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グローバルな社会とは何か?-「グローバル人材」要件の前提

カテゴリ:読書の記録

果てることのない「グローバル人材」論議

実は、グローバル化とはハイコンテクストな社会が、ローコンテクストな社会に転換していく過程の一環なのです。国内でさえ、世代や趣味が違うと「話が通じない」関係が増えていますね。そこに、外国から様々な価値観を持った人々が参入してくるわけです。

イマドキの若者であれ、海外出身者であれ、職場や教室にコンテクストを共有していない人が現れると、“空気読め”では通じない。そのとき必要となるのが「教養」です。この教養とは、単なる知識や語学力ではなく、「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する能力」のことです。

グローバルな教養とは「本当は」なにか(與那覇 潤) – 個人 – Yahoo!ニュース

いつから始まったのかももはや定かではない「グローバル人材」論議。
僕も以前書いた記事で部分的に加担していますが、未だ収束する気配がありません。

最近、Twitterを中心に冒頭の記事が評判になっていたようです。
確かに、この記事は「グローバル化」の重要な側面に注目しています。
一方で、「誤読されているのではないか」という一抹の不安を覚えずにいられません。

「グローバルな社会」とは何かという問い

「グローバル人材」なるものが求められているのは、現代が「グローバルな社会」だから

これに異議を唱える方は少ないかと思います。

では「グローバルな社会」とはいったいどのような社会なのか
論議の前提でありながら、この問いへの回答の厚みに物足りなさを感じることが非常に多い。
”そもそも”を共有するステップが抜け落ちていると言えるでしょう。
「グローバル人材」論議の空中戦に終わりが見えないのはここに原因があるのではないでしょうか。

先にこの問いへの見解を述べましょう。
すなわち、グローバリゼーションを引き起こす資本主義は、その論理的帰結としてローカルを必要とします。
したがって「グローバルな社会」とは「マクドナルド化」といった言葉に代表されるような均一的な社会を意味していません。
資本主義が浸透すればするほど、つまり、「グローバルな社会」になればなるほど、「ローカルな社会」の存在感が増すのです。

自己増殖する資本主義というシステム

資本の絶えざる自己増殖、それが資本主義の絶対的な目的にほかならない。蓄積のためにはもちろん利潤が必要だ。だが、この利潤は一体どこから生まれてくるのか。(中略)
利潤は資本が二つの価値体系の間の差異を仲介することから創り出される。利潤はすなわち差異から生まれる。
しかしながら、遠隔地貿易の拡大発展は地域間の価格体系の差異を縮め、商業資本そのものの存立基盤を切り崩す。産業資本の規模拡大と、それに伴う過剰労働人口の相対的な減少は、労働力の価値と労働生産物の価値との差異を縮め、産業資本そのものの存立基盤を切り崩す。差異を搾取するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。

ヴェニスの商人の資本論

資本主義が要請する利潤の源泉となるのは「差異」。
しかし、資本主義に見初められた「差異」は、その瞬間から解消される運命にあります。
「差異」を搾取した後で、資本主義は何を求めるのか。新たな「差異」を見つけ出すしかありません。

そして発見された手法が「革新(Innovation)」、すなわち個別企業の間で「差異」を創出することにほかなりません。
ところが、ご存知のとおり、この「差異」すらも「模倣(Imitation)」を通じて搾取され、解消されていく運命にあります。
利潤を追求する企業はなおも「革新」への絶えざるデッドヒートに身を投じていくのです。

結局、このような革新と模倣、模倣と革新との間の繰り返しの過程を通じて、資本主義社会は、部分的かつ一時的なかたちにせよ、利潤を再生産させ続け、それによって自己を増殖させていくのである。
すなわち、資本主義の「発展」とは、相対的な差異の存在によってしかその絶対的要請である利潤を創出しえないという資本主義に根源的なパラドックスの産物であり、その部分的で一時的でしかありえない解決の、シシフォスの神話にも似た反復の過程にほかならない。

