Category Archive: 自分事

知らないということ、或いはみかん1つ分のずれについて

カテゴリ:自分事

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「みかんがたくさん届いたので、よかったら自由に食べてください」

同僚が差し出した段ボールの中にはたくさんのみかん。

少し考えて、僕は言った。

「…じゃあジャムづくりに挑戦しましょうかね。」

「…いいみかんなので、ジャムにするには勿体ないです…」

みかんは「消費が大変なもの」では必ずしもない

ここまで読んだ方は同僚の発言をもっともだと思うのだろうか。

僕がジャムをつくると発言した理由は単純で、
みかんのように酸味があるものがあまり好きではないから。
ジャムにすれば自分でも美味しく大量に消費できる、という発想だった。

振り返ってみると、ここから同僚との間に2つのずれが生まれたことが分かる。

まず、僕はみかんを「消費するのが大変なもの」と捉えていた。

みかんを好んで食べない僕の元に突然みかん箱が届いたとしたら。
きっと「どうやったら食べきれるのだろうか」と途方に暮れるに違いない。

同僚がみかん箱を差し出したとき、
「これは食べきるのが大変そうだ。消費できるよう手伝うべきかも」
というようなことを無意識に考えたのだと思う。
だから、ジャムづくりを提案したのだ。

しかし、残念ながら(?)同僚はみかん好きだった。

みかんを価値あるものとみなせるかどうかの違い

質の良い果物はそのまま食べるべきという発想がなかったというのもある。

当たり前に考えたらその通りかもしれない。
高級な肉であればきっと素材が活きるように食べるはずだ。

しかし、大量に送られてくるような果物に対して、
それが貴重である、質の良いものだから美味しく食べるべき、
フツーはそういうふうに考える、という認識が欠如していた。

結局は「みかんが好きではない」で済む話なのだが、
そのことによってコミュニケーションのずれが起きるとは思っていなかった。

ずれから何を学ぶのか

ほんの数秒のやり取りにこれだけの文章量を割いたからには、
何かしらの学びや気づきを最後に盛り込まないわけにはいかない。
些細なプライドをもってこの記事を結んでいきたい。

1.価値を見いだせないものから学ぶことは難しい

自分が特に関心を持たないものから価値を見出すのは難しい。
価値がない、琴線に触れないと判断したから関心を持てないのであって、
意識的に注意深くなれない限り、価値を発見する機会には恵まれない。

僕はみかんを食べる”作法”を知らなかった。
関心を持たないということの結果が無知なのかもしれない。
常識がないという自覚はあったが、こんな形で露呈するとは予想外だった。

2.相手がずれに気づいてくれるわけではない

恐らく同僚は、僕がこのような思考過程をたどっていることを知らない。
みかんに対する同僚の捉え方はたぶん一般的だろうし、
したがって彼女が自分の視点の検討を迫られるケースは稀だろう。

僕自身も、「この考え方はフツーとはずれているんだな」と感じたからこそ、
こうした回りくどいプロセスによって捉え方を言語化するに至った、と思う。

 

というわけで、日常に占める「相手に頼る」コミュニケーションの割合は、
思った以上に多い、ということを改めて悟ったのだった。

ここから先、どう改善につなげるかはまた今度の課題としたい。

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学校内でつくられる人間関係の限界と「対話」の欠如について

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東北出身の高校生たちの姿を見て

先日、このイベントに「提言アドバイザー」という形で参加してきた。

ビヨンドトゥモロー東北未来リーダーズサミット2014

2泊3日という短い期間ではあるが、この場に集まった高校生たちは
チームの中で自分の個性を率直に出し合い、また受け止め合い、
ゴールを共有したうえで一丸となって課題に立ち向かっていた。

高校生たちの姿は見ていて本当に気持ちの良いものであり、
それは普段から高校生と接している自分にとっても新鮮だった。

そして、ふとこんな疑問が湧いた。

・1、2日の間でなぜこれだけチームとして機能しているのだろうか?
・どういう作用が働けばこのような場が成り立つのか?人?仕組み?

ぐるぐると反芻して導いた結論は、
“学校”の外に出ることができたからじゃないか」ということ。

フツーの高校生がきらきらと輝く場

先に断っておくが、このサミットに参加した高校生は
特別にリーダーシップがある子ばかり集められた、とか、
ディスカッション等の経験を十分にしてきた、というわけではない。

言わばフツーの高校生だ。見た目も、言葉遣いも、振る舞いも。
2:6:2のパレートの法則で言えば「6」に属する子がほとんど、という印象。
(実際、そういう子が意図的にこの場に集められている)

しかし、彼らは素直さやそれに伴う成長欲求を持ち、
チームに貢献する意識が強く、そして前向きな楽観さを持っていた。
普段は出せない自分の個性や前向きな気持ち、
素直さが自然に引き出されている、そういった印象を受けている。

「彼らの良さを引き出したのは何か?」

この問いに対する自分なりの回答をこしらえる過程で、
問いの前提にずれがあるのではないかと感じた。

問うべきはこうかもしれない。

彼らは普段の生活で良さを発揮する場面がないのではないか?

