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東北 不屈の歴史をひもとく-辺境から歴史を編集する

カテゴリ:読書の記録


2011年3月11日に大震災に見舞われた東北。
その歴史は度重なる天災、人災を乗り越えて積み重ねられてきました。

我々の視線は、無意識のうちに中央からの編集というフィルタを通して東北へと注がれています。
そのことに気づかせてくれるのが本書の見所でもあります。

著者は読売新聞記者の岡本公樹氏。
東北に約8年駐在した著者が有識者の知見を集約し、まとめあげたのが本書です。

結論

本書は第一に読み物として面白いと思います。
新聞記者だけあって文章は読みやすく、学術書の退屈さはありません。

ところが、厳密さでは疑問に残る点があります。
事実が不明な点について、複数の可能性に触れずにひとつの説だけ紹介することが度々あるのがその一因かなと。
もちろん、それが読み物としての面白さを損なうものではありませんが。

また、著者自身が本書の中で「東北」という括りの限界を露呈したのではないかなと思います。
後述するように、「東北」は広いのです。

不屈の東北

東北は過去に幾度となく天災、人災によって危機をかみしめてきた歴史をもつ。征夷大将軍・坂上田村麻呂の征戦以来、中央政府との対決につねに負けてきた「五戦五敗」の歴史という人もいる。だが、歴史はオセロゲームではない。東北は、圧倒的な力の前に倒れても、そのたびに、六度も立ち上がったのだ。業火のなかから不死鳥は蘇る。今回は七度目の蘇りだ。必ず東北は立ち上がることができる。その証拠を歴史で示すのが本書のいちばんの目的だ。

東北─不屈の歴史をひもとく

この「五戦五敗」とは

①蝦夷戦争(三八年戦争、元慶の乱など)
②前九年・後三年の役
③奥州平泉の滅亡
④伊達政宗の豊臣秀吉の服従
⑤幕末の戊辰戦争

の5つの戦いでの敗北を指します。

また、過去には大きな天災があったことが記録に残っています。
貞観十一(869)年五月二六日、東北の太平洋側を襲った貞観地震と津波。
貞観十三(871)年には鳥海山が大噴火、さらに延喜十五(915)年にも十和田大噴火がありました。
慶長十六(1611)年には伊達政宗領である仙台藩(伊達藩)を大津波が襲っています。

それでも東北という地で暮らし続けた人たちの存在が現在の東北をつくっているわけです。
だからこそ、著者はこれからの東北の復興に希望を見出すことができたのでしょう。

たとえば、東北の稲作

東北と言えば一般的には「米どころ」のイメージがあり、地元民もまたそれを誇りに(ときに自虐的に)思っています。
ところが、文献史料や考古資料をたどると、昔からそうだったとは言えない事実が確認されます。

稲作は弥生時代に大陸から伝わりましたが、それは西(九州)からの伝達でありました。
一時期は青森まで伝わった稲作は、当時寒冷だった東北北部には馴染まず、仙台平野・大崎平野で一旦留まります。

そもそも縄文時代においては、東北が最も人口密度が高かったとする説があります。
つまり、東北はもともと資源に恵まれたところであったのが原因と著者は指摘します。

もっとも考えられるのは、(東北に住んでいた)縄文人は十分に豊かで、ハイリスク、ハイリターンな稲作に見向きもしなかったということだ。
稲作は、灌漑、水田などの準備がたいへんな上に、水の管理や害虫の駆除など水田に張りついていないと豊かな恵みをもたらさない。もともと、たくさんのマスやサケが春と秋に東北の川を遡上していた。稲作のように夏場にたいへんな苦労をして準備をしなくても、定期的に年二度の収穫期を迎えることができるのならば、川の利用価値としては漁業の場としてのほうがうんと高かったのだろう。
※括弧内は引用者による

