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対話型の組織開発と島の常識・大企業の非常識

カテゴリ:世の中の事

先日、珍しい人とランチを一緒にすることがあった。
いつも忙しく、島外にもよく出張に出かけていて、
いつも自分のこと以上に島のことを考えているような人。
いや、自分のことと島のこととの一致を常に模索していると表現するべきか。

ちょうど1週間の東京出張から戻ってきた
その人(Aさんとしよう)から聞いた話が面白くていろいろ考えてしまった。


対話が「トレンド」であることの不思議

ある組織開発の大きなカンファレンスに出席したAさん。
基調講演の主題とされたのは、これまでの診断型から対話型へ、
組織開発の在り方の新しいトレンドが生まれていることについて。

カンファレンスに出席する大企業の担当者たちは、
その講演にひどく感心していたという。
それを聞いて愕然としてしまった、というのがAさんの話。

仕事で絡むことの少ないAさんの感想にも即座に共感できたくらいに
島では「対話」という概念はごく自然に浸透している。

不確実で、言ってしまえばそう明るくもない未来に対し、
この島で今何をすべきかを日々考えさせられている側としては、
そこに集った人たちが腹を割り、時間をかけて対話するのが大事というのは
(できているかどうかは別として)当然のことのように思える。
そうでもしなければ前向きな未来のイメージを共有するのは難しい。

グローバル市場で日夜厳しい競争にさらされる大企業が
未だ「対話」を組織開発に取り入れられていないというのは、滑稽な話にも思える。
「対話」への注目度の高まりは例えば本屋にでも行けばよくわかる。

対話型をとると一人ひとりが自己変革の必要に迫られる。
一方的な指示を出すようなコミュニケーションをとる上司が
あるときから急に部下への声のかけ方を変えるのは難しいだろう。

Aさんはそう理由を説明していたが、確かにそうかもしれない。
対話の重要性を認識はしているつもりの僕でも、
その実践となるとどうしても自己防衛が障壁になりがちだから。


小さな離島での暮らしもそろそろ4年が経つ。
海に閉ざされた島において、思った以上に先進的な価値観が醸成されてきた。
マジョリティから離れているゆえかもしれない。
だからこそ、その気がなくても正論を振りかざさないようにしておきたい、と思う。

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「津山三十人殺し 最後の真相」が語るコミュニティの悲劇

カテゴリ:読書の記録

津山三十人殺し 最後の真相」は「八つ墓村」のモデルとなった事件を取り上げた本です。
城繁幸氏のこの記事を読んでからなんとなく気になってはいました。

城氏はこんなことを書いています。

本当の疎外というのは、もともと縁なんて無い無縁社会ではなく、 縁で形成された有縁社会にこそ存在するのだ

ちょうど東京から海士へ戻るときに空港の本屋で見つけたので、飛行機の中で読んでみました。

殺人者の狂気はコミュニティの狂気

たった一夜の間に、一人の若者によって30名以上の死傷者が出た事件は世界でも稀だそう。
しかし、その狂気を生み出したのは、閉鎖的なムラのコミュニティと祖母の存在だった、 というのがこの著者の主張です。

コミュニティに所属するにはなんらかのルールを遵守する必要があります。
コミュニティが閉鎖的であるほど、コミュニティの構成員を守る機能も強化されるが、
その代わり排他性もまた強まり、従ってルールもますます厳しくなるという循環に陥りがちです。

加害者・睦雄は肺病を患い、「ロウガイスジ(※)」の烙印を押されました。
(※肺病患者を出す家を差別するための蔑称)
それに加えて、徴兵検査の結果、お国のために戦うこともできなくなりました。

当時はお国のために戦うことが当然視された時代です。
逆に徴兵を拒んだり、検査から弾かれるという行為は忌み嫌われていました。
つまり、コミュニティの構成員であるためのルールから外れてしまったのです。
彼は、コミュニティから阻害されることとなります。

現代なら「差別だ!」「人類はみな平等だ!」と声を上げる人が出てくるかもしれません。
しかし、70年前の日本の田舎でそんな「キレイゴト」に耳を傾ける人がどれだけいたことか。