「フツーの高校生活」がもたらす抑圧について

 僕が「フツーの高校生活」に否定的な理由は個人的な経験による。
他ならぬ自分自身が、幼、小、中、高ともやもやを抱え続けていた。

「秋田を出なければ!仙台じゃだめだ!東京にいくんだ!」

そうしてたどり着いた東京での大学生活も、
「フツーの大学生になりたい」という出所の分からない、
しかし確実に僕の大学生活を制限する圧力があった。
まるで環境を責めている言い方だが、もちろん自分自身の内から
「フツーでありたい」という衝動が湧いていたことも認めよう。
そう思わせる何かが被教育時代に一貫してあったのは事実だ。

僕がその得体のしれない抑圧から解放されるためには、
「フツーの大学生活」の外に出ていくしかなかった。
自分が何を望んでいるのか。何に関心を持っているのか。
自分の内側をさらけだすようになってから、社会とのつながりが持てた。

「フツーこうだよね」という共通言語になっていないものを外に出す。
「みんなだいたい同じ」が前提のコミュニティ内ではしづらい行為だ。
お互いの価値観をさらけ出し、受け止め合う「対話」的関係は成立しにくい。

今回のサミットに参加した高校生は、普段のコミュニティを離れた場で、
これまで出せていなかったものを自然と出すことができる。
それによって彼らの良さが引き出されたのだとしたら、
「フツー」であることの抑圧の恐ろしさが見えてくる気がする。

思い、気持ちを素直に言葉にできる場づくりを

このサミットに参加する機会に恵まれ、
自分自身が教育という分野でやりたいことがある、ということが見えた。

それは有り体に言えば「高校生や大学生が自分らしくあれる場づくり」であり、
具体的に言えば「普段とは異なるコミュニティへのアクセスづくり」だ。

学校内の人間関係では「対話」的コミュニケーションは成立しがたい。
あくまで僕の経験則に過ぎないが、納得される方も多いのではないか。

未来のリーダーを育てたい、という強い意志があるわけでもない。
社会の構造的な問題を解決するためのコミットメントも今のところはない。
でも、普通の高校生が、「フツー」であることにとらわれずに済む
安全・安心の場があり、素直に前向きに自分を高めようと思える、
そんな環境づくりは、きっと昔から関心を持ち続けていたこと。

きっと、そんな小さな働きかけがソーシャルチェンジにつながる、
そんなイメージを持ちながら妄想を膨らませておきたい。

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「嫌われる勇気」の簡潔なまとめと感想

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「アドラー心理学」について書かれた以前から評判の本書。
知人から強く勧められたので借りて読んでみた。
「哲人」と「青年」の対話篇という珍しい形式をとっている。

せっかくなのでメモを取りながら読み進めてみたのだが、
特にメモを読み返して自分の中に響いた部分をまとめてみたいと思う。

このまとめはあくまで個人的な関心に基づいて書かれている。
本書の要点はここにまとめられた限りではないということは一応書いておく。

「嫌われる勇気」とは何か

「嫌われる勇気」というタイトルが示すものは何か。
もしかしたら「7つの習慣-成功には原則があった!」など
著名な自己啓発書を読んだことがある人なら何となく予想がつくかもしれない。

本書では「他者の承認を求めてはいけない」とはっきりと書かれている。
個人的に興味を持ったのはこのあたりだった。

哲人 たしかに、他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。自分の人生を、他人任せにしているのですから。たとえば親の敷いたレールの上を走る。ここには大小さまざまな不満はあるにせよ、レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。「いかに生きるべきか」という壁に直面するわけです。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

先行きへの不安、リスクを回避するために「他者の承認」を必要とする。
周囲の目を気にする背景にはこういう態度があるかもしれない、と確かに思う。

哲人 きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

言われてみれば当たり前のことだが、行動には常にリスクが伴う。
そのリスクをコストとして支払う”勇気”がなければ自ら行動を選ぶことはできない。

青年 裏切るかどうかは他者の課題であり、自分にはどうにもできないことだと?肯定的にあきらめろと?先生の議論は、いつも感情を置き去りにしています!裏切られた時の怒りや悲しみはどうするのです?
哲人 悲しいときには、思いっきり悲しめばいいのです。痛みや悲しみを避けようとするからこそ、身動きが取れず、誰とも深い関係が築けなくなるのですから。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

人と人との関係の中で痛みや悲しみをなくすことはできない。
だからこそ、他者と深い関係を築くためにコストを支払う勇気が必要となる。

うまくいくかどうか、だけで考えればコストは支払えない。
結果はいつでも、コストを支払う前ではなく後にわかる。

貨幣経済のおかげで、一定の金銭を支払えば特定の価値を得られるようになった。
それはあたかもコストを支払う前に結果は判明している、とも言える。
(金額が価値に見合わないことが判明すればクレームをつければいい)

コストを支払わなければなんのフィードバックも生まれない
言ってみれば自然界の常識であるこの事実に対して
リスクを最小限に抑える試みで満たされた現代社会の仕組みのために、
当たり前に生きるということが不自由になっている、と言えるかもしれない。

僕は、これが「嫌われる勇気」なのだと解釈した。

感想など

・アドラー心理学を求める現代社会という見方

アドラー心理学には芦田宏直氏の「機能主義」批判を想起させる何かがある、気がする。
そこを掘り下げればなぜ本書が多くの読者を獲得したのかが分かるのではないか。

振り返ると、幾つかの過去記事には通底する問題意識があるように思う。

大量生産/大量消費される価値観と若者の不安

社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

書き出すと長くなりそうなのでまた別の機会に改めて整理したいと思う。

・個人的な評価と感想

さすがに広く読まれているだけあって読みやすいような工夫がある。
それゆえに、世に溢れている自己啓発書との差別化は難しいのかもしれない。

僕も読後の感想を本書を貸してくれた知人とシェアする中で
本の中身を越えて「この本が世に受け入れられたわけ」に思い至ることができた。
自分の内だけで閉じずに気になったところを言い合うだけでも、
人によって注目する点に違いが出てくるという当たり前のことに気づける。
それが本書の主張を実践する第一歩になるのかもしれない。


※Kindle版

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