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ルーチンワークもばかにできないという話

カテゴリ:自分事

引っ越してからようやく念願の自炊生活に着手できている。
レパートリーはまだまだ充実に至っていないが、
自宅でできたてのものを食べられることが地味に嬉しい。
常備菜を仕込んでおけば食卓の彩りも容易に賑やかになる。

料理を始めた当初は戸惑いもあるし手際も良くないが、
ある程度作り慣れてくると手早くつくれるし
洗い物や副菜の同時進行もできるようになる。
レパートリーが増えれば材料に依る部分も減る。
上達を手軽に実感できるのが料理の良いところだと思う。

忙殺されているときに思い立って料理をしてみると、
気分が多少リセットされたような気になることがある。
ある程度決まった工程に沿った作業というものは
進捗が見えやすいし大体は労力や工夫がさほどいらない。
しかもきちんと成果が残る、という点で料理は優秀だと思う。

ルーチンワークの有難さ

前置きが長くなってしまったけれど、
ここで言いたいことは、ルーチンワークのありがたみだ。
料理を例にしたが、これは様々な職場でも当てはまる。

決まりきった作業は一見退屈だが、
よほど緻密にマニュアル化されていない限り
どんな作業にも工夫の余地はあるし、
確実にその作業を処理しているだけでも達成感は得られる。

むしろ能力を超えたパフォーマンスを要求される方がストレスになる。
力を抜けるタイミングがないし、満足のいく成果に達するのが難しい。
その切迫感が心地よいと感じる人もいるだろうが、ごく稀な例だと思う。

こういう仕事ほどToDoリストに溜まりやすい。
ライフハック的教訓はいつも「大きな仕事は細切れにしろ」と言う。
自分の能力と努力の範囲で達成可能なレベルに落とし込めば、
ストレスな仕事ができるという教えと僕は捉えている。

ルーチンワークの罠、あるいは上手な付き合い方について

言うなればルーチンワークはCゾーンかその周辺にある。
だからこそ陥りやすい罠もあることには気を付けたい。
ついルーチンワークに偏ってしまうというのがそれだ。

自分にとって難しい仕事ほど自分の成長につながるし、
大きな成果によって貢献できる可能性は高まる。
しかしそうした仕事ばかりではしんどさが溜まる一方だ。

要はバランスの問題であって、能力を超える仕事をするために
ルーチンワークをリズムをつくるため、
あるいはどん詰まり感からのリセットのために活用するのが良い。

実はここまでの話はほぼ前職時代に受けた教育のおかげだ。
ついついルーチンワークに逃げがちな自分を叱咤しつつ、
あるべき姿に近づけるようになりたいものだと思う。

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”仕事観”について最近考えていること

カテゴリ:自分事

最近、「仕事観」のずれがもたらす影響について考える機会が増えています。

「寝食を忘れて没頭できる仕事がしたい」「仕事を通じてとにかく成長したい」
「仕事は稼ぎのため、プライベートを第一にしたい」「なるべく楽をしたい」

「仕事観」は人それぞれですし、一体感の高い職場であってもずれがあって当たり前。
それでも自分自身では核となる価値観を手放さないようにしたい。
なるべく、この核となる価値観だけは共有できる人たちと働きたい。

そんなことを思いつつ、最近大きく2つのことについてぼんやり考えています。

1.「仕事」=「価値をつけること」が唯一解なのか?
2.一つの組織の中で多様な「仕事観」を受容することは可能なのか?

「仕事」=「価値をつけること」で取りこぼすものはないのか

糸井 だって、たいがいの仕事というのは「価値をつけること」ですからね。
河野 そのとおりですよね。
糸井 「市場をつくる」のが、仕事ですから。それ以上、何があります?

新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 (ほぼ日ブックス)

仕事を通じて価値を生み出し、その対価としてサラリーを得る。

たぶん多くの人が共感してくれるし、大事にしていることだと思います。
ところが、もし”「仕事」=「価値をつけること」”と考えていない人と仕事をしなければならないとしたら。

大小を問わず「価値をつけること」があらゆる働く人に課されているとして、
「価値をつけること」のどこまでが本人次第なのか、ということは考えてみていいと思います。

マニュアル通り動くだけで価値をつけることができる仕事。
ほとんどの工程を自分で考え、それでも価値がつかないかもしれない仕事。

後者の方が尊ばれるのは稀少な能力だから、というのはよくわかります。

ところがその逆、つまり「自分で考えないこと」、「主体性の欠如」について、
なぜこれだけ「悪」として見なされてしまっているのでしょうか?
(そう思っているのは僕だけ、でしょうか)

実際、僕も自分に「主体的である」ように意識しようとしていますし、
他人の受動的な態度にイラッとさせられることがないとは言えません。

でもそれって、単に相手が僕と違う価値観だから、と言うだけではないか。
相手が間違っている、僕が正しい、と胸を張って言えるのか。
最近そのあたりが引っ掛かっています。