コミュニティの構成員の”幸せ”のためには、コミュニティは犠牲者を出すことは厭わないものです。
むしろ「排除」することでコミュニティはコミュニティたりえている、とも言えるのではないでしょうか。
日本の犯罪史上に名を残すこの悲劇は、コミュニティの狂気=「排除」が一因となっていると著者は言います。
僕自身、どうしても睦雄自身の異常性だけに原因があるとは思えませんでした。

さて、ここに現代の若者が夢想する「コミュニティ」の姿は果たしてあるのでしょうか。

コミュニティの狂気は、過去の遺物か

「排除」は現代も残っている、と言われて否定する人はほとんどいないでしょう。

学校や職場でのいじめ。親からのネグレクト。ホームレス。マイノリティ。
大学を卒業し、最初のキャリアとして非正規雇用に就かざるを得ず、
いつまで経っても正社員になれないまま、ワーキングプアを強いられている人。

コミュニティという小さい単位だけでなく、社会や仕組みからも排除される人たちがいます。

秋葉原のホコ天が一時閉鎖されたのも、就活生の自殺が倍増しているのも、
守られている人たちがいるゆえに、そこから排除された人たちがいるという現実の現れのように思えます。

以前、大阪で23才の風俗店勤務の女性が、2人の子どもを自宅に放置し、死亡させた事件がありました。

僕は、同じ構造をこの事件と「津山三十人殺し」とに見ています。

犯罪者の狂気は、社会やコミュニティによる「排除」から生み出されているのではないか。

「津山三十人殺し」に潜む現代の再現性:コミュニティと「親」の存在

コミュニティや社会からの「排除」という構造が現代の犯罪に共通していると見ることで、
「津山三十人殺し」が過去の遺物でないという重要な示唆に目を向けることができます。

もう一つ、この70年前の悲劇には、「家族への憎しみ」が暗い影を落としている、と著者は言います。

両親を早くになくした睦雄と姉の2人は、祖母によって育てられました。
著者は祖母と睦雄との間に血のつながりがないこと、睦雄が宗家の長男であることを指摘し、
祖母が「祖母自身の身を守るために」睦雄を溺愛した、と分析しています。

続いて著者は、宅間守や土浦での無差別殺人事件の加害者に憧れる若者へのインタビューに言及します。
彼らには、溺愛のあまりに干渉し続ける親への愛情の裏にある強烈な憎しみが見られた、と。

津山三十人殺し 最後の真相」で僕が最も共感したのは、この部分。

睦雄のような心は僕らの心のなかにもあって、また僕らの誰もが、睦雄のようになってしまう可能性はあるのだ。

勧善懲悪で済ませるのは、あまりに短絡的な思考と言わざるを得ないでしょう。
犯罪は僕らの誰かが起こしているのであり、その構造を作っているのは僕らなのです。
僕らは常に加害者になりえるし、誰かが犯罪に走ることに僕らは一切加担していないとは断言できないのです。

僕らが生み出したツケを誰かが払っている。
それなのにいつだって僕らはその膿を洗うことだけに必死になっている。

そんな風に思えてなりません。

※本記事は過去のブログから転載しました。

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「主体的」な行動をつくりだす唯一のポイント-《他者》

カテゴリ:自分事

主体性、あるいは主体的であることが求められる時代。

しかし、言葉だけが独り歩きしている感を受けることも少なくありません。
たとえば、「それは積極性と何が違うの?」と突っ込みを入れたくなるような。

教育の現場においても、主体性を意識しない日はありません。
悪名高い「ゆとり教育」も、その一つの目的は「生徒の主体性の獲得」にありました。
ところが、「ゆとり」という言葉はむしろ主体性の欠いている若者をイメージさせます。

「ゆとり」の矛盾は、「主体性とは何か」というそもそもが議論されていないために生じています。
「他者」を発見する国語の授業」にそのヒントを求めてみたいと思います。

※そもそも論になるため、長文です。

で、主体性って何よ?