東北─不屈の歴史をひもとく

時がたち奈良時代には気候の温暖化が進み、岩手県の胆沢盆地まで稲作をはじめ農耕が活発化しました。
平安時代に完成した『延喜式』には、全国で最も稲作生産量が多いのは陸奥国(東北の日本海側)だったとあります。

弥生文化の象徴である稲作が定着しなかった北東北は続縄文時代を迎えます。
そこに暮らす人々は北海道の影響を受けつつ、縄文期に引き続き狩猟・採集及びソバなどの農耕を主な生業としていました。
稲作に従事しない以上、中央、つまり大和政権の支配下になかった東北の人たちは「蝦夷」と呼ばれるようになります。
そして大化の改新をきっかけに、阿倍比羅夫の日本海沿岸遠征があり、次第に中央の侵食が始まります。

急激な中央の進出と王化への反発として東北各地で反乱もありました。
蝦夷と王権の激突といえば、阿弓流為と坂上田村麻呂が登場する三八年戦争が有名ですね。

秋田でも、元慶二(878)年に俘囚(調停に服属した蝦夷)たちによる元慶の乱が起こっています。
時は平安時代。温暖化によって北東北でも稲作が広がり、秋田の横手盆地は現在でも有数の稲作生産地です。
元慶の乱ではこの豊かな横手盆地の存在が乱の成否を分けたと著者は言います。

気候の変化(温暖化)によって東北に稲作が定着した、と先に書いています。
ところが、江戸時代にあった三度の大飢饉は東北の気候の厳しさを強調する結果となりました。
天保の大飢饉(1833~1837年)では秋田や山形の米が石巻や気仙沼に運ばれていたことが記録に残っています。
つまり、日本海側と太平洋側では後者の被害のほうが大きかったことが読み取れます。
「ヤマセ」という言葉もありますが、特に気候に左右されやすい東北の太平洋側が稲作に向いていると言うべきか、すぐには断言できないでしょう。

「東北」という括りの限界

稲作の例を見るだけでも、単に東北六県を「東北」と括ることの限界が見えてきます。

『古代の蝦夷と城柵』の紹介記事でも言及しましたが、南東北は比較的早く稲作及び王化が普及しています。
一方、北東北は、北からは北海道の続縄文文化・擦文文化、南からは倭王権の文化が入り込み、双方が入り混じる独特の文化が形成されていました。
また、太平洋側と日本海側では気候の面で稲作への適性が異なります。これは現在でも変わっていません。

東北で起こった歴史上の出来事が、そのまま東北に住む人たちすべてに影響を及ぼしたわけではありません。
その点で本書が提示した「不屈の東北」像には限界があるように感じます。
本書は、「東北」という括りが、我々の、歴史を見つめる目をぼやかしてしまう可能性もまた掘り起こしてしまっているからです。

よくよく考えてみれば、東北というのは中央から見た位置関係でありました。
これは、倭王権がそれに服属しない者を「蝦夷」と名づけたことと共通しているようにも思われます。

そのような状況を自覚しつつ、東北はどう立ち位置をとるべきか。
著者から大きくてまだ少し曖昧なガイドラインが提供されました。
次は、一人一人の「東北」像を描くことがこの本の読者に委ねられているのかもしれません。


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夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか-幸せな結婚を科学する

カテゴリ:読書の記録


 タイトルだけ見て、男女の脳の違いがわかるのかなあと思い購入。

原題は「FOR BETTER: The science of a Good Marriage」。
幸せな結婚に関する研究成果を整理して、多くの人がよりよい結婚生活を営めるようなアドバイスに落とし込んでいる本です。
いい意味で期待を裏切られた良書でしたので、ここに紹介したいと思います。

目次は以下のとおり。

はじめに 結婚を科学的に研究する

PART1 より良い結婚生活のために
01章 結婚の現実を知ろう-離婚は少なくなっている
02章 コミットメント(結びつき)の科学-浮気するのは遺伝子のせい?
03章 愛の科学反応-ロマンスは測定できる?
04章 セックスの科学-快適な性生活のための傾向と対策
05章 結婚と健康との関係-免疫力をダウンさせる結婚とは?