ヴェニスの商人の資本論

「差異」を要する資本主義は、「差異」を解消しながら新たな「差異」を生み出す自己増殖のシステムです。
これをグローバルとローカルの二語を用いて言い換えるならば、こう言えるでしょう。

すなわち、資本主義はローカルなものをグローバルなものに解体しながら、次にはローカルなものをまた生み出す、と。

グローバリゼーションの帰結・・・トランスローカル

グローバル化という言葉を聞いて、どのようなイメージを浮かべるでしょうか。
日本では規制緩和によって大型店舗が全国に拡散し、その結果各地の商店街が消えていきました。
この例のようにグローバル化(及び資本主義)は均質化をもたらすという見方は根強いはずです。
グローバル化がローカル化を伴うという表現は、したがって違和感を伴うものかもしれません。

コカコーラやソニー・コンツェルンは、自分たちの戦略を「グローバルなローカル化」と言い表している。その社長や経営者たちは次のことを強調する。すなわち、グローバル化で重要なのは、世界中に工場を建てることではなく、そのときどきの文化の一部になることである、と。「ローカル主義」とは彼らの信仰告白であって、つまりはグローバル化の実践にともなって意味をもつようになる企業戦略のことである。

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

ところが、グローバル化の先鋭を切る巨大企業こそ、グローバル化する社会においてローカル化を重んじる定めにあるのです。

グローバル化とはただ脱ローカル化のことだけを言っているのではなく、再ローカル化を前提としているという見方は、すでに経済的思惑から来ている。(中略)「グローバル」に生産し、そうした生産物を「グローバル」にもたらす企業もまた、そしてそういった企業こそ、ローカルな条件を発展させなければならない。というのも、第一に、そうした企業のグローバルな生産は、ローカルな基盤のうえに成立し維持されるからであり、第二に、グローバルに市場に送り出されるシンボルもまた、ローカルな文化の原料から「作りだされる」必要があるからである。(中略)
「グローバル」とは、それにふさわしく翻訳するなら「多くの場所で同時に」ということであり、したがってトランスローカルということである。

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

グローバル化を「マクドナルド化」と表現することは、一面的なものの見方でしかありません。
個々別々のローカルに立脚している現代社会の姿をとらえきれていないからです。
ローカルを解体しつくし、すべてを均質化したローカルなき世界ではなく、ローカルがローカルとして存在しながら、他のローカルと横断的に接続された社会こそが「グローバルな社会」なのです。

しかし、これは「グローバルな社会」がローカルを(それ以前の)ローカル”のまま”保存することを意味しません。
「差異」を食い尽くす資本主義システムが「差異」の源泉であるローカルを放っておくわけがないからです。

ローカルな文化は、もはや世界に対しておのれを閉ざしたそのままの状態で自文化を正当化することはできないし、そのようにして自文化を定義することも刷新することも出来ない。ギデンズ(※)が述べるように、このように早まるあまり、伝統的な手段によって伝統を基礎づけるのではなく(ギデンズはこれを「原理主義的」と呼ぶ)、その代わりに、いったん脱伝統化された伝統をグローバルな文脈において、つまりトランスローカルな交流や対話や紛争において再ローカル化するという強制が出てくる。
ようするに、ローカルな特殊性をグローバルに位置づけ、グローバルな枠組みにおいて摩擦をこうむりながら、このローカルな特殊性を刷新していくときに成功したとき、ローカルなものは非伝統的なかたちで復活する。

(※引用者注:アンソニー・ギデンズのこと)

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

グローバリゼーションは新たな準拠枠をあらゆるローカルに容赦なく浸透させます。
ローカルな文脈は、グローバルな文脈において非伝統的なかたちへの変更を避けることはできません。

