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周囲への感謝の芽生え:give and give再考

カテゴリ:世の中の事

生徒の何気ない変化から

島に暮らし、教育の仕事に携わり始めてから5年目。
毎年高校生を世に送り出すような仕事をしていると、
ふとしたときに生徒の変化に気づくということはどうしてもある。

今年は学科試験でない形で進路実現を目指す生徒が多い。
つまり、志望理由書、面接、小論文、GDなど、
学科試験対策とは異なる指導が必要ということであり、
それらはどうしてもイレギュラーな個別対応になる。

なるべくコンスタントに指導できるように分担してはいるが、
教科指導も通常営業中、レギュラーで対応するのは難しい。

そのため、生徒は大人に諸々の指導を依頼する必要が生じる。
生徒から見れば、自分のために大人の時間を使わせてもらうことになる。
依頼してくる生徒の恐縮した態度を見ても、その認識はやはりあるようだ。

面接指導は、意図せずとも生徒の「ありがとうございました」で締め括られる。
こちらのフィードバックは必死にメモをし、特に指摘のなかった部分でも
自分の中で不安に思っている点は素直に質問してくる。

こうしたひたむきさは、1、2年次の教科指導であまり見られないものだ。

人に頭を下げるということ

生徒は、依頼時に頭を下げる行為を無意識に行っていると思う。
彼らにそう促すものが「受験」であることは言うまでもない。

それまでは「してもらうこと」が当たり前だったのかもしれない。
教科指導の必要性を感じていなかったわけではないはずだ。
勉強の先に自分の将来が接続されていなかったのだろう。

具体的で、そう遠くなく、かつ自分の人生へのインパクトが大きい。
例えばそうしたゴールを自らの責任の内に引き受けるとき、
人は他人に頭を下げることができる。そう考えることもできそうだ。

それは仕事でもあてはまるように思う。
「やらされ仕事」の中で感謝が芽生えるという印象はあまりない。
せいぜい感謝される喜びに触れるに留まるのだろうが、
しかしそこで生じる感謝は、発信者にとっても受信者にとっても
どこか歪なものとして交わされてしまう気がする。

そうではなく、目の前のことに自分の前向きな意志が介在し、
必要性や意義を見出せており、やらないという選択肢がもはやない。
そんな状況下であるとすれば、前進のために逡巡している暇はない。
やらなければならないことを必死で考えるだろうし、
途中で他人を頼る必要があるならば、素直に頭を下げる。
前進させたい主体が自分であるとシンプルに思えるならば、
与えられたものにはごく自然に感謝ができるのではないか。

“give and give” 再考

「感謝」について色々と考えているうちに、
“give and give”もまた、前提として”take”が必要ではないかと気づくに至った。
“give and give”する側になるには、
“take”する側(“give”される側)にまずなっておくべきなのではないか、と。

見返りを求められない好意を受けていたことが、
見返りを求めない”give”を提供する側の素養となる。

また、”give”は”take”のニーズによって成り立つ行為だ。
“take”したい人がいて、それに応じられる人が”give”をする。

与えることの喜びは、与えられる喜びから学ぶことができる。
そんなことを思っている。

“give and give”の精神は多数の”take”から始まるかもしれない

先日、”give and give”について思いついたことを整理してみた。
今回の記事で深められたのは、”give”に先立つ”take”とは何か、だ。

生徒がそうだったように、「頭を下げる」という行為は、
“give”なく”take”を求めることと言える。
どうしても達成したいことがあるから「頭を下げる」のだ。
そして、ここで戻ってくる”give”は見返りを求めるものではない。
だから、周囲への感謝の念が自然と湧いて来る。

こうしたサイクルを繰り返す中で、いつしか器から感謝の念が溢れ、
ごく自然に”give and give”のスタイルに転ずる。

社会起業家と呼ばれる人たちもまた、この軌跡をたどったかもしれない。
そんなイメージが湧いたのだった。

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ルーチンワークもばかにできないという話

カテゴリ:自分事

引っ越してからようやく念願の自炊生活に着手できている。
レパートリーはまだまだ充実に至っていないが、
自宅でできたてのものを食べられることが地味に嬉しい。
常備菜を仕込んでおけば食卓の彩りも容易に賑やかになる。

料理を始めた当初は戸惑いもあるし手際も良くないが、
ある程度作り慣れてくると手早くつくれるし
洗い物や副菜の同時進行もできるようになる。
レパートリーが増えれば材料に依る部分も減る。
上達を手軽に実感できるのが料理の良いところだと思う。

忙殺されているときに思い立って料理をしてみると、
気分が多少リセットされたような気になることがある。
ある程度決まった工程に沿った作業というものは
進捗が見えやすいし大体は労力や工夫がさほどいらない。
しかもきちんと成果が残る、という点で料理は優秀だと思う。