PART2 結婚生活に問題が生じたら-軌道修正するために
06章 あなたの結婚を科学する-夫婦関係の健康度を診断しよう
07章 衝突の科学-夫婦げんかのルール
08章 子育ての科学-子供は天使か、悪魔か
09章 家事の科学-雑用をめぐる戦争
10章 結婚の経済学-愛さえあれば・・・・・・大丈夫?

PART3 今日からできること
11章 ジェンダーロール(性別による役割)と主導権争い-対等な結婚というのは幻想か?
12章 結婚生活を長続きさせるためには-あなたの離婚リスクはどれくらい?
13章 良い結婚の科学-健全な結婚のための処方箋

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

幸福な結婚の科学

まず、冒頭から一節を引用しましょう。

幸福な結婚をして、良い結婚生活を送る秘訣とは、いったいなんだろう?
なぜ幸福な結婚と失敗に終わる結婚があるのかという謎を、数多くの人びとが何十年もかかって解明しようとしてきた。愛の荒波をうまく乗り切れるか、はたまた難破してしまうのか、それを左右するのはいったいなんなのだろう。一緒にいるときが一番幸せそうな夫婦と、離れているときが一番幸せそうな夫婦がいるのはなぜだろう?ストレスや不和や離婚のリスクから、結婚を守る手段はあるのだろうか?
じつは、こうした質問への答えは、思いもよらないところに見つかる。愛情や人間関係について最高の助言をくれるのは、セラピストやセルフヘルプの専門家ではなく、科学の世界の研究者たちなのだ。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

日本ではともすれば「根性論」になりがちな結婚というものに、アメリカでは科学のメスを入れる取り組みが盛んに行われているそうです。
本書で紹介されている研究結果も基本的にはアメリカ国内が対象ですが、日本人にとっても十分参考にできるものだと思います。

たとえば離婚に関するデータ。
われわれのジョーシキとは異なる(が言われてみれば納得する)研究成果に目がいきます。

三世代の女性の十年後の離婚率
結婚時期  大卒 高卒
1970年代 23% 26%
1980年代 20% 25%
1990年代 16% 19%

1980年代に結婚したカップルの年齢および学歴別の二十年後の離婚率
全体の離婚率…39%
大卒、25歳以上で結婚…19%
大卒、25歳未満で結婚…35%
大学中退、25歳未満で結婚…51%

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

これらの統計から離婚率は「結婚年齢や、学歴、結婚した時代」の影響を強く受けていることがわかります。
先進国では晩婚化が進んでますが、結婚自体の成熟度もあがっている、と見ることができそうです。

この傾向について、ラトガーズ大学で結婚について研究しているバーバラ・デフォー・ホワイトヘッドは、「ソウルメイト(魂の友)結婚」と呼んでいます。
ソウルメイト結婚では男女ともに相手に期待するものが多く、「公平さ、協力、個人的かつ感情的な満足にもとづいた関係」を期待します。
それは裏を返せば、期待値が高いだけ大きな労力が求められるということにもなります。
結婚自体のハードルがあがったことで、結婚するカップルは全体として減る。
結婚に対するお互いの期待値の高さに答えるためには人間的な成熟が必要で、若いうちに結婚したカップルは期待に答えられずに離婚しやすくなる。
このデータ一つとっても、昨今の結婚の様相を想像することができます。