そもそも「主体的である」状態はどうやってつくられるのでしょうか。

真に「主体的」とは、人間の新しいよみがえりの過程において、きびしく自己批判・自己変革する主体のあり方のことであろう。(略)
それを可能にするのが、自己相対化の目である。私は、そのような目を獲得するためにもっとも重要かつ有効な働きをするのが、他者理解の行為だと考えている。
では、他者理解とは何か。それは他者の文脈に沿って、自己の視座を転換し、そこに展開する論理を正確に受け止めたり、イメージを豊かに思いえがいたりすることによって、成り立つものである。(略)
主体とは、ア=プリオリに存在するものではなく、他者とのかかわりの中で、常に生成・変革するものである。
(以上、田近洵一『言語行動主体の形成』より引用)

このように、「主体」とは、他者との関わりにおいてはじめて存立可能なものであり、したがって「主体性」もまた「他者性」との関わりにおいてはじめて確保しうるものと考えるべきであろう。

「他者」を発見する国語の授業

「主体」とは「他者理解」、つまり「他者」を「私」の理解の仕方、慣習ではなく、「他者」その人の様式で以って「他者」を理解しようとすることの繰り返しで形成されるものです。
「他者」とは「私」によって”都合よく”理解されるものではなく、むしろ「私」とは備わっている文脈が全く異なるものを指します。
ここでは単なる「会話の相手」と「他者」が用語として区別されていることに注意が必要です。

「主体性」は「他者性」によって形作られるものである。では「主体性」とはどのようなあり方を指すのでしょうか。

自然発生性そのものは、まだ対象変革の主体成立を約束するものではないのであって、状況によって強いられる絶望、その絶望を生み出す世界と自分との関連を根底的に対象化する認識は、その端初の形態としてはその状況の直接的制約の外にあるもの、そうした直接性に対して一定の距離設定が可能な視点に成立する。(略)自然発生性そのものは、どんな段階にあろうと、階級的主体性を成立させる意識性ではない。それは依然として主観性にとどまる。
(以上、梅本克己「主体性の問題」『岩波講座哲学Ⅲ 人間の哲学』より引用)

つまり、「主体性」とは、世界と自分との間に形作られる状況を、「一定の距離設定」をして「対象化」する「意識」に支えられている。これに対し、「自然発生」的で状況との距離設定がなされない「直接性」のもとでは、行為は「主観的」なものにとどまる、というわけである。

「他者」を発見する国語の授業

この「主体性」/「主観性」の定義に従えば、「積極性」と「主体性」が必ずしもイコールでないことがわかります。
たとえば「だめなものはだめ」と言い張るような人たち。これでは「一定の距離設定」がうまくいっているとは言えません。
「やらざるをえないからやる」という「自然発生的」な行為もまた「主観的」な行為の範疇になります。

「一定の距離設定」のもとに状況を「対象化」する「意識」と「主体性」はどう関係するのでしょうか。

それは具体的には、社会学者の大澤真幸が指摘する「二重の水準」における「選択」を可能にする意識と同質のものであろうと思われる。氏によれば、ある行為が「主体的」だと感じられるのは、次のような場合であると言う。すなわち、ある行為を遂行しようとする場合、まず「何のために」という価値や目的のレベルにおいて「選択」が行われ、次いでその実現のための具体的な手段・方法のレベルにおいて「選択」が行われる。そしてこの「二重の水準」における「選択」がその行為者個人に帰せられるというような場合、その行為は「主体的」だと見なされる。簡単に言えば、目的と手段の「選択」が行為者主体の判断に基づく場合、それは「主体的」な行為と見なされる、というのである。
これを先の梅本の論と重ね合わせるならば、状況と「一定の距離」をとって、それを「対象化」しえたとき、主体は「意識的」に目的と手段とを「選択」することが可能になる。そういう状態を「主体的」と呼称し、もし、状況との距離がとれず「直接的」である場合、主体には「意識的」な「選択」は不可能で、そういう状態を「主観的」と呼ぶ。

「他者」を発見する国語の授業

「主体的」とはある主体が「意識的」に目的と手段とを「選択」できている状態を指します。
つまり、主体的な行為者の前には、目的と手段のニ領域において常に選択肢(オルタナティブ)があるということです。
盲目的に「脱原発」「反原発」を主張する方々はこの意味において「主観的」であり、彼らには見えていないものがあるのです。

すなわち、ある主体が「主体的」にある行為を「選択」するということは、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が可能性として「意識」されていなければならない。

「他者」を発見する国語の授業

ここにおいて「主体性」と「他者性」の関わりが露になります。
“「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」”を「意識」するためには、先に引用した「他者理解」の行為が不可欠だということです。

よくよく考えてみると、これは当たり前の話です。
世界が「私」の中で閉じている限りは、行為の際に「別の選択肢」を考慮することは実現しえません。
「私」の外側にある異質なものを認識できない「主体」が、「他者」のとりうる「選択」を想像できるわけがないからです。

