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今、ここを真剣に生きていますか?-元気になりたい方に

カテゴリ:読書の記録

「自分と最高に、付き合っている? 自分の世話を最高にしている?」

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

SFCで教鞭をとる長谷部先生のご著書。

一言で言えば、「元気をもらえる」一冊です。
道に迷った。立ち止まってしまった。そんな自分に焦りを感じるようなときに読むべき本、かもしれません。

滲み出す人柄

この研究室で、わたしが一番はじめに取り組んだこと。それは「共食」の習慣化、つまり、食事をみんなでつくって、みんなで食べることでした。
人が健全に生きるために一番大切な「食」という作業を、人とともに真剣に取り組むこと。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

冒頭からこれです。すごいなと。
著者の信念の太さというものが、そしてまた、このような教員を抱えられるSFCの底力が垣間見えるエピソードですね。

著者はSFCの教員になる前、東京で私塾を経営していたそうです。
そのときのエピソードがまた面白い。少し長いですが引用してみます。

この塾生のなかに、国語が苦手な小学校高学年の女の子がいました。彼女は空欄を埋めるような問題は得意でしたが、作文がとても苦手です。
ご両親の車で送られてくる彼女は、毎回、お母様お手製のきれいなお弁当をもたされていました。それを授業の前に食べるのですが、いつだってつまらなそうに食べるのです。
ある日、お弁当を食べ終わったときに、「今日お弁当の中身、何だった?」と聞いてみました。ところが彼女は、色とりどりのおかずが詰まったお弁当を、すごくいい匂いをまき散らして食べていたのに、しばらく空っぽのお弁当箱を見つめたあと、「わからない」と言うのです。
「いま食べたばかりよね?『わからない』って、お腹いっぱいになったんでしょ?それはお弁当を全部食べたからよね?何食べたの?」
「なんか。お肉・・・・・・」
「なんかお肉っていうお肉はないわよ。鶏だったの?豚だったの?何?」
「なんか・・・・・・揚げたヤツ」
「うん、だから何の肉?それから、つけあわせは?」
「・・・・・・なんか」
彼女の答えは、すべてが「なんか」でした。

それからわたしは、毎回、彼女のお弁当の中身を聞くようになりました。
彼女は一生懸命お弁当を見て食べて、内容を説明してくれます。
たったそれだけのことです。
それを続けただけで、彼女の国語力はメキメキ伸びて、学校で作文の章をとり、なんと全校生徒の前で読み上げるまでになったのです。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

日常会話でたまたまこのようなやり取りがあったとして、「毎回、彼女のお弁当の中身を聞くように」発想できるものでしょうか。
思わずため息が出ました。

本書に刻まれた言葉は真新しいものではないかもしれません。
しかし、著者の人柄がにじむようなエピソードに、きっと元気をもらえると思います。

”社会貢献という隠れ家”

「社会貢献」という言葉をファッションにしないでください。幻想を捨ててください。目の前で困っている人を、自己成長の種だと思わないこと。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

本書の第五章のタイトルは「社会貢献という隠れ家」。
僕が日ごろ思っていることがずばり書いていて、実にタイムリーな話題でした。

「こんなところまで来て、どうして水汲みなんかしなくちゃいけないんですか!」

「ボランティアをやりに来ました!何でもやりますから、やらせてください!」

「草取り、もう飽きましたから、別のことをしたいんです」

「あの・・・・・・高校で映像を見たんです。バングラデシュの貧困問題について」
「それって、あなたが問題意識を持ったっていうよりも、誰かの問題意識を見せてもらっただけよね?貧困に対する問題意識をもったのだとしたら、日本のそういう地区でボランティアをしてみたりもできるわけだけど。身近な実感があって言っているのかしら?」
「日本にそういうところって、あるんですか?」

「だいたい教育の先生が何しに来たの?その先生が、ニ~三日網なんかやって何になるの。どうせ漁師にならないんでしょ。ちょっとやって、何がわかって帰るの。で、またその次に新しい子が来るんでしょ。何になるわけ、そういうの。意味ないよ。どうせ来るなら一ヶ月くらい腰を落ち着けて来なさいよ」

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

「支援」や「社会貢献」という言葉を、完全無欠の「善」と信じきってしまう。
そんな傾向が、特に若い人の中で見受けられるように感じることがしばしばあります。
(教育にも同様の傾向が見られますね)

あなたが良いと思ったことを相手が良いと思う保障がどこにあるのか?