翻訳者としての「グローバル人材」

ここにおいて、ようやく冒頭の引用記事の本来の意味が明確になりました。
「ローコンテクスト」はグローバルの、「ハイコンテクスト」はローカルのそれぞれの文脈を意味します。
「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する」行為とはまさにグローバリゼーションの必然の過程なのです。
また、記事には書かれていませんが、グローバル-ローカルのやり取りは双方向であるため、「ローコンテクストなものをハイコンテクストに翻訳する」作業も同時並行的に行われていることも見逃せません。

ここまでの議論を通れば、「グローバル人材」の要件が英語だけではないことは一目瞭然です。
搾取され、脱ローカル化されたローカルを新たな「差異」の源泉として復活させられるかどうか。
脱ローカル化-再ローカル化のつなぎ手こそが「グローバル人材」と言えるでしょう。

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2012年 読んでおいてよかった本のまとめ

カテゴリ:読書の記録

2011年に比べ、2012年の読書量はだいぶ減ってしまいました。
Amazonの購入履歴やWeb本棚を見る限りでは、今年読んだ本の数は20冊ちょっと。

それでも、数少ない中で気に入った本がいろいろありましたので、5冊ほど時系列でまとめてみます。
堅い本が多いですが、じっくり読むだけ印象に残っているようです。

来年はもう少し読書量を増やしたいところですね。

1.現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

日本の社会学者では高名と聞く著者による一冊。
年末年始の帰省の際に実家の本棚を漁っていたところ発見しました。
どうも兄が購入していたもののようですね。

これが非常に面白い。
小室直樹氏の書籍を読んで市場原理というものに興味を持つようになりましたが、本書も社会学のアプローチで「情報化/消費化社会」を切り取ろうとするものであり、似たような興奮を覚えながら読むことができました。

まだ内容を咀嚼できていませんが、21世紀のあるべき姿を考える上で「資本主義からの脱却」という言葉の安易さに怪しみを覚えていた身として、本書の指摘にこそ希望があるように思えます。
どう見ても大きな流れとしてグローバル化と資本主義が浸透しているのですから、そこから目を背けるわけにはいきません。
資本主義は欠陥のある不完全なものなのか、それとも何らかの妨害があって未だ完全に機能していないものなのか。
まずはその点を整理することで、大きな方針が見えてくるのではないでしょうか。

2.ヤノマミ

ヤノマミ、それは人間という意味だ。ヤノマミはアマゾン最深部で独自の文化と風習を一万年以上守り続ける民族。シャーマンの祈祷、放埓な性、狩りへの帯同、衝撃的な出産シーン。150日に及んだ同居生活は、正に打ちのめされる体験の連続。「人間」とは何か、「文明」とは何か。我々の価値観を揺るがす剥き出しの生と死を綴ったルポルタージュ。

Amazon.co.jp: ヤノマミ: 国分 拓: 本

実際にアマゾンの奥地で暮らす民族「ヤノマミ」を追ったノンフィクション。

グローバル化が進み、「地球人としての倫理」と呼ぶべきものまでが少しずつ僕たちの生活になじんできている昨今。
僕たちが「理性的」と思っている価値観とは、全く異なる”倫理”に従う人たちの暮らしが問いかけるもの。

ヤノマミの営みを通して、僕らの当たり前をもう一度疑う。
正しい・正しくないの一元論に区別できない混沌の中に身を投じることで、「何か」が確実に僕たちの心に刻まれる。
これまで生きてきた中でも相当に不思議な読書体験となりました。

なお、著者はもともとNHKのドキュメンタリーの取材・撮影が目的でした。
その映像作品もDVDとして販売されていますが、こちらも非常におすすめです。
書籍の方も、映像では表現できない部分がまざまざと記述されています。

表現力が乏しくて恐縮ですが、とにかくすごい!の一言です。

3.日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

地元の歴史を調べるにつけ、日本史自体を学びたいと感じ、手に取った一冊。
Amazonの評価も相当高いものでしたが、高校で日本史をろくに学ばなかった私でも非常に面白く読めました。

