Tag Archive: あたりまえ

夏の終わりに考えていること

カテゴリ:自分事

海士町に移住してあと3ヶ月足らずで5年が経つ。

今年は、自分の見聞を広める一年にしよう。

そう思い立って、なるべく島外に足を運ぶ機会をつくっている。
まだまだ海士町という地にも足が着いていないのだけど。

この島の日々の中で学んだこととか、気づいたこととか、
考え続けたこと、考えるのをやめたこと。

いったん意識が島の外に向くと、
ひとつの方針の下に集積しつつあったそれらは
徐々に焦点がぼやけ、境界が曖昧になり、散開し始める。

僕は一つの場所で確かに5年足らずを過ごした人間であり、
きっと何かを語ることができるしそうしてきたのだけれど、
その一方で語るべきことが解体されつつあるのが今。

一言で言えば暗中模索という感じ。
それでも「光明」と呼べそうなものが
いくらかでも手元に残っている。

コンテンツとしてのICT教育×PBL

ツールとしてのICT教育も気にはなっているけど、
プログラミング講座の方にもっと関わりたい、と思う。
技術を身に付けたい純粋な欲求もある。

技術やスキルはそれを持つ人が
具体的に社会に影響を与える手助けをする。
プログラミングとPBLの親和性はかなり高いはずだ。

たとえば高校生が学校の授業の一環で
地域社会の課題解決に取り組むケースが増えている。
こうしたとき高校生が技術を持っていたら、
課題解決が「提案」で収まることなんてないと思う。

「現場」を重視するなら「実践」をこそ重視したいものだ。

「会社」「雇用」の枠にとらわれない「仕事」

島で暮らしていると、仕事はつくるものだとよくわかる。
「職場」「肩書」の縛りをうまく統合できれば、
もっと自由にかつクリエイティブな仕事ができるはず。

全然言語化できていないんだけど、
少しずつ輪郭が見えてきたような気がする。
この1年のうちで1つでも実践できればいいのだけど。

まずは今の職場を週4日勤務にするくらいでないと。


(新装版が出ていたのは知らなかった)

いわゆる「教育」の枠にはまらない関わり方

「やっぱり将来も教育の仕事に携わるの?」
「いつ秋田に塾つくるの?」

良く聞かれることだが、いい加減うんざりしている。
一般的なイメージとしての「教育」の領域は非常に狭い。
そんな枠組みに収まるために島になんか来ていない。

正直なところ、「教育者」的な関わりには飽きつつある。
「地域のおっちゃん」みたいな関わり方、
もっと言えば相手が高校生であっても同じ市民として、
あるいは仲間として接していきたいとなんとなく思っている。

これは取り立てて新しい概念ではない。
「教育」という既存の枠に当てはまらないがために
なかなか説明しても伝わらないのだけど。

家族を持ち、地域の一員となる

やっぱり家族持ちたいなって思わされるのが島暮らし。
誰もが家族を持つべきと言うつもりはさらさらないが、
ブログのタイトルにもある「幸せな暮らし」の実現のため、
少なくとも僕にとってそれはとても大事なもののようだ。

「秋田」にこだわる理由

ふるさとである秋田への思い入れについて語るとき、
「別にいい思い出があるわけでもない」とは
なかなか言い出しづらいものがある。

WE LOVE AKITAという活動に2008年末から関わっているが、
僕の秋田愛は人や場所との出会いによって育まれた。
つまり、WLAに関わった以後がポイントになっている。

そうして育まれた愛着が他のどの地域にもましてあるから、
「秋田」という土地にこだわっている。
もしかしたら、ただそれだけでしかないのかも、と最近思っている。

まとめ:現在地を確かめるために

当たり前だったことの意義が問いなおされている中で、
心ここにあらず、の一歩手前にいる心地がしている。

この島にいる自分がどういう位置に立っているのか。

たぶん、それが知りたくて島の外にある情報や機会に
もっと目を向けるようになっているのだろうと思う。

仕事と暮らしの手応えはどうしても薄れてしまうが、
様々なことをフラットに見ることができている今のうちに
様々な場所から現在地を眺める試みにいそしみたい。

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複雑で高度な21世紀への挑戦と一抹の不安

カテゴリ:世の中の事

島に移住して間もなく薦められた本をようやく手に取った。

邦訳の初版は1999年なんだが、
今読んでみても”新しい”見方を提供してくれている。

まだ最後まで読み切っていないが、
数十ページ進めてみてとっさに思い浮かんだことがある。

現代は性悪説から性善説への移行期かもしれない

本書の具体的な内容については別途整理したいが、
率直に言えば、本書の内容を実践することは
これまでの人をコントロールするやり方よりも難しい。
難しいだけより良い成果が出る、ということなのだと思う。

20世紀においてはシンプルでわかりやすく
とっつきやすい直線的なやり方が好まれていた。
しかし、その限界が多方面で21世紀の課題として残っている。

どん詰まり感が支配しつつある時代背景を考えれば、
複雑だが、より人間的だったり、より本質的だったり、
そうした方法に注目が集まるようになるのも無理はない、と思う。

ただ、自覚は必要だ。
水準を複雑で高度なものにすることへの留保が。
新しい正義が誰かを置き去りにするかもしれないことへの留保が。

すでに、気づいた人が気づいていない人を、
しようとしている人がしようとしない人を批判する声が大きくなっている。
対立により摩擦が生じるという覚悟が、きっと必要なんだろう。

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「わかってもらえない」と思ったら負け

カテゴリ:自分事

年度末あたりからストレスフルな日々が続いていた。

細かな仕事を多く抱えながら不慣れな業務に当たり、
しかし誰からも現状を把握してもらえていない状況で、
「よくわからないけど忙しそう」と見られているのを感じていた。

余裕がなくなると仕事の振られ方一つでイライラしてしまう。
イライラが募ると、尊重されていない、と思うようになる。
「それくらい当前だろ」という言葉や態度に過敏になる。

そして、ある日、不満を思わずぶつけてしまった。

わかったことは、
このイライラを昇華させるのは周囲でなく自分だ、ということ。

自分だけがしんどいわけではなかった。
誰もが忙しく、心を亡くしている。
結局、誰かが誰かのために配慮することからしか事態は動かない。
そして、その配慮を他人に期待するからその先が進まない。

周囲を許すことが自分を許すことにつながる。
逆に言えば、周囲に求めすぎるからストレスがたまる。

「わかってもらえない」「もっとわかってほしい」

そう感じるときほど、自分の欲求から離れて、
周囲の状況をよく見た方がいい、そう思った。

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