本気で支援したいと考える人がこの自問自答を避けられるはずがありません。
逆に言えば、そのような反省のない活動を”ボランティア”と称すべきではないでしょう。

この五章だけでも、多くの人に読んでもらえたらなあと思います。

 

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2012年 読んでおいてよかった本のまとめ

カテゴリ:読書の記録

2011年に比べ、2012年の読書量はだいぶ減ってしまいました。
Amazonの購入履歴やWeb本棚を見る限りでは、今年読んだ本の数は20冊ちょっと。

それでも、数少ない中で気に入った本がいろいろありましたので、5冊ほど時系列でまとめてみます。
堅い本が多いですが、じっくり読むだけ印象に残っているようです。

来年はもう少し読書量を増やしたいところですね。

1.現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

日本の社会学者では高名と聞く著者による一冊。
年末年始の帰省の際に実家の本棚を漁っていたところ発見しました。
どうも兄が購入していたもののようですね。

これが非常に面白い。
小室直樹氏の書籍を読んで市場原理というものに興味を持つようになりましたが、本書も社会学のアプローチで「情報化/消費化社会」を切り取ろうとするものであり、似たような興奮を覚えながら読むことができました。

まだ内容を咀嚼できていませんが、21世紀のあるべき姿を考える上で「資本主義からの脱却」という言葉の安易さに怪しみを覚えていた身として、本書の指摘にこそ希望があるように思えます。
どう見ても大きな流れとしてグローバル化と資本主義が浸透しているのですから、そこから目を背けるわけにはいきません。
資本主義は欠陥のある不完全なものなのか、それとも何らかの妨害があって未だ完全に機能していないものなのか。
まずはその点を整理することで、大きな方針が見えてくるのではないでしょうか。

2.ヤノマミ

ヤノマミ、それは人間という意味だ。ヤノマミはアマゾン最深部で独自の文化と風習を一万年以上守り続ける民族。シャーマンの祈祷、放埓な性、狩りへの帯同、衝撃的な出産シーン。150日に及んだ同居生活は、正に打ちのめされる体験の連続。「人間」とは何か、「文明」とは何か。我々の価値観を揺るがす剥き出しの生と死を綴ったルポルタージュ。

Amazon.co.jp: ヤノマミ: 国分 拓: 本

実際にアマゾンの奥地で暮らす民族「ヤノマミ」を追ったノンフィクション。

グローバル化が進み、「地球人としての倫理」と呼ぶべきものまでが少しずつ僕たちの生活になじんできている昨今。
僕たちが「理性的」と思っている価値観とは、全く異なる”倫理”に従う人たちの暮らしが問いかけるもの。

ヤノマミの営みを通して、僕らの当たり前をもう一度疑う。
正しい・正しくないの一元論に区別できない混沌の中に身を投じることで、「何か」が確実に僕たちの心に刻まれる。
これまで生きてきた中でも相当に不思議な読書体験となりました。

なお、著者はもともとNHKのドキュメンタリーの取材・撮影が目的でした。
その映像作品もDVDとして販売されていますが、こちらも非常におすすめです。
書籍の方も、映像では表現できない部分がまざまざと記述されています。

表現力が乏しくて恐縮ですが、とにかくすごい!の一言です。

3.日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

地元の歴史を調べるにつけ、日本史自体を学びたいと感じ、手に取った一冊。
Amazonの評価も相当高いものでしたが、高校で日本史をろくに学ばなかった私でも非常に面白く読めました。

表題に「よみなおす」とあるとおり、「日本史のジョーシキ」をひとつひとつ丁寧に整理しているのが本書です。
日本は古くから本当に農民が大多数を占めていたのか。船を用いた交流がどれだけ行われていたのか。
「士農工商」とあるように、商工業者の社会的地位が低いのはなぜか。
目からウロコとはまさにこのことで、本書を読むだけで日本史の捉え方が変わってくるように思います。

なお、著者はこれとは別に「日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)」をはじめとする「日本社会の歴史」シリーズを上中下巻で発表しており、こちらは時系列で日本史を追うことができます。
私は古代に特に関心を持っていたので中巻の途中で挫折していますが、日本史を一度学んだことがあるなら苦もなく読み薦められると思います。
こちらも併せておすすめです。

4.「他者」を発見する国語の授業 (大修館国語教育ライブラリー)

池袋のジュンク堂書店で購入。
国語の関連本は、近年話題になっている論理的思考力とかPISA型学力とか、そういった流行を追っている書籍が多かった中、異彩を放っていたのが本書でした。

個人的にも「言語化」という切り口で、あるいは「農村型/都市型コミュニティ」という切り口で、個人が自立し、個人と個人とで関係性を築く方法を模索しているところで、大当たりの本でした。

そもそも本というのは読み方が人それぞれ異なるものです。
そこに「他者」に触れる機会を見出すというのは至極真っ当な発想でしょう。
ところが、国語の授業の現場ではその点は軽視されている印象があります。

入試においては採点の問題から唯一の解が設定されますが、これは客観的な読みを前提として成り立っています。
これはこれで論理的に詰める力を問うものとして一定の意義がありますが、授業としての国語はもう少し可能性があっていいかもしれません。

「私」を意識するのは「私でない人たち」との出会いがその契機になるように思います。
「私」と「他者」が触れ合うことで順次境界線が引かれ、ある部分では交わったり、ある部分では対極をなす。
この繰り返しで「個人」が自覚されるというのは、「言語化」の力を鍛える上で僕自身が重要視している点と一致します。