表題に「よみなおす」とあるとおり、「日本史のジョーシキ」をひとつひとつ丁寧に整理しているのが本書です。
日本は古くから本当に農民が大多数を占めていたのか。船を用いた交流がどれだけ行われていたのか。
「士農工商」とあるように、商工業者の社会的地位が低いのはなぜか。
目からウロコとはまさにこのことで、本書を読むだけで日本史の捉え方が変わってくるように思います。

なお、著者はこれとは別に「日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)」をはじめとする「日本社会の歴史」シリーズを上中下巻で発表しており、こちらは時系列で日本史を追うことができます。
私は古代に特に関心を持っていたので中巻の途中で挫折していますが、日本史を一度学んだことがあるなら苦もなく読み薦められると思います。
こちらも併せておすすめです。

4.「他者」を発見する国語の授業 (大修館国語教育ライブラリー)

池袋のジュンク堂書店で購入。
国語の関連本は、近年話題になっている論理的思考力とかPISA型学力とか、そういった流行を追っている書籍が多かった中、異彩を放っていたのが本書でした。

個人的にも「言語化」という切り口で、あるいは「農村型/都市型コミュニティ」という切り口で、個人が自立し、個人と個人とで関係性を築く方法を模索しているところで、大当たりの本でした。

そもそも本というのは読み方が人それぞれ異なるものです。
そこに「他者」に触れる機会を見出すというのは至極真っ当な発想でしょう。
ところが、国語の授業の現場ではその点は軽視されている印象があります。

入試においては採点の問題から唯一の解が設定されますが、これは客観的な読みを前提として成り立っています。
これはこれで論理的に詰める力を問うものとして一定の意義がありますが、授業としての国語はもう少し可能性があっていいかもしれません。

「私」を意識するのは「私でない人たち」との出会いがその契機になるように思います。
「私」と「他者」が触れ合うことで順次境界線が引かれ、ある部分では交わったり、ある部分では対極をなす。
この繰り返しで「個人」が自覚されるというのは、「言語化」の力を鍛える上で僕自身が重要視している点と一致します。

もっと深く読み込んだ上で、来年の早いうちに書評記事を掲載できればと思っております。

5.日本文化の形成 (講談社学術文庫)

「蝦夷」とは何かを自分なりに調べる上で、一番に手にとったのが本書。
ここには宮本常一氏の真摯さと幅広い知識とが凝縮されているように感じました。

蝦夷の話についてはすでに書いた記事を見ていただくとして

僕が個人的に感銘を受けたのは、この論を書き上げた著者の力量です。
僕自身、さまざまな本を通して知識がつながり、よりいっそう理解が深められ、自分の問題意識が明確されるという経験がよくあります。
宮本常一氏のすごさはその膨大な知識量と積み重ねられたフィールドワークの知見にあります。
知識を持つだけでなく、かといって知識を軽視しない。
前提知識があるからこそ現場で得る情報量は尋常ではなく、さらにそこからアブダクションにつなげることができる。
僕自身も地元の歴史を探究していく上でも、日ごろの読書活動においても、このスタンスをとっていきたいと感じました。

「知識の蓄積はデータベースがしてくれる、人間は検索できればよい」
そんな風潮もありますが、知識と知識をつなげる根本は人間が担うものです。
それすらもコンピュータに取って代わられるのかもしれませんが、僕は人間だからできること、その能力をもっと伸ばしていきたい。
本書はそんな僕の背中を押してくれたように思います。

 

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「コミュニティ 安全と自由の戦場」前編:自己責任社会の到来

