやついるいる」と思っていただけると幸いです。
と同時に、僕自身そう見えていないか気をつけないといけないなと思います。自戒を込めて(死語)。

他所からメッキを拝借してしまう人たちのこと

「自分はこうしたい」というエゴが原点なのに、「地域の課題だから」「人々が求めていることだから」というすり替えが行われる。
どこか地に足の着かない印象を受けたら、まずここを疑うようにしていますが、結構当てはまっているように思います。

(中略)

中身は「こうしたい」だけなのに、社会の課題解決の話として体裁を整える。
個人的に、これは本当に止めて欲しい。
自分のエゴを社会貢献にすり替えるという態度がそもそも僕はキライだし、そうして求められていない「良さげなこと」が世に出ることで余計な不和が起こりえます。
主体の頭の中もすり替わっているので、きっと地域や現場を好き勝手にかき乱していることに気づくこともできません。

社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

「セルフブランディング(笑)」な人たちって、二言目には「社会貢献したい」と胸を張る大学生と似ているな、と思います。
他所からの借り物だけでポジショニングを試みる姿勢は、見ていて気持ちが良くないのは確かです。

海士町に住んでいるといつも思わされることですが、

お前は本気なのか?

問われているのはたったこれだけなんじゃないかと思います。
この問いに答えられないがために借り物競争に走る。これはひどく滑稽に見えるかもしれません。

とはいえ、これも過渡期ならではの現象であり、仕方の無いことと捉えるべき、とも思います。

“○○がしたい”って簡単に言っちゃいけないんですね。

ワカモノの不安と大量生産・大量消費される価値観 | 秋田で幸せな暮らしを考える

 「やりたいことがない」と嘆く若者はたくさんいますし、それに対して批判的な声も多い。
ところが世の中は変わってきました。「社会貢献」が注目されるようになって来たのです。
ここに「やりたいことがない」若者がたくさん飛びついた。僕は最近の”ブーム”をそんなふうに見ています。

これは間違いなく「良いこと」です。社会貢献にかかわる人が増えるわけですから。
しかし、単なる”ブーム”で終わらないかという不安もまたあります。
社会貢献は世の中的に「良いこと」とされています。この”世の中的に”が曲者です。
巷の若者の社会貢献への姿勢も、「メディアで話題になっているから」「みんな良いといっているから」という”みんな志向”と変わらないんじゃないか、そう思うときがあります。

とりあえずボランティアをやってみる。
「すごいね」「えらいね」とみんなが言ってくれる。
それで自分は正しい方向を向いていると安心できる。

内実を問われることに対する恐れが、メッキを他所から拝借する行為を生む
つまり、「自己防衛反応」と僕は捉えています。
なかなか根の深い問題だな、と感慨深くなる次第であります。

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