「価値をつける」
その測り方が限定的だから、人の評価も一面的になるのかも。

”多様”の前提にあるもの

(見た目上)「主体性」のない人と働けるかどうか、という疑問の先には
多様な価値観を受容する職場はいかにして可能か」という問いが待っています。

 多くの、特にグローバルな領域で活動する企業・組織が重視し始めている「多様性」。
しかし、僕が就職活動を経ていわゆる「多様性」のカタチとして思い描いたのは
「ある一定の価値観・能力・資質を持っている前提での多様性」でした。

広義には「多様性」とは性別や国籍、宗教だけでなく、
能力、資質、志向、価値観、生まれ育った環境など様々な要素が含まれます。
人材要件が足きりラインとなり、「多様性」の中に入り込めない人がいる。

当然、能力の劣る人が所属することは組織にとって大きなデメリットです。
その中で達成される「多様性」とは何なのか。
それとも、あらゆる人を包摂できる組織こそが「多様」といえるのか。

あるいは「多様性」の名の下に「あのひとは違う」と判断するのが早すぎるのかも。
本当に違うのか、その違いは本当に決定的なもので、折り合わないものなのか。
「違い」を「価値」に転化できない組織の問題ではないのか。

そのような問いを立て、性急になりすぎる自分にブレーキをかけたい。

僕自身の課題:「ジャッジ」

こうしたことを考える自分自身の課題は何か。

学習する組織 現場に変化のタネをまく 」を読んだときに思ったのは、
他人をジャッジしてしまうのが当たり前になっている、ということです。

「いい/悪い」を第一印象ですぐに決めつけてしまう。
その印象を引きずると、その印象を証明するように相手の行動をジャッジしてしまう。
第一印象が悪い人に対しては、その人の悪い行動ばかりが目に入るようになり、
ついつい「ほら、やっぱりだ」と自分の第一印象を証明しようとする心の動きがある。

ジャッジしてしまうと自覚するだけでもある程度コントロール可能になりますが、
そもそも第一印象の時点でジャッジしてしまう癖はなかなか抜けません。

僕自身が「仕事観」について固定的に見ている部分があるというか、
一定の足きりラインを設定しているからなのだと思っています。
しかしそれは「そうできない自分が嫌だから」という理由で
自分を律するために課してきた側面もあるので、簡単に解決できる問題でもない。

そんなことも考えつつ、自分の仕事観をほぐしていくためにも、
寛容であること、多様性を受容するということについて探究していきたいものです。

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若者が仕事にやりがいを求める背景についての考察

カテゴリ:世の中の事

ひとの居場所をつくる」を最近読み終わりました。
ランドスケープ・デザイナーの田瀬さんの世界観を通して、
自分が求めているものについて改めて考える機会となっています。

農業や農的な営みは自分には関係ないことと思っていましたが、そうではなかった。
水と馬を核とした農のある暮らしが、僕にとってすごく理想的に見えたことに驚いています。

思わぬ気づきがあった理由について考えを巡らせているうちに、あるキーワードに出会いました。
それが、もしかしたら日本人、特に若者が「やりがい」を求める風潮の説明になるかもしれません。

島の高校生たちを見て思うこと

僕は離島の公営塾で3年半ほど働いています。
この島にある公立高校は進学校というよりもいわゆる「進路多様校」に該当します。
離島ゆえに本土の高校へ通うには経済的負担がかかるため、
大学進学を希望する子も高卒で就職を考えている子も通学しているためです。
(とはいえ年々大学進学を希望する生徒が増えている印象です)
また、わざわざ東京、大阪をはじめ全国から生徒が集まる稀有な学校でもあります。

島の高校生の進路の決め方は、公立進学校出身の僕にとって新鮮に映ります。
進学校の生徒は勉強するのは当たり前、大学進学は既定路線となっていました。
したがって大学の決め方も「手前から」考えることが多いように感じます。
つまり、得意・不得意で文理選択をし、実力的にいけそうな大学のラインを見積もり、
その中で興味が持てそうな大学・学部・学科を見繕うという流れ。
政経、法、教育、文など文系学部はすべて受験するなんて人も少なくないです。

ところが、島の高校生にとって大学進学は必ずしも既定路線化していません。
大学に行くと決める前に、なぜ大学に行きたいのかを考えている生徒が多いようです。
将来こういう仕事がしたい、そのためにこういうことを学びたい、だから○○大学△△学部に行きたい。
つまり、「向こう側から」考えているわけですね。

もちろん高校生ですからそのロジックには稚拙な部分も見られるわけですが、
自分の「内なる動機」を意識しないことには大学を選べない、そんな雰囲気を感じます。
進路多様校だからこそ、周りに流されない目的意識が要求されるという背景もあります。
近年関心が高まっているキャリア教育が流れを後押ししているという面もまたあるでしょう。