カテゴリ:読書の記録

今年の1月末に購入したものの途中で挫折して放置していた本書。
久々に手にとって見たら、独特の文体は相変わらずなものの、読み応えを感じながら読破できました。

「コミュニティ」という言葉は至るところで耳にしますが、他の多くのものがそうであるように、その背景には「コミュニティ」自身が崩壊しつつある、ということと、「コミュニティ」の効用が求められている、という現代社会の二つの側面が潜んでいます。
本書は、「グローバル化」―資本主義の浸透―と社会の変化を振り返りつつ、現代社会で表面化する幾つかの問題について「コミュニティ」を中心に据えながらその構造にメスを入れる、というような構成になっています。

ここで告白しますが、(恥ずかしながら)僕は再読するまで「グローバル化」が本書のキーワードであることをはっきり認識していませんでした。
そのためもあって、読後、本書に描かれている「グローバル化」とコミュニティの変遷の関係を反芻するにつけ、じわじわと感動が湧き上がってきています。

「コミュニティ」。ぼんやりと、方向性も特に定めずに、自分なりに探究していたテーマ。
僕がこれまでのブログで触れてきた要素が、本書にはちりばめられています。

この記事のまとめ

驚くほど長いので、先にまとめを書いておきます。
ちなみにこれで前編です…。

・コミュニティは、安全と等価であるが、代償として「自由」を支払わなければならない。
・人間は、安全と自由の両立を求めるが、実際にはそれは両立し得ない。

・近代は「個別化」という現象を呼び、人々に自由への欲求を喚起させたが、実際に自由のメリットを享受できるのは限られたエリートたちだった。
・安全なコミュニティが個別化の風潮に解体され、社会的な統制がつかなくなった(と一方的に考えられた)「大衆」は、労働者として監視、管理の元に置かれるようになった。
・権力者が大衆を積極的に監視、管理するコストは増大していった。

・資本主義が一層浸透するにつれ、経営者はダウンサイジングやアウトソーシングを取り入れ始める。変化は激しくなり、不確実性が社会を席巻するようになった。
・社会が確かなものを提供できなくなり、大衆は個々別々に不安と対峙し、自分の身の回りを守るために競争する必要が生じた。
・権利上の機会は一見平等に保障されているものの、結果については格差が一層強化されるようになっている。

コミュニティとは何か

(本書を読んでなお、コミュニティを定義することには気が引けてしまいますが、)著者の立場を端的に示す一文が、終章の冒頭に記されています。

わたしたちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティは「安全」と等価です。そして、無条件で得られるものではありません。

「コミュニティの一員である」という特権には、支払うべき対価がある。コミュニティが夢想にとどまっている限りは、対価は害にならないが、目につくこともない。対価は、自由という通貨で支払われる。この通貨は、「自律性」「自己主張の権利」「自然にふるまう権利」など、種々の表現で呼ぶことができる。どのような選択をするにせよ、得るものもあれば、失うものもある。コミュニティを失うことは、安心を失うことを意味する。コミュニティを得ることは―たまたまそんなことがあればだが―即座に自由を失うことを意味する。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「安全」と「自由」を取り巻くこのジレンマは、多くの現代人が抱えているものです。
多くの人は「安全」と「自由」の両立を”夢想”し、努力を重ね、そしてほとんどの場合、それは夢想のままで終わっています。

コミュニティを脅かしたもの―近代主義

コミュニティが「安全」を提供するもの、と認識されるということは、逆に言えばそれが客体化されるような歴史的背景がそこにある、ということでもあります。
人間がコミュニティの当事者でなくなり、コミュニティが求められる対象となる(認識されるものとなる)までの変遷を、著者は近代以前、近代、現代と時間軸に沿ってまとめています。

コミュニティは、家庭内手工業から工場制手工業へ徐々に移行してきた、あるいは貿易が盛んになってきたという時代において危機に直面しました。
「自由」を獲得し、謳歌するためには、直感的に理解できるように、十分な資産が必要となります。
徐々に富を持つ人が現れるようになった結果、条件をクリアできる一部の人たちから、自由への憧れが芽生え始めます。
(もしかしたら、そのモチベーションには「コミュニティからの撤退」も含まれていたかもしれませんね。)
著者は、ジャン=ポール=フィトゥーシとピエール=ロザンヴァロンの研究からの引用を紹介しています。