以下では特に僕が気になった点に触れていきたいと思います。

事実の解釈の仕方が現在の結婚の指標となる

幸福な結婚をしている人は、昔の話を笑いながらいかにも懐かしそうに話すことが多い-それがたとえ失業経験や貧乏の苦労話だったとしても。ところが、不幸せな夫婦は過去について否定的に語ることが多い。
たとえば妻が、夫と出会ったころに、はじめて彼のむさくるしい部屋を訪ねたときの話をするとしよう。
「あの部屋ときたら、それはひどかったの!靴下やビールの空き缶があちこちに置きっぱなしで。まさに独り者の寝床ね」
あるいは、こんなふうに思い出す妻もいるかもしれない。
「とにかくひどい部屋でした。あの人は、あの頃から本当にだらしのない人だった」
むさくるしい部屋の話をしているのは同じだが、表現はまるで違っている。だが、どちらの妻が幸福な結婚生活を送っているかは明白だ。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

過去を振り返るときに、現在の結婚の幸福度を測ることができる、という話。

「この人!」と決めた相手を否定することは、その決定を下した自分を否定するにもつながります。
認めたくない不満は現在を語る上では表出しにくいものなのかもしれません。
一方、事実としての過去は唯一無二であっても、それをどう捉えるか、解釈の部分は振り返る現在に依拠します。
そこに現在抱えている不満が表出するということは十分にありえるでしょう。

事実をどう解釈するかについては、「代名詞の選択」の話も非常に面白いです。

幸福な夫婦は自分たちの話をするときに、「私たち」と言う。彼らが語る馴れ初めの話は、ふたりに共通する話題ばかりだ。ワシントン大学の研究者たちはこれを「私たち度(ウィーネス、We-ness)」と呼んだ。幸福でない夫婦はそうした一人称複数形の代名詞「私たち」を避けて、「私」や「あなた」ばかりを使う。
「私たち度」の例はたとえばこんな具合だ。
「私たちは山へハイキングに行って、ひどく道に迷ったわね。ふたりともすっかり景色に夢中になっていたから」と妻が言った。
「あれっきりハイキングには行かなかったけど、あれはぼくらの最高の旅だったよ」と夫が答えた。
自分たちを「私たち」と考えない夫婦は平行線をたどるような生活をしていることが多く、互いに結びついていると感じていない。そんな夫婦が同じハイキングの話をしたとしよう。
「あのとき、あなたが地図を忘れたから、何時間もかかってやっと家へたどりついたわ。私はすっかり疲れはてたわ」と妻が言った。
「いずれにしろ、きみはハイキングなんか好きじゃなかっただろ」と夫が言った。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

本書で後述されていますが、「We-ness」はたとえば口論の際にも測る事ができます。
「お前はいつも」「あなたは決して」という言葉には「私たちはカップルである」という意識の薄れが垣間見えます。
結婚したからにはそれぞれの問題は二人の問題であると解釈し、協同して解決を図るのが望ましいはずです。
相手を責めるのは簡単ですが、残念ながらそこに生産性はありません。
こんな会話の端々に、結婚の幸福度がにじみ出てくるわけですね。

子供は幸福な家庭でよりよく育つ

結婚生活を考えるとき、子供の存在は無視できないものです。
むしろ子供が生まれて以降は、家庭において子供こそが主要になると言っていいかもしれません。

「夫婦がふたりきりで過ごす時間は、子供が生まれるとわずか三分の一にな」ると言われている中、夫婦の関係と育児とをどう両立させるべきか、これはなかなか難しい。
しかし、夫婦の時間を犠牲にすることが最良とは限りません。

ゆるぎない幸福度の高い結婚は子供にとって良いものだ。たとえそれが、両親と過ごす時間が少なくなることを意味していても、研究はまた、幸福な結婚をしている両親は、不幸せな夫婦関係に疲れきっている両親よりも教育的効果が高いと示している。
(※太字は引用者による)

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

子供のことを第一に考えるなら子供と関わる時間を最大化するという発想は一般的に思えます。
しかし、研究では夫婦生活を良好に保つために、夫婦二人きりで過ごす時間をつくることが、結果的に子供によい影響を与えることを示しているのです。
実際、子供もそれを願っているのです。
エレン・ガリンスキー博士の<子供たちに聞け>と名づけられた研究の結果がそれを物語っています。

