グローバル人材の要件-大企業ではなく日本社会が求めるモノ

カテゴリ:世の中の事

Facebookにポストしたら、意外とリアクションが良かったので。

Twitterでグローバル人材の定義の奥行きのなさを嘆く声があって、なるほどなあと思った。

社会が望んでいる「グローバル」とは、戦うフィールドの広さではなく、守るべき対象の範囲の広さなのだと思う。

世界で戦っても、それが会社のため、自分の生活のためなのであれば、20世紀の延長でしかない。

隣人のため、地元のため、地域のため、日本のため。背負うものが大きくなる方が、よっぽど大変なんだよね。でも、それこそが今、世の中に、21世紀に必要なこと。

大企業に求められる「グローバル人材」なんていらない

激しく同意。 RT @: グローバル化。日本から外に出ていく、田舎から都会に出ていく事だけが外向きで、若者が故郷に留まったり戻ってくることを内向きなんていう人がいるが、自分の田舎が廃れて行くのをほっぽっといてグローバルな感覚なんて安っぽすぎる。
@muneo_yamazaki
山崎宗雄

このつぶやきを見て、すぐさまとあるブログ記事を思い出したのでした。

子守さんが今朝の新聞記事から、ユニクロの柳井会長兼社長の「グローバル人材論」を選んだので、それについてコメントする。
柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」
ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。
だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。
「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」
「3-5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」

『百年目』のトリクルダウン (内田樹の研究室)

内田樹氏のブログに、ユニクロの柳井会長兼社長のコメントが引用されています。
ユニクロといえば、いまや日本を代表するグローバル企業。
なるほど、今の企業が求めるグローバル人材のエッセンスが見え隠れしていますね。

しかし、同じ記事で内田樹氏はこのグローバル人材要件に対して難を示しています。

私は読んで厭な気分になった。

(中略)

この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。
端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。
老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。
そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。

※太字は引用者による。

『百年目』のトリクルダウン (内田樹の研究室)

国民が、日本社会がエリートに期待しているのは、内田樹氏のいうところの「国民経済」なのです。
しかし、そのエリートが押し寄せる大企業には「国民経済」の観点が抜け落ちています。

自由化を進め、競争を促進し、競争に勝つものに資源を集中させ、それ以外の部分に再分配するという「トリクルダウン」という発想は、資本主義の100年間が示したように、現実としてはほとんど機能しませんでした。
この競争の時代の結果残るのは、逃げ切りを図り肥大化したグローバル企業と、搾取され疲弊した人々でしょう。
企業が求めるグローバル人材育成に注力したところで、それが日本社会にとって効果的な投資なのかどうか、疑問を抱かずにはいられません。

「グローバル人材」の要件を再検討する

大企業が世界で闘うのは、なんのためでしょうか。
飽和しつつある日本の消費市場に依存していては、企業の持続的な成長、引いては企業の存続の可能性が狭まるからです。
ほとんどの場合、グローバル企業は自分たちのために海外の市場に手を伸ばしているのです。

世の中はグローバル化していますが、これは21世紀のあるべき姿というよりは、20世紀の資本主義の当然の帰結と言えます。
あれだけ反省の声が絶えない20世紀の延長線上で闘うことで、「国民経済」は改善されるのでしょうか。

ユニクロの柳井会長が掲げる「グローバル人材」の要件は、限界を露呈した資本主義の生み出した概念に過ぎません。
この20世紀型の要件を満たす人材は、「国民経済」に寄与することなく、相変わらず格差を野放しにし、疲弊する人々を減らすどころか増やす方向へ事を進めていくように思えてなりません。
21世紀に生きる僕らが本当に求めている人材要件とは何かを考える必要があります。

ヒントは、前述の「国民経済」という観点にあります。
そのエッセンスは、
>老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計すること
という点にあります。

これは国レベルで言えば、社会保障の枠組みの話、再分配の議論です。
自治体単位になると、公共サービスや制度設計の問題になるでしょう。
これを個人レベルで考えると、どうなるでしょうか。その先に、あるべきグローバル人材の姿が見えてくるように思います。

「国民経済」を実現する人材像とは

一面的な見方をすれば、「国民経済」を追求し、実現に結びつける人材とは、他の国民が「食える」ようなくらい稼げる人材のことです。
この解釈では経済性のみに注目がいくので、もう少し柔軟な見方が必要でしょう。

