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小中学校・高校がなくなると集落が消滅するという話

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国立教育政策研究所-人口減少社会における学校制度の設計と教育形態の開発のための総合的研究(PDF注意)

離島の高校の存続と魅力化の一端に関わる身として、実に興味深い報告書です。

(1)調査研究の目的
我が国の人口減少局面を踏まえて中長期的な将来を見据えると,近い将来に現状のままでの学校教育機能を維持することは困難となる地域が増加し,教育政策上の大きな課題となることが予想される。これからの人口減少期における学校教育に関する政策形成と制度設計に向けた検討に資するため,それらに先行して検討課題を整理し,検討手法を開発し,及び調査結果や諸外国の事例など検討に有用な資料を蓄積することを目的とする。

「人口減少社会における学校制度の設計と教育形態の開発のための総合的研究 最終報告書」の概要について(PDF注意)

本報告書は全体版で300ページ近くとかなりのボリュームですが、
人口減少社会への対応として、これまでの統廃合の在り方の評価やICT活用の活用性、
日本や海外の事例分析など多岐にわたる研究成果が収められています。

その中でも気になった以下の2章に目を通してみました。

・第13章 諸外国における人口散在地域に対する教育政策
・第17章 人口減少下における農山村地域の変容と地域社会の存続要件―教育環境に着目して―

これらを読んでみてわかったこと。
それは「学校がなくなると地域がなくなる」ということでした。

中国の事例―行き過ぎた統廃合の先に

中国では、特に農村部において義務教育を普及させること及び都市部と農村部の教育の質の格差是正を第一の優先課題とし、都市部と農村部の教員人事交流、情報通信技術を用いた農村部への優れた授業の配信、寄宿制学校の建設等を含む様々な施策が展開されてきた。義務教育の普及が一段落した今、学校統廃合等による様々な弊害に対応しつつ、少子化に本格的に対応する必要に迫られている。

人口減少社会における学校制度の設計と教育形態の開発のための総合的研究

中国は日本の約25倍の国土面積。
ご存じの通り中国は都市と農村の経済格差が著しく、義務教育の普及も遅れているようです。
1986年の「義務教育法」制定以降、国を挙げて初等中等教育の普及に力を入れてきました。

施策としては情報技術を活用した遠隔指導、授業料以外の諸経費や教科書代の補助、
寄宿制学校の設立、都市部と農村部の教員の人事交流、非常に多岐にわたっています。
実際、大規模な投資が功を奏し、中国国内の年々義務教育は発展していきました。

義務教育普及のための教員給与等を負担していたのは郷・鎮レベルの政府であったが、財政難により給与不払が生じるなどの問題が生じたことから、2001年以降、国務院が「義務教育の改革及び発展に関する決定」に基づき、県レベルの政府に教員給与を負担させるよう指導した。この結果、管理業務が負担となった県は、同決定13条「地域の状況に応じて農村の義務教育段階の学校の配置を調整する」に基づき、小規模な学校及び教学点(農村地域において第1~4学年までを対象とする教育コーナー)を統廃合し、地域の中心となる学校への教育資源の集中化、中心学校への寄宿舎設置を実施してきた。

人口減少社会における学校制度の設計と教育形態の開発のための総合的研究

ところが、業務負担を嫌った県が統廃合を推し進めてしまい、
2010年には義務教育普及率が100%に達したものの、様々な課題が噴出しています。

・児童生徒数が5000~10000人を超えるマンモス校が出現、設備不足や衛生状態悪化
・児童生徒が数十キロを徒歩で通学するケース、学校近くの民家に寄宿するケースが発生
・寄宿にかかる費用や交通費により家計の圧迫
・家庭教育の機会損失
・安全基準を満たさないスクールバスによる死亡事故の多発

さすがというべきか、日本では考えられない事態も見られますね…。
そして気になるのは以下の記述です。

また、直接教育に関することではないが、農村の中心的な文化施設である学校がなくなり、教員がいなくなったことで文化的求心力がなくなるとともに、児童・保護者が移動した結果農村コミュニティが荒廃したこと、少数民族の児童が早くから地域や家庭を離れて中心学校に入学するため、伝統文化の継承が難しくなっていることなども課題となっている。

人口減少社会における学校制度の設計と教育形態の開発のための総合的研究

児童・保護者が移動した結果農村コミュニティが荒廃
少数民族の児童が早くから地域や家庭を離れて中心学校に入学するため、伝統文化の継承が難しくなっていること

日本と中国では国土面積に大きな差があるので一概には言えませんが、
日本でも同じような事態が起こることは想像に難くありません。

教育は投資か/コストか。
ここを間違えると、学校だけでなく地域の存続に関わるわけです。

日本の農山村地域の消滅要因と教育環境

隣国の事例から学校の存続と地域の存続の関係性の示唆を得ました。
日本における農山村地域の存続要件に関する研究からも、教育環境の重要性が垣間見えます。

ここでは端的に2000年時点の日本の市町村のデータを用い、
「定住人口維持要因」を分析した調査結果を紹介します。

いわゆる「中山間地域」において人口維持可能な自治体と過疎化が進む自治体を分ける変数として、
影響度の高いのは経済的な要因がほとんどですが、
その中で「高校通学困難集落率(※)」も有意な変数として挙げられています。
※自治体内における高校への通学が困難(最寄りの高校まで20km以上)な集落の割合