ガリンスキー博士は子供たちに「ひとつの願いの質問」を投げかけた。それはこんな質問だった。「もしひとつだけ願い事がかなえられて、お父さんかお母さんの仕事についてなにかを変えることができるとしたら、どんなことを願いますか」というものだった。
親たちの六〇%近くは、わが子がもっと多くの時間を一緒に過ごしたいと願うと信じていた。ところが子供たちは、両親と一緒に過ごすのは大好きだけれど、たった一つの願い事に選んだのは、別のことだった。「子供たちは、両親のストレスが少なくなって疲れませんようにと、願うものなのです」とガリンスキー博士は言う。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

結婚生活を幸福にするのはコミュニケーションの質と量

この本の主題は「結婚をよりよいものとし、一生を添い遂げられる二人になるためには」。
本書を読みながら感じたのは、結局のところ「コミュニケーションの質と量」が良い夫婦関係の秘訣である、ということです。

端的な例として、たとえば夫婦の軋轢の原因となりやすい家事の分担について。

家事労働についての広範囲なリサーチから得られた大まかな教訓は、家事労働で重要なのは、掃除、洗濯、炊事を誰がするかということだけではないということだ。家庭内の労働分配は、夫婦の相対的な力関係と、その結婚が真の意味で夫婦相互の協力のもとで成り立っているかどうかを物語る。家事労働と結婚に関する大多数の研究は、男性がもっと家事や子育てに貢献する必要があると教えている。女性たちは、家庭内でひどく重い責任を負い続けている。男性がもっと貢献するためには、女性は一歩引き、男性が一歩踏み込んで自分なりのやり方で家事をするのを、指導したり文句をつけたりしないでいる必要がある。単純なことのように聞こえるが、これは大きな一歩なのだ。女性が家事全般の監督権を手放すのが難しいのは、家が片付いていないと、夫ではなく自分の家事能力が身内や友人から批判されると信じているからでもある。たしかに、現実はそのとおりなのだ。
(※太字は引用者による)

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

監督権を持つ側(多くは女性)が相手の家事のやり方にいちゃもんをつけることで、相手はやる気をなくしますし、喧嘩の原因にもなります。
これは家事の分担を進める上ではむしろマイナスです。
相手のやり方が気に入らなくとも、質さえ保つことができていれば寛容になることが求められるのです。

これはまさに夫婦間のコミュニケーションのあり方を問われている、といえるでしょう。
その根本には「自分がされたら嫌なことを相手にしない」という当たり前の教訓があるように思えます。

さて、本書では研究成果を集約する形で、「七つの戦略」を提示します。
「うまくいっている夫婦が幸福を維持し、夫婦の絆をさらに強くするために活用している」戦略として紹介されています。

第1の戦略 良い出来事を楽しく祝う
第2の戦略 結婚をめぐる「五倍の法則」を利用する
第3の戦略 理想を高く持ちつづけよう
第4の戦略 家族や友人を大切にする
第5の戦略 パートナーに幸せにしてもらおうと期待しない
第6の戦略 とにかくセックスをしてみよう
第7の戦略 ロマンスを再燃させよう

これらは「コミュニケーションの質と量を高めよう」という一言に総括できるでしょう。
お互いが良き伴侶であるために何ができるか、相手のために何ができるか、二人のために何ができるか。
良いコミュニケーションの積み重ねが幸福な結婚を形成するのです。
重要なのは、幸福な結婚は二人で創り上げるものだということ。
「相性」は結果論であって、それを嘆く前に二人でできることは必ずあるはずなのです。

本書が極めて優れているのは、こういったアドバイスがデータや研究によって裏付けられている点にあります。
そのため、「あ、みんなそうなんだ」という安心感を同時に得ることができる構成になっていると感じました。