21世紀のグローバル人材がもたらすべき効果について具体的に検討する前に、まず概念的なところから。
冒頭にあるように、僕としては「グローバル」とは闘うフィールドでなく、守ろうとする対象の範囲と捉えています。
守るべきものが自分や組織だけであった20世紀の資本主義を反省すれば、そう考えるのが僕にとっては自然なことでした。

資本主義の進展と共に生じる予測不可能なリスクを、個人が自分自身や家族といった単位を守ることで対応する社会こそがグローバル社会の結果だったとは、ジグムント・バウマンも指摘するところでした。
一層の個人化が進む流れを認めるその一方で、それに抗するように、徐々にではありますが「コミュニティ」というものが確実に見直されてきています。
個人の「自由」が拡大した結果、「安全」が失われた時代において、個人や家族を超えた「コミュニティ」という単位によって「安全」を取り戻そうという動きは、日本各地で起こっています。

これらを踏まえたうえで、これからのグローバル人材に求められる「グローバル」性とは何か?
僕は、”国境を超える”という元々の意味からもう少し踏み込んで、個人や家族といった単位―ローカル―の対比としてのグローバルというとらえ方をするべきだと考えています(ちょっと無理矢理?)。
守るべき対象を、知人、隣人、地域、国…というローカルな単位の枠組みを超えるように設定する。
これが21世紀型で求められるグローバル人材の条件の基本的な考え方となるのではないでしょうか。

これまで:「どこで闘うのか」 ⇒ これから:「何のために闘うのか

生産性を向上させるためには、闘うフィールドが重要になります。
しかし、生産性向上は「国民経済」をむしろ脅かす雇用のシュリンクを招くことも忘れてはいけないでしょう。
生産性の追求は一定程度必要とは思いますが、常に守るべきもののことを念頭に置かなければなりません。

守るべき対象(=ステークホルダー)は少ない方が楽なのは当たり前です。そっちの方が生産性は上がります。
一方、個人や組織というローカルな単位を超えて守るべき範囲を拡大させるのは非常に難しい。
ビジネスモデルの構築にしても、検討すべき変数が増えるわけですから、一筋縄ではいけません。
この困難にあえてチャレンジする人材が、日本中で(そしておそらくは世界中で)求められているはずです。

概念的な話題に終始してしまいました。
21世紀における「仕事」とか「働く」という価値観の変化する予兆を感じながら、今後徐々にこの議論を深めることができたらと思っています。

関連する記事

言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト

カテゴリ:世の中の事

言語化という言葉の本記事における定義

この記事では、「自分の思っていることや伝えたいと感じていることを的確に表現すること」を「言語化」と呼ぶことにします。

言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、ということを僕は経験的に学んできました。それが本記事を書くモチベーションになっています。

ここでいう言語とは、自然言語はもちろん、コミュニケーションにおいて情報を伝達する手段として用いられるすべてを含めても良いでしょう。

 「言語化の能力」とは、
・伝えたいことを自分がより納得できる状態で把握し、
・その内容をできる限り損なうことなく相手に伝える
能力をここでは指しています。

本記事では、その能力がどのような場合に鍛えられ、あるいは芽を摘まれてしまうのかを検討してみました。

文末ではデザイン思考との関わりについて考察しています。

「言語化の能力」について掘り下げる

まずは、先に挙げた「言語化の能力」というものについて細かく見ていきます。

>伝えたいことを自分がより納得できる状態で把握し、

伝えたいことを言語化する。そのために、まずは自分が何を表現したいのかを知らなければなりません。ここで「自分がより納得できる状態で」という言い方をしたのは、「伝えたいことを」正確に「把握」することは厳密には不可能だと思うからです。

つまり、「伝えたいこと」を「把握」するという作業は「正解を選ぶ」ことでは実現できない、ということです。”適切な表現を追及し続ける”という表現の方が適切です。

>その内容をできる限り損なうことなく相手に伝える

「伝えたいこと」が把握できたら、今度はそれを表現してコミュニケーションの俎上に載せなければなりません。ところが、「伝えたいこと」を再現性の高い状態で把握出来たところで、それをそのまま相手に伝えられるかどうかは別の問題です。コミュニケーションはその相手や文脈など、複数の変数に依存して成立するものだからです。それらを総合的に加味した上で、適切な表現が求められます。