それをさらに「山間地域」に限定すると、「高校通学困難集落率」の影響度は
数ある変数の中で最上位に位置してきます。

また、別の調査では小中学校や役場などの公共施設へのアクセスが
集落の消滅に影響を与えるという結果が出ています

詳しくは本報告書をご参照いただきたいところですが、
ここからシンプルにいえることは、定住人口の維持のためには
教育環境の影響が無視できない、ということになります。
日本では公立校の統廃合が進められていますが、
それが地域の存続に関わる、という行政も望まない結果が待っているかもしれません。

おわりに

本報告書はこれ以外にも示唆に富む報告が含まれています。
個人的にはオーストラリアにおける人口散在地域の事例も興味深いものでした。
が、長くなるので本記事では扱いません。
教育の未来を考えたい人はぜひご一読を。

 

僕が関わる「島前高校魅力化プロジェクト」も、
発端は島唯一の高校・隠岐島前高校の統廃合の危機でした。

高校がなくなると地域がなくなる

改めて見ると実に的を射た危機感だなと、感銘を覚えてしまうのでした。

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”仕事観”について最近考えていること

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最近、「仕事観」のずれがもたらす影響について考える機会が増えています。

「寝食を忘れて没頭できる仕事がしたい」「仕事を通じてとにかく成長したい」
「仕事は稼ぎのため、プライベートを第一にしたい」「なるべく楽をしたい」

「仕事観」は人それぞれですし、一体感の高い職場であってもずれがあって当たり前。
それでも自分自身では核となる価値観を手放さないようにしたい。
なるべく、この核となる価値観だけは共有できる人たちと働きたい。

そんなことを思いつつ、最近大きく2つのことについてぼんやり考えています。

1.「仕事」=「価値をつけること」が唯一解なのか?
2.一つの組織の中で多様な「仕事観」を受容することは可能なのか?

「仕事」=「価値をつけること」で取りこぼすものはないのか

糸井 だって、たいがいの仕事というのは「価値をつけること」ですからね。
河野 そのとおりですよね。
糸井 「市場をつくる」のが、仕事ですから。それ以上、何があります?

新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 (ほぼ日ブックス)

仕事を通じて価値を生み出し、その対価としてサラリーを得る。

たぶん多くの人が共感してくれるし、大事にしていることだと思います。
ところが、もし”「仕事」=「価値をつけること」”と考えていない人と仕事をしなければならないとしたら。

大小を問わず「価値をつけること」があらゆる働く人に課されているとして、
「価値をつけること」のどこまでが本人次第なのか、ということは考えてみていいと思います。

マニュアル通り動くだけで価値をつけることができる仕事。
ほとんどの工程を自分で考え、それでも価値がつかないかもしれない仕事。

後者の方が尊ばれるのは稀少な能力だから、というのはよくわかります。

ところがその逆、つまり「自分で考えないこと」、「主体性の欠如」について、
なぜこれだけ「悪」として見なされてしまっているのでしょうか?
(そう思っているのは僕だけ、でしょうか)

実際、僕も自分に「主体的である」ように意識しようとしていますし、
他人の受動的な態度にイラッとさせられることがないとは言えません。

でもそれって、単に相手が僕と違う価値観だから、と言うだけではないか。
相手が間違っている、僕が正しい、と胸を張って言えるのか。
最近そのあたりが引っ掛かっています。

「価値をつける」
その測り方が限定的だから、人の評価も一面的になるのかも。

”多様”の前提にあるもの

(見た目上)「主体性」のない人と働けるかどうか、という疑問の先には
多様な価値観を受容する職場はいかにして可能か」という問いが待っています。

 多くの、特にグローバルな領域で活動する企業・組織が重視し始めている「多様性」。
しかし、僕が就職活動を経ていわゆる「多様性」のカタチとして思い描いたのは
「ある一定の価値観・能力・資質を持っている前提での多様性」でした。

広義には「多様性」とは性別や国籍、宗教だけでなく、
能力、資質、志向、価値観、生まれ育った環境など様々な要素が含まれます。
人材要件が足きりラインとなり、「多様性」の中に入り込めない人がいる。

当然、能力の劣る人が所属することは組織にとって大きなデメリットです。
その中で達成される「多様性」とは何なのか。
それとも、あらゆる人を包摂できる組織こそが「多様」といえるのか。

あるいは「多様性」の名の下に「あのひとは違う」と判断するのが早すぎるのかも。
本当に違うのか、その違いは本当に決定的なもので、折り合わないものなのか。
「違い」を「価値」に転化できない組織の問題ではないのか。