僕自身はまだ結婚していないのですが、参考にしたいことがたくさんありました。
350ページ超と非常に分厚い本ですが、どのトピックも一般的に関心の高いものになっているので、退屈する暇はありません。
ぜひ一度手にとって読んでみてください。Amazonでは電子書籍版も販売しているようです。

 


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古代の蝦夷と城柵-蝦夷文化の形成をたどる(3)

カテゴリ:読書の記録


1つ目の記事はこちら:蝦夷観念について
2つ目の記事はこちら:蝦夷文化の形成について

倭王権の対蝦夷政策

倭王権の蝦夷政策は、大きく大化の改新以前/以後で区別することができます。

大化の改新以前について、東北において関東系土器が出現した点について著者は注目しています。
関東系土器というのは文字通り関東地方でつくられた土器です。
それが東北に伝わっていたのであれば、関東から関東系土器が持ち込まれたか、技術が伝来したか、いずれかが考えられます。

六世紀~七世紀初頭の仙台平野の遺跡で関東系土器がまとまって出土した事実があります。
これから著者は王権が移民政策のターゲットとして仙台平野を設定し、そこに移民の居住区を築いたと見ています。
仙台平野には蝦夷の拠点集落と見られる南小泉遺跡があり、ここでも関東系土器が多数出土しました。
拠点集落は蝦夷の南北交流の中心でもあり、そこには各地との交易ネットワークがあったはずです。
おそらく、倭王権は蝦夷の拠点集落を政治的におさえることで、交易ネットワークの掌握を目指したのでしょう。
それに連動して蝦夷の王権に対する朝貢の痕跡が確認されており、王権と蝦夷との緩やかな支配-隷属の関係が築かれていたのです。

著者は関東系土器出現期の王権の対蝦夷政策を以下のように整理しています。

1.植民と周辺地域の支配
2.交易ネットワークの掌握と蝦夷集団の服属、および朝貢関係の設定
3.1,2の目的実現のための武力保持と、集落の防御

まもなく大化の改新が起こり、時の政権は国造(地方を治める官職で、その地域の豪族が任命された)支配を解体しました。
続いて全国一斉に評(こおり・後の郡に相当)を設置し、王権の地方に対する一元的な支配体制の構築を目指します。
そして大化三年(六四七)、大化四年(六四八)に相次いで新潟市付近に渟足柵を、新潟県村上市付近に磐舟柵を設置しています。
これらは柵戸(きのへ・さっこ)と呼ばれる関東地方などから東北地方へ送られてきた移民を伴ったものでありました。
つまり、大化の改新以降、柵戸を付属させた城柵の造営が開始された、というわけです。

さて、城柵とはなんでしょうか。
「柵」とは「キ」と読まれ、この「キ」はもともと施設の外囲いの呼称であったそうです。
「城柵」は「キカキ」と読まれ、著者は「木を立て並べてカキ=垣根上にめぐらした施設の意と解される」と記しています。
つまり、もともとの城柵とは防御施設そのものを指していましたが、転じてその防御施設を周囲または一部にともなった施設全体をも「キ」(城・柵)と呼ぶようになったと見られています。

七世紀中葉~八世紀初頭には宮城県中北部の各地で囲郭集落がいっせいに造営され、在地の土器と関東系土器が並存していました。
このことから著者は関東からの移民と在地住民(=蝦夷)とがともに居住していたとみています。
囲郭集落には王権の蝦夷支配を前提とした住民の政治的な編成があった可能性を著者は見抜いたわけです。

この囲郭集落が初現期の柵でありますが、改新以降はこの城柵が明らかに増えています。
また、考古学の成果を整理しつつ、特に改新以降の城柵について以下のような機能があると著者は考えます。

軍事的機能:防御施設としての機能のみならず、有事の兵力の供給源の機能も備えていた
移民政策の受け皿:「柵戸」は軍事力だけでなく農業の労働力としても期待されており、城柵は彼らの受け皿となっていた
交易センター:南北両世界の交流・交易の場となった
官衙としての行政機能:柵造(さくのみやつこ)が置かれ、移民集団と在地の蝦夷がともに居住する地域の行政機能を司っていた
朝貢センター:蝦夷から王朝に対しての基本的、恒常的な朝貢を受け入れた