 こう書くと、誰もがこう思うはずです。「それ、難しいよね……」そう、実際、難しいのです。

アーティストは言語化能力が高い

美大出身者やアーティストの方と話をするとき、「この人たちはものすごく”語れる”人だなあ」、「言語化能力が高いなあ」と感じることが多々あります。

なぜか。「ユニークであることが常に求められるから」そう考えると説明がつくのではないでしょうか。アーティストは創作のスタンスにしろ、アウトプットにしろ、常に自他からアイデンティティを問われるはずです。

「あの作家とどこがどう違うの?」「この作品と同じじゃない?」「なぜあなたはそれをつくるの?」「その作品の意義はなに?」

そんな言葉を簡単に投げかけられてはいけないし、投げかけられた際には納得のいく回答が求められます。

「自分が他人と違う」ということは当たり前のことですが、突き詰めてユニークなアウトプットに落とし込むのは非常に難しい。他人と自分の違いを認識するためには、双方をできるだけ深く理解することが不可欠だからです。

これはまさに言語化の作業です。アーティストは常に言語化を強いられるわけですから、その能力が自然と身につくのも当然と言っていいでしょう。

同時に語彙も身につくはずです。ユニークであること、表現者自身のアイデンティティは、当然ながら他人にも理解されなければなりません。自分の考えをより適切な形で把握し伝えるということは、ボキャブラリーの拡張の必要に迫られるということだから。

つまり、コミュニケーションの基本的な手段である「言葉」の精度を高めることを日常的に経験している。結局、アーティストとしての表現手法を問わず、彼らは「言語化」に強くなるのではないでしょうか。

言語化能力の養成を阻みうるハイコンテクスト文化

「言語化」を要請され続ける生き方とは逆に、言語化能力が育まれない環境もあると考えています。「言葉にしなくてもなんとなく伝わる」 環境では、わざわざ言葉にする力を伸ばすのは難しい。そう考えさせられるケースをこれまで何度か見てきました。

日本や東アジア諸国は「ハイコンテクスト文化」と言われています。逆に英語圏などは「ローコンテクスト文化」に当てはまります。

ハイコンテクスト文化
聞き手の能力を期待するあまり下記のような傾向があります。

  • 直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
  • 曖昧な表現を好む
  • 多く話さない
  • 論理的飛躍が許される
  • 質疑応答の直接性を重要視しない

ローコンテクスト文化
話し手の責任が重いため下記のような傾向があります。

  • 直接的で解りやすい表現を好む
  • 言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
  • 単純でシンプルな理論を好む
  • 明示的な表現を好む
  • 寡黙であることを評価しない
  • 論理的飛躍を好まない
  • 質疑応答では直接的に答える

ハイコンテクストとローコンテクストの違い

「コンテクスト(context)」は一般に「文脈」と訳されます。引用部に「聞き手の能力を期待」とありますが、つまり、「言わなくてもわかるよね(わかってよね)?」というコミュニケーションになりがちなのが、ハイコンテクスト社会です。そこでは言葉ですべて説明する必要がありません。

引用先のページにある例が面白いので引用してみます。

ある商社で「先週のインドネシアでの商談はうまくいったのかい」という問いかけがあったとします。日本型のコミュニケーションスタイルでは、
「人間万事塞翁が馬。今のインドネシア情勢の変動は激しく予断を許さないからね。今回の契約もどうなるかとヒヤヒヤしていたんだ。人間諦めないで最後まで頑張ってみるものだね・・・・」
のように、問いに対する答えを直接的に伝えることよりも、周囲の状況や自分の感情などを詳細に説明することで共感を求め、肝心の答えは相手に推測してもらおうとする傾向があります。

一方、英語型のコミュニケーションスタイルでは、
“It was so successful. We got two new big contracts there.”「非常にうまくいった。大きな新規契約を2つ結んだよ」
のように、問いに対する回答や結果などの重要な情報を明確に伝えます。推測しなければならないような回答は、伝達側の努力不足でありルール違反であり、非常に無責任なものととられます。

ハイコンテクストとローコンテクストの違い

質問に対する回答を「文脈」に預けるか、「言葉」に預けるか。二つの文化間の違いがにじみ出ていますね。

言語化能力の養成という観点からすれば、ハイコンテクスト文化は文脈の活用を促進し、具体的な「言葉」による表現を避ける傾向を生み出します。

ハイコンテクスト文化が必ずしも悪とは思いません。例えば俳句は、たった17字の中に組み込まれた文脈を読み手が想像することで、芸術性を成り立たせています。日本を代表する小津安二郎の映画にも、文脈をふんだんに利用した描写や台詞回しが見られます。