そのような問いを立て、性急になりすぎる自分にブレーキをかけたい。

僕自身の課題:「ジャッジ」

こうしたことを考える自分自身の課題は何か。

学習する組織 現場に変化のタネをまく 」を読んだときに思ったのは、
他人をジャッジしてしまうのが当たり前になっている、ということです。

「いい/悪い」を第一印象ですぐに決めつけてしまう。
その印象を引きずると、その印象を証明するように相手の行動をジャッジしてしまう。
第一印象が悪い人に対しては、その人の悪い行動ばかりが目に入るようになり、
ついつい「ほら、やっぱりだ」と自分の第一印象を証明しようとする心の動きがある。

ジャッジしてしまうと自覚するだけでもある程度コントロール可能になりますが、
そもそも第一印象の時点でジャッジしてしまう癖はなかなか抜けません。

僕自身が「仕事観」について固定的に見ている部分があるというか、
一定の足きりラインを設定しているからなのだと思っています。
しかしそれは「そうできない自分が嫌だから」という理由で
自分を律するために課してきた側面もあるので、簡単に解決できる問題でもない。

そんなことも考えつつ、自分の仕事観をほぐしていくためにも、
寛容であること、多様性を受容するということについて探究していきたいものです。

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勉強に対するやる気の構造:誰のための勉強?

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以前「勉強にやる気が出ない生徒の特徴」という記事を書きました。
ここでは勉強にやる気が出ない原因を環境に注目して整理してみました。

本記事ではより生徒の内部的な課題に注目しながら、
やる気のない生徒、勉強に集中できない子どもの原因を考えてみます。

その勉強は誰のためのもの?

生徒に教科指導する際には、やはり生徒の集中力に目がいきます。
その時間をいかに密度濃く過ごすかで学習の成果は大きく変わるからです。

集中しているかどうかは様子を見ればだいたい分かります。
落ち着きがなかったり、ぼーっとしていたり、隣に話しかけたり。

個人的に特に気になるのは、時計をちらちらと気にする生徒。
「この時間が早く終わってくれないものか…」という消極性が垣間見えます。

 studying

とはいえ「集中力がある/ない」の話で完結させるのはいかにも面白味がないですね。

僕がそういう生徒を見て感じることがあります。

この子たちはいったい誰のために勉強しているのだろう?

「自分のために決まっているだろう」と思う方もいるかもしれません。
しかし、それは本当にあらゆる子どもに当てはまるのでしょうか。

自分の未来に投資できない子どもたち

誰のための勉強か?

この問いはこう言い換えることができます。

自分のために勉強していない生徒がいるのではないか?

たとえば、カンニングをしてチェックテストに合格した生徒は、
テストには合格できたとしても、実力が伴っているわけではありません。
チェックテストは実力の確認と、勉強を促す関門を設ける目的で実施されるもの。
これはチェックテスト本来の意義を大きく損ねています。
彼/彼女は、チェックテストの時間を自ら生産性が一切ないものにしているのです。

何も生み出さないとしても、彼らはカンニングをする。
その理由は「怒られたくない」「悪い点数をとりたくない」と様々でしょうが、
本質的には「じゃあ勉強すればいい」というシンプルな結論に達します。


生産性のない(=自分のためにならない)時間を過ごすことを選んでしまう。
彼/彼女にとって、勉強は自分のためのものではないと見るべきではないでしょうか。

与えられた時間の中で最大限の成果を出そうとすること。
たとえ心から望まないとしても、目の前のことに向き合い、自分のものにしようとすること。
勉強が未来への投資であることを自覚できなければ、そうした姿勢をとることはできません。
(ここにこそ「勉強」と「社会人基礎力」を結ぶヒントがあると思いますが、それはまた別の話)

自分のための勉強ができるようになるために

カンニング行為はなぜ行われるのでしょうか。
仙台市教育委員会のある調査結果の中にそれを考えるヒントを見つけました。

教育に関する事務の点検及び評価 | 仙台市

リンク先の平成22年度実績のPDFには以下のように記されています。

「内発的意欲(自ら進んで学ぶ意欲)」の高さは学力に反映しているが,「外発的意欲(強制や報償などによる学ぶ意欲)」が高くても,「内発的意欲」が低い場合は,どちらの意欲も低いパターンよりも学力が振るわない傾向が明らかとなった。

教育に関する事務の管理及び執行の状況 の点検及び評価の結果報告書(平成22年度実績)

これを正とすれば、こう考えることができます。
すなわち、カンニング行為とは外発的動機付けだけが強化された結果である、と。

内発的動機付けを伸ばすことが大事だ

今では当たり前に耳にすることですが、その重みがこの調査結果から読み取れます。
周囲の大人からのメッセージが外発的意欲を刺激するばかりであるとすれば、
その子どもは目の前の勉強を自分が身に付けるべきものと捉えることができるのでしょうか。

「勉強は自分にとって必要なことだ、今やらねばならぬことだ」
そう思えるようになったら、話は早いのです。
だからこそ、周囲の大人のコミュニケーションが重要だと言われているのだと思います。

すべての子どもが「自分のために」勉強してくれることを願っています。

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