近代的個人主義は、人々の解放の動因であり、自律性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、だれもが未来に責任をもち、人生に意味を与えなければならなくなる。人生の意味は、もはや外側の何かがあらかじめ与えてくれはしないのである。

コミュニティ 安全と自由の戦場

この表現は、現代を生きる私たちにも、ストンと腹に落ちてくるものではないでしょうか。
「近代性のトレードマークと言うにふさわしい個別化」という潮流が、安心と自由が取引される土壌を生み出したのです。
こうしてコミュニティの束縛は、資本主義の浸透と、自由への憧れという時代の流れとともに、解放の道を歩むこととなりました。

しかし、先に述べたように、「自由」を獲得したとしても、その効用を最大限享受できるものは、一部の人間です。
そうでない人々―自由という大海で不安に溺れる人―を、フロイトは「大衆」という言葉で表現し、「怠惰で知能が低い」とばっさり切り伏せてしまいます。
こうして大きく二分された勢力にそれぞれ呼応する形で、近代社会は二つの顔を持つことになります。

ピコ・デッラ・ミランドラの仲間たち(※引用者注:著者の用いるレトリックで、富裕者や有力者を指す)にとっては、文明とは「自分を自らの望み通りのものにする」明るく澄んだ呼びかけであり、この自己主張の自由に制限を設けることは、おそらくは文化的秩序のための避けがたい、しかし悲しむべき義務であり、支払う価値のある代価に該当した。「怠惰で情念に支配されている大衆」にとって、文明は何よりもまず、かれらがもっているとされる不健全な傾向を抑制することを意味した。そのような傾向は、もし解放されたならば、規律正しい共同生活を破壊するものとされたのである。近代社会のこの二つの部分に属する人々にとって、提供される自己主張の機会と要求される規律のミックスの割合は、まったく異なっていた。
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

「コミュニティ」の慣習や決まりといった「古いルーティン」から解放された怠惰な大衆を、「産業革命」と呼ばれたムーブメントの中で「工場」に引っ張り出して「仕事」に縛り付けるためには、「新しいルーティン」が必要だったのです。
そうして、常に大衆を監視し、管理し、規律を強要する「パノプティコン(一望監視施設)的」な権力が形成されていったのでした。

一言で言えば、大転換の時代は、関与 engagement の時代であった。

コミュニティ 安全と自由の戦場

前世紀的な近代の特徴として、支配者と被支配者は共に依存する関係であったことが挙げられます。
労働者が働かねば、工場主はその富を増大させることができないわけですが、そのための方法として、権力を持つ人々は積極的な「関与」、つまり管理を強める方針をとったのが、産業革命初期の時代でした。

しかし、このパノプティコン型の権力は、コストがかかり、しかも膨れ上がる一方、という欠陥を持っていました。
(部下がきちんと仕事をしているか疑えば疑うほど、マネージャーの時間が管理にばかり費やされてしまうように)

「リキッド・モダニティ」と撤退、そしてエリートの離脱

積極的に被支配者に関与し、規制を強化する、といった状況は昨今ではそこまで見られません。
むしろ、「規制緩和」という言葉の方が、馴染みがあるのではないでしょうか。

今日巷で話題の「規制緩和」を、権力者のだれもが戦略的原則として称賛し、実際に採用している。「規制緩和」は、権力者が「規制」されること―選択の自由を制限されたり、移動の自由を抑制されたりすること―を望まないという理由で、人気がある。しかしまた(おそらく第一義的には)かれらが他者を規制する関心をもうなくしていることが、その理由である。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「大いなる関与 engagement」の時代から、「大いなる撤退 disengagement」の時代へ。
キーワードは、 変化、スピード、不関与、フレキシビリティ、ダウンサイジング、アウトソーシング。
ここには富のさらなる拡大の意図と同時に、強固な関与を前提とした「固定的近代」への反省―コストの増大―が見られます。