城柵といってもその存在形態は多様であったようですが、多機能であることが伺えます。
この城柵も10世紀半ばには相次いで消滅したとのことです。

著者による城柵のまとめのページもありますので、こちらも参考にしてください。

蝦夷の社会性と移配

さて、ここからは蝦夷社会について簡単にまとめます。
本書の論点となるのは狩猟。実は研究者の間では蝦夷の生業としての狩猟の可能性に否定的だそうです。
この原因について、著者は狩猟の証拠となる鏃などの出土品は、戦闘の道具でもあることに由来すると指摘します。
また、八~九世紀ごろには東北北部でも稲作農耕を行っていた蝦夷が多数いたという研究結果もあるそう。

その上で著者は、蝦夷が狩猟を主な生業の一つとしていたと主張しています。
文献資料に注目すると「弓馬の戦闘は、夷獠の生習」(『続日本後紀』)という記述があります。
ここから、蝦夷の戦闘能力が生活文化と結びついたものであると読めます。
日常生活で食料を得るために弓を使用しているのですから、戦闘においても自在に活用できるということです。
「弓馬」とありますが、蝦夷は馬飼もまた生業としていて馬の扱いに優れていました。
蝦夷はこの両者を用いた高度な戦闘技術で官軍を苦しめたわけです。

面白いのが、遊牧民の優れた集団戦法を引き合いに出し、蝦夷も同様に移動性の高い暮らしをしていたのではないかという著者の考察。
実際、東北北部の日本海側では蝦夷の存在が早くから倭王権が把握していたにもかかわらず、蝦夷の暮らした痕跡を確認できる遺跡があまり見つかっていません。
これは、蝦夷が遺跡として後世に残らないような、移動性の高い生活を営んでいた可能性を示唆しています。

ところで、蝦夷は元来そう大きくない規模(五十戸程度の「村」)で生活をしていたとされています。
しかし、ひとたび蝦夷の集落で反乱が起こると、短期間で広範囲の蝦夷が反乱に呼応するという記録が残っています。
これを素直に受け止めると、蝦夷は大きな集団として生活するほどには社会的統合が未熟でありながら、一方で独立した複数の「村」を相互に結びつけるネットワークが形成されていたと考えられます。
このネットワークは、平時はヒトやモノの交流に活用され、有事には緊急の連絡網として機能したのではないか、そう著者は主張します。
蝦夷支配を目論む王権にしてみれば、このネットワークは厄介です。

ちょうど三八年戦争(七七四~八一一)における征夷ではじめて目ぼしい戦果があがった延暦十三年ごろからはじまったのが、蝦夷の諸国への移配でした。
この目的は王権との戦闘に参加した蝦夷に対する懲罰的な意味も含め、抵抗分子の勢力を分散することにありました。
逆に言えば、それだけ蝦夷の抵抗が激しく、朝廷は苦戦を強いられていたとも読めます。

移配蝦夷は諸国に少数ずつ分散され、一般公民に囲まれた土地でさまざまな差別を受けていたと言われています。
当然強い抵抗感を覚える蝦夷もいたようです。
移配されてなお狩猟に従事し、一ヶ所に定住しようとしなかったり、実際に反抗に及んだりした蝦夷がいたことが記録にあります。
が、実際には短期間のうちに多くの蝦夷が国家の「教喩」にしたがい、同化していったようです。
移配蝦夷は法制によって公民と同列に扱わないと定められたものの、調庸が免除され、夷禄と呼ばれる経済的な援助も受け取っていたとする記述が文献に見られます。

 

以上、3回にわたって本書の内容を自分なりにまとめてみました。
端折った部分が多いですが、その点についてはぜひみなさまご自身で調べていただけたらと思います。


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