主体的に行動するために:「他者」と関わろう

さて、これまでの話を整理すると、

・「主体的」な行為とは、目的と手段の両方の「選択」が行為者主体である場合を指す
・目的と手段を「選択」するためには、自身が置かれた状況と「一定の距離設定」をする必要がある
・状況と「距離設定」ができるためには、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が「意識」されなければならない
・「他者」による「別の選択肢」を「意識」するためには、他者との関わりが不可欠である

ということになります。

したがって、「主体性」を獲得するためには「他者」との関わりの中で自己を相対化する「目」を養うことが第一です。
それには「他者」とは何か、単なる会話の相手とはどう異なるのかを整理する必要があります。

柄谷は、ウィトゲンシュタイン後期の「言語ゲーム」論とクリプキによるウィトゲンシュタインの読みに触発されながら、「他者」についてこう論じている。
「《他者》とは、言語ゲーム(規則)を異にする者のこと」である。あるいは、他者とは「共同体」を異にする者と言うこともできる。この共同体という言葉を「共同性」と見なせば、「共同体は、いたるところに、多種多様になり、《他者》もまたいたるところに出現する」ことになる。一方、「私」をベースにして想定しうるような存在は「他者」ではない。それは「自己の『自己移入』であり『自我の変様態』なのであって、他者性を持っていない」。そしてこの他者性と向かい合うとき、「共同の規則なるものの危うさが露出する」。そういう「他者との対話だけが、対話と呼ばれるべきである」。

「他者」を発見する国語の授業

「他者性」とは、「私」が属している何らかのルールや規則に基づいて理解しようとしても理解できない(排除される)ものだと言うことができます。

高校生と接していると、彼らの友人関係は非常に固定的であることに気づかされます。
これは例え話ですが、高校でいじられキャラが定着している生徒は、同じ友人たちと関わっている限り、どこに行ってもいじられキャラです。
どうも、彼らの中では「A君=いじられキャラ」、あるいは「○○するやつはいじられるべきだ」という”ルール”が暗黙の了解になっているようです。
このルールに縛られた「共同体」の中では、「A君=いじられキャラ」以外の図式は基本的に無視される運命にあります。
そのため、友人たちの前でA君が何をしても、彼はいじられる対象として理解され、彼の異質な(意外性のある)キャラクターに注目が集まることはありません。
この意外性との遭遇こそが、《他者》との出会いであるのに。

受け手を「他者」と考えるとき、そこでは、「私」とは異質な受け手の知識や欲求、あるいは彼が生を営む文脈などを様々に推し量ることを避けて通れなくなる。したがってまた「対話」ということにおいても、その形ではなく、中身こそが問われるようになるはずである。このように「他者」という認識は、私たちに言葉の使用をより自覚的な行為へと高める効果をもたらす。

「他者」を発見する国語の授業

《他者》を認識できないのは、固定的なものの見方に捉われているからです。
もっと言えば、「私」に縛られている、と言うべきでしょうか。
あらゆる他人を(そして自分までをも)「私」の知りうる言語ルールだけで理解しようとする限り、《他者》との出会いが訪れることはありません。
「私」が理解できないものにこそ《他者》が潜む。
これを認めない限り、「主体的」にはなれないのです。

本書ではさらに、《他者》という存在の価値の射程を「創造性」にまで広げて議論しています。
「私」の「主体性」を生成・変容させる《他者》、これを認識することの重要性は無視できるものではないでしょう。

まとめ

「主体性」の獲得に求められるのは、「私」の中に収まる限りでなく、むしろ「私」の範疇を超えていく必要があることをここまで述べてきました。

「主体的」に行為していくためには?

この答えは、ただ一つ。《他者》-「私」の中のルールが排除しようとする者-を意識すること。
自らの枠組みでは捉えようのないものに目を向け、《他者》の文脈に沿って理解しようとする姿勢が求められるのです。

したがって「主体性」はある時点で完成するものでなく、「他者理解」の積み重ねで蓄積され、あるいは大きく変容させられうるものと言えます。
それは計画性とは無縁で、ときには「私」の意志に反する場合すらありえます。
《他者》との出会いの体験がどう自分をつくりあげていくのか。
私たちは、その終わりなき過程を楽しむべきなのかもしれません。

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