この時代において、権力者の支配の基盤は、「恒常的な不安定性」にシフトします。

わたしたちはみな不安に襲われる。流動的で予測できない世界、すなわち規制緩和が進み、弾力的で、競争的で、特有の不確実性をもつ世界に、わたしたちはみなすっかり浸っているのだが、それぞれ個々別々に己の不安にさいなまれている。つまりは私的な問題として、個々の失敗の結果や、自身の臨機応変の才あるいは機敏さへ挑みかかるものとして、不安に見舞われるのである
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

不安を個人がそれぞれの形で抱えざるを得ないこの社会を、ウルリッヒ・ベックは「リスク社会」と呼び、著者は「リキッド・モダニティ」と表現しました。
その不安に対峙するために、「大衆」と称された人々は自己に投資し、競争し、自分で自分の身の回りの安全を確保するように動かざるを得ません。
ここにおいて権力による積極的な統制は不要となります。

一方、エリートたちの振る舞いはどのように変化したのでしょうか。彼らの言い分はこうです。

他の人々がいまのかれらのようにふるまいさえすれば、かれらのようにならないはずはない、と思っている。

コミュニティ 安全と自由の戦場

経営者や成功者の著書が氾濫し、「自己啓発」が世を謳歌する現代日本をずばり言い当てているような指摘がなされています。
「私はこうやって成功した」という”伝記”は、「だからあなたも成功できる」と鼓舞するかのように囁きかけてきますが、その裏では「つまり、あなたが失敗するのは、あなたのせいだ」という冷ややかな視線を浴びせられるかのように感じる人もいるでしょう。
あたかも「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことに」するかのように。
そして彼らグローバルズは、自らを縛る関与を我慢してまでコミュニティの恩恵を預かる必要は、もはやなくなるのです。

自己啓発がはこびる風潮は、「権利上の個人(de jure)」と「事実上の個人(de fact0)」のギャップが激しい現代だからこそ起きうることです。
成功者が言うように、現代社会はあたかも「誰もが成功できる」状況にあります。
例えば、機会均等という言葉は、この状況を端的に表しています。
しかし、実際問題として、多くの人が成功にありつけるわけではない、という現状も多くの人が実感していることでしょう。
というよりむしろ、資本主義は競争を煽り、限られた成功者が自身の自由を維持するために格差を一層助長したり、再生産するという循環を作り出している、と言っていいかもしれません。

このギャップを、例えば苅谷剛彦は「自己実現アノミー」と呼びました。
キャリア教育の名の下に「社会人基礎力」なるものを身につけ、就職実績を出すことを被教育者に求められていますが、しかし実際にはすべての人間がその要求を叶えられるわけではありません。
社会に要求を突きつけられながら、しかし一方でその要求を実現するためのレールは提供されず、自分で何とかしなければいけないのです。

終わりに―前編を書き上げてみて

特に、「不確実な近代(リキッド・モダニティ)」の記述において、著者は、「自己責任社会」と指摘される日本の現状を的確に表現しているように思えます。
個人的に、「コミュニティ」や「自己責任」という言葉は僕がばらばらにしか考えることのできなかったテーマであり、本書を読んだことで一つの視点を得たことは有益でした。

こうまとめてみると、まるで「当たり前のこと」のようにも思えてしまいますが、僕にとってはだからこそ説明しがたい類のものであったように思います。
「当たり前」のこと、経験的に馴染んでしまったものを客体化し、議論の俎上に載せるというのは、実は大変骨の折れる作業です。

前編では、本書の記述に沿って主に時間軸でコミュニティやそれを取り巻く社会の変遷を追ってみました。
後編では、さらに現代の問題がコミュニティという切り口でいかに語られるかをまとめて行きたいと思います。

※あからさまにおかしいところはぜひご指摘いただけると喜びます。

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