「内なる動機を大切にせよ」
こうしたメッセージが世に広まるようになった契機を考えてみたいと思います。

内発的動機こそ大事だと思わされてきた世代

たとえば、勉強というものの捉え方について。
高校生にもなると膨大な知識の習得が求められますが、何らかの意義を見いだせないと単に辛いだけ。
しかも、「いい大学に入って大企業に入ることがゴールではない」という風潮が主流になりつつある。
にんじんに頼り過ぎてしまうと、消耗しきった未来の自分がイメージされてしまう。

こうして内発的動機が大事なのだと悟る若者が出てくるのも当たり前かもしれません。
内なるモチベーションを保てる仕事、つまりやりがいのある仕事に若者が注目するのは、
世の中がそう思わせたからだ、という面は確実にあると思います。

「意味のないことなんてしたくない」

僕の中で大きいのは、「意味のないことはしたくない」という気持ち。
「これをやって誰が喜ぶのか」「これをすればどこかに不具合が出るのではないか」
そんなことで悩みながら仕事をするのは出来る限り避けたい。

実際、これまで価値があるとされてきたことが意義を失っていく様を目の当たりにしてきたわけですから、
「物事の意義」に向いた引力が一層強化されるのも無理がありません。

つまり、これは内発的動機付けにも関わる話です。
自己の利益だけを追求したいのではない。
自分のやっていることに意義を見出したい。
こうした欲求が芽生えれば、自然と仕事を選ぶ目も厳しくなるでしょう。

若者の「誰にでもできそうな仕事」を避ける傾向について言及する人もいますが、
これも仕事に対して意義を求めるからこそではないでしょうか。

また、バブル崩壊によって、同じ会社で定年まで働けるかもわからない時代になり、
定年まで働いたとしても公私に充実した暮らしが送れるわけでもなくなりました。
なおさら就職先選びには慎重にならざるを得ません。

ひとの居場所をつくる」を読んで導かれたのは、「徒労感のない仕事」というキーワード。
意義がないことはしたくない。自分の内なる動機を実現する働き方がしたい。
こうした僕の意識もまた、時代の流れによって形成されたのではないかと感じています。

社会貢献が「正解」に見えてくる

・忙しく働いて家庭を顧みないのは望ましくない。
・自己の利益追求の結果、環境を破壊したり、他者の犠牲を伴ったりするのは良くない。
・仕事に没頭しすぎて生きがいを見いだせないサラリーマンはカッコ悪い。

「否定」の言説ばかりの中で、自分はどういう働き方をすればいいのか。
「否定」されない仕事、自分が納得できる仕事とはどういうものか。
バブルの崩壊は「正解」の崩壊でもあった、と個人的には思っています。

こう見ると、次なる「正解」を探そうとする意識が芽生えるのも無理はないかもしれません。
社会貢献志向を持つ若者が増えているのもここにつながっているように思えます。
もちろん、社会貢献志向そのものが悪と断定することはできません。
しかし、そのモチベーションが「正解」を求める姿勢にあるとすると、齟齬が生まれます。

「自分はこうしたい」というエゴが原点なのに、「地域の課題だから」「人々が求めていることだから」というすり替えが行われる。
どこか地に足の着かない印象を受けたら、まずここを疑うようにしていますが、結構当てはまっているように思います。

「すり替え」というのは、「問題を創作している」と言い換えると分かりやすいかもしれません。
自分の「何か貢献したい」「こういうことをしたい」という思いに任せて、あたかもその問題が存在するような口ぶりで話す。

社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

「正解」を求めるのであれば、それはレールに乗るということと何が違うのでしょうか。
内なる動機を大切にしているようで、実は外見に強く注意を払っているに過ぎないということもありえるのではないでしょうか。
「内発的動機が重要である」という言説が、外発的動機付けに転じてしまったと見ていいかもしれません。

「心の声」に耳を傾けられる社会へ

これまでの話を整理しましょう。

・21世紀を生きる若者は、内発的動機こそ重要という風潮に包まれていた
・これまで当然視されてきた価値が失われる中で、一層意義の重要性が際立った
・バブル崩壊によって否定の言説が充満し、これまでの「正解」もまた失われた
・ところが、次なる「正解」を求めようとする外発的動機付けがかえって強化されてしまった

「やりがい」は内発的な動機付けが前提にあります。
「正解」を求める外発的動機付けによる「やりがい」志向、「社会貢献」志向はなんら本質ではなく、
だからこそ就職活動や地域活動で空回りする事態が発生するのかもしれません。

結局のところ、今の日本社会では「心の声」を受け止める土壌ができていないのだと思います。
内発的動機付けが重要視されながら、その具体的な作法が浸透していない、ということ。
(「心の声」について考察するだけで複数記事になりそうなので、一旦抽象的な表現に留めます)

ノイズをなるべく取り除き、自分の「心の声」に耳を傾ける。
自分の常識に囚われず、相手の「心の声」を拾い上げる。

結論は非常にありきたりな言葉に落ち着いてしまいました。
具体的にどうすればいいかは今後も引き続き考えていきたいと思います。

 

※就職活動については↓の書籍がなかなかおすすめです。

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