察する力が読み手に求められるのは、ハイコンテクスト文化という背景があってこそでしょう。この独特な表現手法は、文脈を積極的に活用し、相手の察する力に働きかけることで豊かなものとなります。

一方、相手の察する力に依存し、
文脈に”丸投げ”するコミュニケーションは、
具体的で的確な表現を放棄する方向に働きます。

劇作家の平田オリザも指摘するところですが、最近の親は子どもに「ねえ、あれ」と言われるだけで、その時々の状況により食後のデザートを出したり飲み物を出したりするそうです。これは、文脈依存の最たるケースです。赤の他人では一切成り立たないコミュニケーションに慣れると、いざ他人と話す際のコミュニケーションの文法を身に付けないまま、社会に出ることになりえます。

文脈に依存しやすいのは、前提を共有している場、「みんなわかるよね?」という空気の影響にもよります。

学校、会社、地域…。同調や共感を強いる側面を持つこの空気感は、「農村型コミュニティ」の特徴とも言えるでしょう。この場では、同調が暗黙の前提であるゆえに、共有されている文脈にないこと(=説明が要ること)は話題にあがりません。

必死になって自力で適当な言葉を選ぶのではなく、前提となっている文脈に頼り、みんなと同じ言葉を使う。こんな環境に居続ければ、他者理解どころか、自己理解すら難しいという事態に直面するのは当然です。

他者が分からない人間に自分自身の把握はできない。そもそも自分と他人がどう違うか、その差異を考え、表現する機会の乏しさがもたらす当然の帰結です。
(参考:《他者》:「主体的」な行為をつくりだすただ一つの手がかり

例えば、高校や大学卒業といった人生の選択を迫られるときに「社会的な尺度」(みんなの基準)でしか決められない。これが文脈依存者の末路のように思えてなりません。

改めて、デザイン思考

ここまできて、ようやく先日の記事につながります。

基準が「私」なのか「みんな」なのかの絶望的な違いとデザイン思考

デザイン思考の(おそらく)根本にある、理想と現実を可能な限りマッチさせようとする”気迫”は、文脈に依存し、言葉を曖昧なままにする文化の中で育つことはありえるでしょうか。ほとんど希望はないと言っていいでしょう。

ハイコンテクスト文化においては「察する力」が求められますが、近年ではその衰退を嘆く声すら上がっています。
この悪しき文脈依存の状況を断ち切らなければ、僕らは「わび・さび」すら感じられなくなるかもしれません。大量の情報を並べ、グルーピングし、それぞれに文脈を埋め込んで図示するという、デザイン思考のエッセンスとも呼べる作業も遂行できないでしょう。

[1]Design Thinking

定義

デザイン思考は、技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なものと、人々の要求とを一致させるために、デザイナの感覚と手法を利用する方法、である。

デザイン思考の系譜 | Design Thinking for Social Innovation

「技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なもの」と「人々の要求」を「一致させ」ようとする”気迫”。それは、「試行錯誤アプローチ」とも呼ばれる、プロトタイピングによって徐々に精度の高いアウトプットを追及するプロセスにも現れています。そしてこのプロセスは「自分は何を求めているか?」という、終わりの見えない問いに対して、より適切な表現を探し続ける作業に似ていると感じます。

そういう点で、デザイン思考は、ビジネスを促進し、イノベーションをもたらすもの以上の意義があるのかもしれません。単なるビジネスの一手法として捉えるのはちょっとつまらないなと思います。

※以下の記事でも「言語化」についてコミュニティの視座からまとめてみましたので、よろしければご笑覧ください。

「言語化」の台頭とコミュニティの変遷~農村型コミュニティの衰退~

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基準が「私」なのか「みんな」なのかの絶望的な違いとデザイン思考

カテゴリ:自分事

精神論or自己啓発論っぽいタイトルですが。

物事の判断や評価の基準に「みんな」とか「一般的に」といった物差しを持ってくる人と、「私が決めたから」「自分はこう思うから」と言える人。
この両者の間には、なにか絶望的なまでの違いを感じることが多いです。