ルーチンワークの有難さ

前置きが長くなってしまったけれど、
ここで言いたいことは、ルーチンワークのありがたみだ。
料理を例にしたが、これは様々な職場でも当てはまる。

決まりきった作業は一見退屈だが、
よほど緻密にマニュアル化されていない限り
どんな作業にも工夫の余地はあるし、
確実にその作業を処理しているだけでも達成感は得られる。

むしろ能力を超えたパフォーマンスを要求される方がストレスになる。
力を抜けるタイミングがないし、満足のいく成果に達するのが難しい。
その切迫感が心地よいと感じる人もいるだろうが、ごく稀な例だと思う。

こういう仕事ほどToDoリストに溜まりやすい。
ライフハック的教訓はいつも「大きな仕事は細切れにしろ」と言う。
自分の能力と努力の範囲で達成可能なレベルに落とし込めば、
ストレスな仕事ができるという教えと僕は捉えている。

ルーチンワークの罠、あるいは上手な付き合い方について

言うなればルーチンワークはCゾーンかその周辺にある。
だからこそ陥りやすい罠もあることには気を付けたい。
ついルーチンワークに偏ってしまうというのがそれだ。

自分にとって難しい仕事ほど自分の成長につながるし、
大きな成果によって貢献できる可能性は高まる。
しかしそうした仕事ばかりではしんどさが溜まる一方だ。

要はバランスの問題であって、能力を超える仕事をするために
ルーチンワークをリズムをつくるため、
あるいはどん詰まり感からのリセットのために活用するのが良い。

実はここまでの話はほぼ前職時代に受けた教育のおかげだ。
ついついルーチンワークに逃げがちな自分を叱咤しつつ、
あるべき姿に近づけるようになりたいものだと思う。

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若者が仕事にやりがいを求める背景についての考察

カテゴリ:世の中の事

ひとの居場所をつくる」を最近読み終わりました。
ランドスケープ・デザイナーの田瀬さんの世界観を通して、
自分が求めているものについて改めて考える機会となっています。

農業や農的な営みは自分には関係ないことと思っていましたが、そうではなかった。
水と馬を核とした農のある暮らしが、僕にとってすごく理想的に見えたことに驚いています。

思わぬ気づきがあった理由について考えを巡らせているうちに、あるキーワードに出会いました。
それが、もしかしたら日本人、特に若者が「やりがい」を求める風潮の説明になるかもしれません。

島の高校生たちを見て思うこと

僕は離島の公営塾で3年半ほど働いています。
この島にある公立高校は進学校というよりもいわゆる「進路多様校」に該当します。
離島ゆえに本土の高校へ通うには経済的負担がかかるため、
大学進学を希望する子も高卒で就職を考えている子も通学しているためです。
(とはいえ年々大学進学を希望する生徒が増えている印象です)
また、わざわざ東京、大阪をはじめ全国から生徒が集まる稀有な学校でもあります。

島の高校生の進路の決め方は、公立進学校出身の僕にとって新鮮に映ります。
進学校の生徒は勉強するのは当たり前、大学進学は既定路線となっていました。
したがって大学の決め方も「手前から」考えることが多いように感じます。
つまり、得意・不得意で文理選択をし、実力的にいけそうな大学のラインを見積もり、
その中で興味が持てそうな大学・学部・学科を見繕うという流れ。
政経、法、教育、文など文系学部はすべて受験するなんて人も少なくないです。

ところが、島の高校生にとって大学進学は必ずしも既定路線化していません。
大学に行くと決める前に、なぜ大学に行きたいのかを考えている生徒が多いようです。
将来こういう仕事がしたい、そのためにこういうことを学びたい、だから○○大学△△学部に行きたい。
つまり、「向こう側から」考えているわけですね。

もちろん高校生ですからそのロジックには稚拙な部分も見られるわけですが、
自分の「内なる動機」を意識しないことには大学を選べない、そんな雰囲気を感じます。
進路多様校だからこそ、周りに流されない目的意識が要求されるという背景もあります。
近年関心が高まっているキャリア教育が流れを後押ししているという面もまたあるでしょう。

「内なる動機を大切にせよ」
こうしたメッセージが世に広まるようになった契機を考えてみたいと思います。

内発的動機こそ大事だと思わされてきた世代

たとえば、勉強というものの捉え方について。
高校生にもなると膨大な知識の習得が求められますが、何らかの意義を見いだせないと単に辛いだけ。
しかも、「いい大学に入って大企業に入ることがゴールではない」という風潮が主流になりつつある。
にんじんに頼り過ぎてしまうと、消耗しきった未来の自分がイメージされてしまう。