もっと深く読み込んだ上で、来年の早いうちに書評記事を掲載できればと思っております。

5.日本文化の形成 (講談社学術文庫)

「蝦夷」とは何かを自分なりに調べる上で、一番に手にとったのが本書。
ここには宮本常一氏の真摯さと幅広い知識とが凝縮されているように感じました。

蝦夷の話についてはすでに書いた記事を見ていただくとして

僕が個人的に感銘を受けたのは、この論を書き上げた著者の力量です。
僕自身、さまざまな本を通して知識がつながり、よりいっそう理解が深められ、自分の問題意識が明確されるという経験がよくあります。
宮本常一氏のすごさはその膨大な知識量と積み重ねられたフィールドワークの知見にあります。
知識を持つだけでなく、かといって知識を軽視しない。
前提知識があるからこそ現場で得る情報量は尋常ではなく、さらにそこからアブダクションにつなげることができる。
僕自身も地元の歴史を探究していく上でも、日ごろの読書活動においても、このスタンスをとっていきたいと感じました。

「知識の蓄積はデータベースがしてくれる、人間は検索できればよい」
そんな風潮もありますが、知識と知識をつなげる根本は人間が担うものです。
それすらもコンピュータに取って代わられるのかもしれませんが、僕は人間だからできること、その能力をもっと伸ばしていきたい。
本書はそんな僕の背中を押してくれたように思います。

 

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自分のことが分からない人に、他人のことは分からないという話

カテゴリ:自分事

争いは自らが起こす

判断材料は「自分」

僕の職場である公設塾、隠岐國学習センターでは「春季講座」が先週から始まっています。

英語と数学の教材をひたすら進めさせていると、誰もが躓く分野が結構見えてきます。
そのまま放置するわけにもいかないので、教授法を検討するわけです。

で、この検討会が面白い。
教える側の大人が何をするかというと、

問題を解くプロセスを細分化する
普通、どのようにその問題を解いているのか、そのプロセスを振り返ります。
感覚で解いている人にとっては、解き方を言葉にする作業は難しさが伴います。
ああだこうだ言いながら、より一般的に通用する形を模索します。

生徒の間違いのパターンや傾向を把握し、分類する
ブレストっぽく「こんなふうに間違えていた」という情報を出し合い、それをグルーピングしていきます。
そうして「誤解・誤答のメカニズム」を推測していきます。
ここでは間違いの”レベル感”を見極めることも重要です。

適切な教授法を検討する
解き方と間違え方を土台に、どう教えたらいいかを検討します。
例題を参考に実際に問題を解かせる、何度も反復させる、などの方法が良く使われます。

みたいなことをしています。
こういう議論に参加するために必要とされるのは、「自分」を分かっていることに他なりません。

自分がどのように教科書の内容を理解しているか。
自分がその問題を解くに当たって、どのような順序で処理しているのか。

自分自身の解き方すら分からない人に、他人の解き方を考えることはできません。
それは取りもなおさず、プロセスを細分化したり、間違いをパターン分けしたりするための判断材料がないということだからです。

材料として最も身近な「自分」すら活用できていない、ということです。

他人のことを理解できない人たち

他人の気持ちを慮ったり、相手の立場になって考えてみたり。

これができない人たちの特徴とは何か。

自分のことをよくわかっていない

この一点に尽きると感じています。

勉強の内容を適切に教えることができないのは、解法のプロセスや誤答のメカニズムをきちんと把握していないことが主な原因です。
それは自分自身が無意識でやっていることを、相手に説明できるレベルまで言語化する力がない限り、不可能です。

適切なコミュニケーションのためには小手先のテクニックは用を成しません。
自分が伝えたいことを正確に把握することと、相手が伝えようとすることを(自分の都合ではなく)相手の都合の良いように把握することの両方が必要です。

自分が伝えたいことは自分にしか分かりません。
だからこそ自分自身を把握しようとすることが求められます。

相手が伝えたいことを相手の文脈に沿って聴くためには何が必要でしょうか。
自分自身のコミュニケーションを振り返ることが、相手のコミュニケーションを理解するための近道になるはずです。
自分のコミュニケーションのメカニズムすらわからないのに、相手のそれに対して配慮することが、果たしてできるのかと思ってしまいます。

相手の立場に立てない人は、自分自身を客観的に捉える力を鍛える必要があるのかもしれません。

注意すべきは、都合の悪い事実を押し隠そうとする”自己保身”の力学です。

「私がそんなふうに考えるはずはない」 「私は自分のことをよく分かっている」

自分を正確に捉えようとする行為は、ある種の苦痛を伴います。
これは「自分が”他人”として立ち現れる」経験であるといって良いでしょう。
教科教育の分野では、「思っている以上に頭で理解しておらず、感覚で解いていた」という事態に直面するような、ショッキングさ。
しかし、そこに踏み込まなければ自分自身の理解というものはありません。
自分が何を知り、何を知らず、何ができて、何ができていないのか。
そうしてあらわになった自分は、他人を分かるために活用されるに足る信頼性を獲得する、そういうものだと思っています。

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