“絶望的な” という表現は、両者の優劣ではなく、一方からもう一方へ移ることのできる可能性に対するものです。
なぜそのような違いが生まれるのか、そのメカニズムからしてよく分かりません。
しかし、確実にその区別は存在しているように思います。

判断基準をみんなに託すことについて

判断や評価の基準を自分でなく他の何かに託すことの最大の弊害は「納得感を得られない」ということです。
「みんな」の基準は、自分が本当に求めていることとずれているからです。

至極当たり前のことを言いました。
統計的に就職活動生の志望に関するトレンドを把握することは可能ですが、当然ながら実際の志望は一人ひとり異なります。
これは卑近な例ですが、要は「みんな」の基準は一人ひとりの基準と比べれば抽象度が高い、ということになります。

世の中に流布され共有される価値観というものは、抽象化されてしまっています。
全体的な傾向を把握することはできるかもしれませんが、一人ひとりの人間の具体性に迫ることは難しいのが実状です。
「みんな」や「世間」は、自分をある程度代弁してくれるのかもしれませんが、しかしそれらは同時に個々人の性質をある程度無視しているのです。

アイデンティティは自己同一性と訳されますが、言い換えると「任意に二人を選べば、その二人は必ず異なる」ということ。
極論を言えば、一人ひとりの課題は個別具体的なアプローチでしか解決を見出せないのです。
しかし、それではあまりに効率が悪いため、 今では集団からある程度共通の性質を抽出し、抽象化された「問題」を解決するのが一般的なアプローチとなっているでしょう。
文字にすればこれはものすごく当たり前のことだと分かるのですが、あらゆる場面で見過ごされているのが事実です。

「みんな」や「世間」の基準で判断し、評価することには限界があるということは、ほんの少し考えれば分かることです。
しかし、実際にはそれらに頼る人が少なからず存在するように感じています。
(もちろん、100%自分の基準を採用している人もいないでしょう。したがって両者のブレンド具合の問題となります)

「ほんの少し考えれば分かる」はずなのに、できる限り自分の基準で選ぶということができない。
このメカニズムが、よく分からないのです。

デザイン思考との関連について

関連があるとすれば、それはデザイン思考の分野です。
デザインのプロセスにおいては、抽象性と具体性を行き来することが求められます。

発想法―創造性開発のために」という本で「KJ法」が紹介されています。
「KJ法」は、フィールドワークから収集された事象の中に関連性を見出し、グルーピングし、図解し、文章化する作業を経て、具体性から抽象性を引き出します。
ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術」でも紹介されており、現在でもワークショップなどで活用されています。

この手法で肝心なのは、個別具体的な事象から抽象的な「まとめ」を引き出す過程では既存の知識体系やフレームワークを持ち込んではならない、という点です。
求められるのは、常に目の前に並べられた数々の事象の中に埋め込まれている関係性や構造を見出すことなのです。

調査等で明らかになったさまざまな要素のあいだの関係性を見つけて構造化する作業を行なう際に自分たち自身でそこに隠れた関係性を発見することができず、結局、どこかから既存の枠組みをもってきて、その枠の中に要素を位置づけてしまう。つまり、要素間の関係性を眺めながらこれまでの文脈にない構造=ルールを見出すことができず、既存の枠組み=ルールのなかで解決しようとしてしまう。それではルールのなかでうまくやることはできてもルール自体を新しく作るようなイノベーションはできない。

切開~抽象化する思考スタイルの欠如:DESIGN IT! w/LOVE

既存のものを適用するのではなく、「見出す」という観点が重要である。
これは、判断基準を「みんな」に託すことの危険性にもつながる議論ではないでしょうか。

「実践より理論」ということに対するアンチテーゼとして、プロトタイピング等で「理論より実践」にいくぶん回帰した方向性をみせるデザイン思考のポジションも日本では理解されません。それはあくまで「実践より理論」とうことによって可能になったデザインするという行為が、ほんのすこしだけ「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのであって、まずは抽象化による理論化が身に付いていない日本においては、そのまま受け入れられるものではないということが認識されていない。

切開~抽象化する思考スタイルの欠如:DESIGN IT! w/LOVE

もしかしたら、既存の知識体系や「みんな」の基準に頼ってしまうのは、「抽象化による理論化が身に付いていない」ためにそうせざるを得ない、という背景があるのかもしれません。

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