こうして内発的動機が大事なのだと悟る若者が出てくるのも当たり前かもしれません。
内なるモチベーションを保てる仕事、つまりやりがいのある仕事に若者が注目するのは、
世の中がそう思わせたからだ、という面は確実にあると思います。

「意味のないことなんてしたくない」

僕の中で大きいのは、「意味のないことはしたくない」という気持ち。
「これをやって誰が喜ぶのか」「これをすればどこかに不具合が出るのではないか」
そんなことで悩みながら仕事をするのは出来る限り避けたい。

実際、これまで価値があるとされてきたことが意義を失っていく様を目の当たりにしてきたわけですから、
「物事の意義」に向いた引力が一層強化されるのも無理がありません。

つまり、これは内発的動機付けにも関わる話です。
自己の利益だけを追求したいのではない。
自分のやっていることに意義を見出したい。
こうした欲求が芽生えれば、自然と仕事を選ぶ目も厳しくなるでしょう。

若者の「誰にでもできそうな仕事」を避ける傾向について言及する人もいますが、
これも仕事に対して意義を求めるからこそではないでしょうか。

また、バブル崩壊によって、同じ会社で定年まで働けるかもわからない時代になり、
定年まで働いたとしても公私に充実した暮らしが送れるわけでもなくなりました。
なおさら就職先選びには慎重にならざるを得ません。

ひとの居場所をつくる」を読んで導かれたのは、「徒労感のない仕事」というキーワード。
意義がないことはしたくない。自分の内なる動機を実現する働き方がしたい。
こうした僕の意識もまた、時代の流れによって形成されたのではないかと感じています。

社会貢献が「正解」に見えてくる

・忙しく働いて家庭を顧みないのは望ましくない。
・自己の利益追求の結果、環境を破壊したり、他者の犠牲を伴ったりするのは良くない。
・仕事に没頭しすぎて生きがいを見いだせないサラリーマンはカッコ悪い。

「否定」の言説ばかりの中で、自分はどういう働き方をすればいいのか。
「否定」されない仕事、自分が納得できる仕事とはどういうものか。
バブルの崩壊は「正解」の崩壊でもあった、と個人的には思っています。

こう見ると、次なる「正解」を探そうとする意識が芽生えるのも無理はないかもしれません。
社会貢献志向を持つ若者が増えているのもここにつながっているように思えます。
もちろん、社会貢献志向そのものが悪と断定することはできません。
しかし、そのモチベーションが「正解」を求める姿勢にあるとすると、齟齬が生まれます。

「自分はこうしたい」というエゴが原点なのに、「地域の課題だから」「人々が求めていることだから」というすり替えが行われる。
どこか地に足の着かない印象を受けたら、まずここを疑うようにしていますが、結構当てはまっているように思います。

「すり替え」というのは、「問題を創作している」と言い換えると分かりやすいかもしれません。
自分の「何か貢献したい」「こういうことをしたい」という思いに任せて、あたかもその問題が存在するような口ぶりで話す。

社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

「正解」を求めるのであれば、それはレールに乗るということと何が違うのでしょうか。
内なる動機を大切にしているようで、実は外見に強く注意を払っているに過ぎないということもありえるのではないでしょうか。
「内発的動機が重要である」という言説が、外発的動機付けに転じてしまったと見ていいかもしれません。

「心の声」に耳を傾けられる社会へ

これまでの話を整理しましょう。

・21世紀を生きる若者は、内発的動機こそ重要という風潮に包まれていた
・これまで当然視されてきた価値が失われる中で、一層意義の重要性が際立った
・バブル崩壊によって否定の言説が充満し、これまでの「正解」もまた失われた
・ところが、次なる「正解」を求めようとする外発的動機付けがかえって強化されてしまった

「やりがい」は内発的な動機付けが前提にあります。
「正解」を求める外発的動機付けによる「やりがい」志向、「社会貢献」志向はなんら本質ではなく、
だからこそ就職活動や地域活動で空回りする事態が発生するのかもしれません。

結局のところ、今の日本社会では「心の声」を受け止める土壌ができていないのだと思います。
内発的動機付けが重要視されながら、その具体的な作法が浸透していない、ということ。
(「心の声」について考察するだけで複数記事になりそうなので、一旦抽象的な表現に留めます)

ノイズをなるべく取り除き、自分の「心の声」に耳を傾ける。
自分の常識に囚われず、相手の「心の声」を拾い上げる。

結論は非常にありきたりな言葉に落ち着いてしまいました。
具体的にどうすればいいかは今後も引き続き考えていきたいと思います。

 

※就職活動については↓の書籍がなかなかおすすめです。

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